ガラス細工の針(8)
午後五時過ぎ。さすがに少し寝すぎたかもしれない。壁に掛かった時計の針をぼんやりと眺めた陽千香は、欠伸の代わりにため息をついてベッドから降りた。
仮病を使って保健室で寝るなんて初めてだ。すぐにバレて追い返されるかと思ったが、普段あまり保健室に来ないことに加え、実際元気はなかったので、看護教諭は何の疑いも持たなかったようだ。机に向かって事務仕事をしていた教諭に一声かけて部屋を出ると、陽千香は荷物を取りに教室へと向かった。
この時間だと、もうクラスメイトはみんな帰ってしまっただろう。部活の生徒は残っているかもしれないが、普通教室を使うような文化部はそろそろ解散の頃合いだ。階段を上がって自分の教室を覗くと、案の定誰の姿も見えなかった。座席の間を縫って自分の机に辿り着き、教科書を抜き取って鞄にしまい込む。明かりの消えた教室は、西日のせいで一層暗く見える。窓の外の夕陽を眺めながら、陽千香は今夜のことに思いを馳せた。
蒼真は来てくれるだろうか。本人の言葉どおりなら、力だけは貸してくれるはずだった。もしも来てもらえたなら、その時はせめて笑顔で迎えたいと思う。顔を合わせるたびにうじうじしているようでは、またウザいと言われてしまいそうだから。
今日何度目になるのか分からないため息を吐き出すと、陽千香は鞄の持ち手を肩に掛けた。もう帰ろう。かえって夕食の支度をして、普段と同じように生活しよう。日常の忙しさに振り回されてしまえば、余計なことなど考えている余裕もなくなるのだから。
ぽん、と。肩に手を置かれたのはその時だった。もしかして有紀? こんな時間までわざわざ待っていてくれたのだろうか。目を丸くしながら振り向いた陽千香は、自分の顔が見る間に強張っていくのを感じた。
「はろ~♪」
そう言いながら顔の前で手を振っていたのは、軽薄な笑みを浮かべた杉下だった。飯島の件で三人仲良く停学処分を食らったはずの彼が、何故こんな所をうろついているのか。
咄嗟に後ずさろうとした陽千香の肩をがっぷりと捕まえ、杉下は教室の外に向かって声を上げた。
「藤堂~、いいモン捕まえた~」
「あ~?」
応える声に、陽千香はますます身体を硬くした。藤堂まで来ているのか。だとすれば、三人とも揃っていることは想像に難くない。まだ処分の期間は明けていないはずだ。いったいどうして。
「んだよ杉下、いいモンって……お?」
頭を掻き回しながら教室に入って来た藤堂は、視界に陽千香を捉えて下卑た笑みを見せる。だらしない歩き方で近付いて来る藤堂を精一杯睨み付けながら、陽千香はできるだけ冷静に聞こえるように言った。
「どうしてこんな所にいるの? 停学中のはずでしょう?」
「おうさ、絶賛停学中。誰かさんのおかげでな」
手近な机の上にどっかと腰を下ろし、舐めるような視線を送ってくる藤堂は、よく見ればシャツにジーンズの私服姿だ。気が付いて杉下にも目をやると、こちらは毒々しい色合いのパーカーを羽織っている。停学中なのは間違いないようだ。"授業のある時間に学校に来ていない"という意味では。
「……最初の質問にも答えて。どうしてこんな所にいるの?」
藤堂は嘲るように鼻を鳴らして言った。
「別に大した理由なんかねーよ? あえて言うならヒマだからだ」
「みんなで遊びに来たんだよ~ん。そしたら運良く綾藤ちゃんを発見!」
藤堂に続けて口を開いた杉下が、何やら一人でおかしそうに笑っている。そうしている間も、彼の手はしっかり陽千香の肩を押さえていて、こちらは身体の向きを変えるのもままならない。三人の中では一番小柄だが、簡単に振り払えるほど非力ではないようだ。
「せっかく会えたんだ。ちょっと付き合えよ。こないだの礼も兼ねて」
ねっとりと語尾を伸ばしながら言う藤堂に、陽千香は低い声で言った。
「変なことしたら先生呼ぶわよ。授業が終わって生徒がいなくなったって、先生はまだ残ってるんだから」「呼びたきゃ呼べば? この場は切り抜けられるかもしれねーけど、後でお友達がどうなるかなー?」
「……と、もだち……?」
嫌な予感に声を絞り出すと、藤堂はスマートフォンの画面を眺めながら言った。
「篠山、だっけ? コイツめちゃくちゃ可愛いのな。モデルかなんか?」
「え~? 性格キツそう。オレこっちの市川ちゃんの方がイイな~」
背中に氷でも入れられたように寒気が走った。有紀達のことを知っている。陽千香と親しくしている人達のことを調べている。先日飯島に言われたことの重大さを、今になって理解する。
――気を付けてくださいね。あの人達、女子相手でも容赦しないっていうから……。
もし。もし先日のことを根に持たれて、周りの人に何かあったら。まるで貧血でも起こした時のように、目の前が真っ青に霞んでいく。耳鳴りが酷くて、藤堂達の会話が上手く聞き取れない。
藤堂が机から下りて立ち上がり、扉の方を指差しながら何事かを喋っている。恐らく付いて来いとか、そんなことを言っているのだろう。それを合図にするように、杉下が空いていたもう一方の肩にも手を置いて、陽千香を誘導するように力を入れてくる。到底逆らう気にはなれず、陽千香は大人しく従うしかなかった。
飯島の時も、きっとこんな感じだったのだろう。途中何人かの生徒の姿を見かけたが、彼ら彼女らはみな一様に、こちらを見ながらひそひそと何かを話しているだけで、関わろうとしてくる者はいなかった。当然だろう、誰だって自分の身は可愛いものだ。すれ違った中の一人くらい、先生を呼びに走ってくれるかもしれないが、この三人の天敵に辿り着くまで果たしてどれだけ時間がかかることか。
絶望的な気分になりながら連れて来られたのは、もう二度と来ることはないと思っていた屋上だった。錆びた金属扉の音に乗せて、藤堂達が銘々に口を開く。
「高橋ぃ、土産だぞー」
「お客様一名様でご来店~」
吹く風の中に、きつい煙草の臭いが混じる。胃の縮む感覚を覚えながら視線を上げると、菓子の袋やら何やらで散らかった床の中央に、スウェット姿の高橋が胡坐をかいていた。彼は手元に広げていた漫画雑誌を眺めながら「客だぁ?」と呟き、目付きの悪い視線でこちらを見やった。




