ヤマアラシのジレンマ(13)
すごいや。ホントに何でも叶うんだね!
***と同じ学校、たくさんの友達、欲しいもの全部。望んだ瞬間、俺の目の前に現れる。
まるで魔法だ。こんなことができるなら、もっと早く俺のところに来てほしかったな。
だけど、やっぱりこれは夢なんだね。
俺が一番欲しいもの、君には叶えられないみたい。
会いたいなぁ、会いたい。
***、今どうしてる……?
◇◇◇
今日の夢は随分と楽しそうだった。
やはりこれは宿主の夢なのだろう。記憶といった方が正しいのかもしれない。界境世界で思うまま願いを叶えて、段々それにのめり込んでいっているのが分かる。いつかリヒトが言っていたとおりだ。悪魔の見せる楽しい夢は、麻薬のように宿主を蝕み、そしていつしか宿主を殺すのだ。
今夜もまた一人で中庭に立った陽千香は、そこから探索に向かうのを躊躇していた。先日悪魔に追い込まれた記憶に足が竦んで、どうしても動き出す気になれない。このままここで立ち尽くしていても仕方ないことは分かっている。別に中庭が絶対安全というわけではないし、いずれは悪魔の方から嗅ぎ付けて来るであろうことも理解している。単に勇気の問題なのだ。今までもずっとそうだったのだから。
『陽千香、大丈夫ですの……?』
肩口から陽千香の顔を覗き込みながら、リヒトが心配そうに訊ねてきた。彼女も気を遣ってくれているのだろう、いつもなら遠慮なく急き立ててくるところを、今日は随分と控えめだ。
「大丈夫……大丈夫よ」
そう応えてみせながら、陽千香の足は一向に動こうとしない。いくら夢の中でのことといっても、こちらの世界で感じる痛みや恐怖は本物だ。何より、せっかく仲良くなれたみんなのことを忘れてしまうなんて耐えがたい。考えないようにしようとすればするほど、もしもが頭に浮かんで離れない。みんなが一緒にいてくれれば、こんな不安は消し飛んでしまうのだろうが。
「ごめん、リヒト。やっぱり無理……」
そう言ってうずくまった陽千香に、リヒトはしょげかえった表情で沈黙している。普段はおくびにも出さないが、自分が神子に選んだ手前、陽千香を危険に晒すことに対してそれなりに罪悪感があるらしい。こちらは彼女を責めるつもりなどさらさらなかったのに、そんな顔をさせてしまっていることが何だか申し訳なかった。
『……あら?』
ふと、リヒトが何かに気付いたように声を上げた。陽千香が顔を向けると、リヒトは小さな指で校舎の方を指し示しながら言った。
『あちらの方……今、何か光ったような気がしたのですけれど……』
彼女が示したのは、一階の普通教室の方だった。言われて目を凝らしてみれば、確かに何かが光ったように見えた。瞬間的な強い光が、明滅を繰り返すように窓の向こうから零れてくる。つい最近、似たような光を目にした記憶があった。一年の教室で見かけた、悪魔の亡骸から散っていた火花の光だ。
陽千香は小さく息を呑むと、その場に立ち上がって光の方へ身体を向けた。恐怖に竦んでいたはずの足が自然と動き、真っ直ぐ光を目指して歩き始める。
光の漏れている教室に近付くにつれて、そこにいる誰かの気配が強くなる。こちらの気配も同じように伝わっているはずだが、相手に逃げる素振りは見られなかった。半分開いていた教室の扉を引くと、陽千香は緊張しながら教室の中を覗き込んだ。
窓から差し込む夕陽の色が、その髪を燃えるように赤く染めていた。教室に並べられた机の一つに腰掛け、ぼんやりと外に視線を投げていた彼は、踏み込んで来た陽千香に気付いて肩越しに振り向いた。感情の読めない冷めた目線が、陽千香のそれとぶつかる。
「……志筑くん……?」
名前を呼ぶと、彼は一瞬視線を伏せ、すぐに顔を背けてしまった。蒼真を見つめる視界の隅に、微かな光の明滅を感じる。元を辿って目線をやれば、それは蒼真の手元から零れ出ていた。指無しの黒いグローブ。甲の部分にあしらわれた琥珀色の石が、小さく爆ぜるような光を放っていた。
ずっと探していた最後の一人。その人が今、あまりにもあっさりと目の前にいる。驚きと緊張のあまり、教室の入口で固まったまま動けずにいる陽千香の耳元で、興奮した様子のリヒトが囁いた。
『ひ、陽千香! この人っ、この人ですわ! 先日陽千香を助けてくれた方!』
リヒトに頷いてみせながら、陽千香はどうやって声をかけようか迷っていた。何を話せば良いかなんて、他の人達相手に考えたこともないのに。迷う陽千香にはお構いなしに、リヒトの声はさらに続いた。
『あの時はホントにすごかったんですのよ、一瞬で悪魔の群れを片付けてしまって。陽千香が気を失ってると見るや、ベッドまで運んでくださいましたし。何も言わずに助けてくれるなんて、ちょっとクールですわ~』
「う、うん……」
相槌を打ちながらまだ悩む。とりあえず、助けてくれたお礼は改めて言うべきだろう。悪魔から救ってくれたのみならず、わざわざ横になれる場所に運ぶ手間までかけてくれたというのだから。
……そういえば、運ぶってどうやって運んだのだろう? あまり深く考えたことはなかったが、気を失っている人間を運ぶといったら、こう……。
ちょっと恥ずかしい想像が頭を掠めてしまった。顔を挟むように手を当てて頬の熱を冷ますと、陽千香は数回大きく深呼吸した。先ほどから表情一つ変えていない蒼真と比べ、自分ばかり動揺しているようで何だか恥ずかしい。陽千香は最後に吸った息を全て吐き出すと、恐る恐る蒼真に近付き、ようやくその第一声を絞り出した。
「そ、その節は、いろいろと迷惑かけちゃったみたいで、ごめんなさい……」
もう少しマシな声のかけ方はなかったものか。我ながら情けなく思っていると、蒼真がおもむろに腰を上げた。こちらには目もくれずに歩き出すと、教室の扉を抜けて廊下へ出て行ってしまう。
「ま……待って!」
慌てて後を追いかけ、先を行くその背に付いて歩く。どうやら今日は陽千香を振り切るつもりはなさそうだが、向こうから話しかけてくる様子もない。せっかく合流できたのだから、いろいろと訊いてみたいこともあるのだが。とはいえ、お喋りに気を取られて悪魔を見落としでもしては事だ。暫く悶々と悩んだ結果、陽千香は結局黙って付いて行くことにした。
無言で歩く廊下に、二人分の足音が響く。まるで会話がないというのは、やはり少し気まずい。髪をいじって気を紛らわしていると、陽千香の肩に座っていたリヒトが不満そうな声を漏らした。
『何だか無口な方ですわね……陽千香のお友達なんじゃありませんの? 助けていただいたご恩はありますけれど、会ってから一言も喋らないなんて、ちょっと無愛想にすぎません?』
「リ、リヒトっ」
小声で窘めるも、静かな廊下に彼女の甲高い声はよく通った。蒼真が足を止めて振り返ったのを見て、陽千香は慌てて謝罪した。
「ご、ごめんね志筑くん。この子の言うことは気にしないで――」
言い終える前に、蒼真の姿が掻き消えた。目を見開いた陽千香の背後で、身体の芯を突き抜けるような硬質な音と、獣の断末魔が聞こえる。数瞬遅れて振り向けば、そこには何事もなかったような顔で佇む蒼真がいる。軽く掲げた右手の先には、一抱えほどの黒い塊が掴まれていて、時折そこから青白い光が細い筋を引いていた。
「……お前」
蒼真がようやく口を開いた。
「もう少し集中した方が良くないか?」
淡々と述べる蒼真に、陽千香は俯いて応えた。
「ごめんなさい……」
しゅんとした陽千香を尻目に、蒼真は掴んでいた塊を放り出した。鈍い音を立てて床に落ちた悪魔は、火花を散らしながら空中に霧散していく。その様を最後まで見届けることなく、蒼真は再びこちらに背を向けて歩き出してしまった。




