悪夢を狩る天使(2)
腰まである真っ直ぐな金の髪。透けるような白い肌とスカイブルーの瞳。身に纏った衣装は白く、空気を孕んでゆったりとなびいている。何より陽千香の目を引いたのは、その背に生えている翼。白銀の輝きを帯びた一対の翼は、彼女に天使と呼ぶに相応しい姿をもたらしていた。
『綾藤陽千香ですわね? わたくしはリヒト、選ばれし神子を助ける御使いですわ。貴女のことを探していましたのよ。無事にお会いできて良かったですわ』
リヒトと名乗った天使は、そう言ってにっこり微笑んでみせた。作り物めいた美しさだが、ほんのり赤みの差した頬や、愛らしく瞬きする目元は、彼女が人形などではないことを物語っている。ようやく呼吸も落ち着いたところで、陽千香はおずおずと口を開いて訊ねた。
「ええと……リヒトさん? 助けてくれてありがとう。あの、言ってることがよく分からないんだけど、あなたはいったい何者なの? 私を探してたってどういうこと? 今の……この状況は、いったい何なの……?」
いつもと様子の違う学校で、わけの分からないまま化け物に襲われて。ようやく言葉が通じる相手に出会えた安心感からか、陽千香の頭には次から次へ溢れるように疑問が湧いていた。縋るような思いで投げかけた質問の群れを、しかしリヒトは両手を振って遮った。
『順にお話ししますから、まずは落ち着いてくださいまし。それから、わたくしのことはリヒトで結構ですわ』
陽千香が口を噤むと、リヒトは満足げに頷いて、近くにあったピアノの鍵盤に腰を下ろした。少し落ち着きを取り戻した陽千香が手近な椅子に座ったのを見計らって、リヒトがゆっくりと話し始める。
『始めに、ここがどういう場所なのかをお話しておきますわね。ここは界境世界。貴女方の概念でいうところの、夢に当たる世界ですわ』
「ゆ、夢……!?」
リヒトの言葉に、陽千香は思わず愕然とした。まるで悪夢のようだと思ってはいたが、まさか本当に夢だとは。どうりで滅茶苦茶なことばかり起きるわけだ。感覚がやけにリアルだったが、悪夢ほどそういう風に感じるものなのかもしれない。いずれにしても、そうと分かれば何ということはない。目が覚めれば悪夢は消える。あの化け物も消えてなくなる。何だ、良かった……。
『話は最後まで聞いてくださいましね』
ほっと胸を撫で下ろした陽千香に警告するように、リヒトは真剣な口調で続けた。
『夢は夢でも、普通の夢ではありません。ここは他人が見ている夢の世界。悪魔の力に汚染された、人に害為す悪夢の世界ですわ』
「あ……悪魔、ですって?」
胡乱な単語に陽千香が眉をひそめると、リヒトは右の人差し指を立てて言った。
『先ほどご覧になったでしょう? あの化け物のことですわ』
目の前でぱっくりと開いた化け物の口が脳裏に浮かび、陽千香は小さく身を震わせた。
『悪魔……夢を利用して人の魂を食い荒らす者達の総称ですわ。奴らは人の精神に棲みついて、寄生した相手――宿主に、特別な夢を見せます。その夢を見続けた宿主は知らぬ間に精神を破壊され、やがて肉体的にも衰弱し、最後には夢から覚めることもできなくなって死に至るのですわ』
「ちょ、ちょっと待って。話に付いていけてないんだけど……死ぬって、だって所詮夢なんでしょう?」
つい今し方、彼女自身がそう言ったのだ。夢を見ただけで命を落とすなんて聞いたことがない。精神を破壊されるというところまでなら分からないでもないが、そうだとしても今悪夢にうなされているのは陽千香だ。悪魔に寄生された宿主とやらは、影も形も見当たらないではないか。
陽千香の疑問に、リヒトはこめかみの辺りをつつきながら答えた。
『ちょっと説明が難しいのですけれど……貴女の考えている夢というのは、眠っている間に見る幻覚のことを指すのでしょう? 界境世界は単なる幻覚とは違いますわ。簡単に言えば、悪魔との契約行為なんですの』
リヒトは一度言葉を切り、腕を組んでから続けた。
『悪魔は人間に寄生すると、まずその精神内に自分達の領域――この界境世界を作り上げ、夢の中に宿主の意識を引き込みます。界境世界は、悪魔の力でどんな望みも思いのままになる世界。一度でも囚われてしまえば、それは麻薬のように宿主を蝕み、離れられなくしてしまうのです。貴女も先刻言ったとおり、宿主からしてみれば界境世界は所詮単なる夢の世界。自由自在になるのなら、楽しもうと思うのは無理からぬ話でしょう? 悪魔の思惑どおり夢に囚われた宿主は、この世界で望みを叶える代償として、魂を喰い荒らされてしまうのですわ』
「……百歩譲ってそれを信じるとして……どうしてそこに、私が登場するの?」
誰のものかは知らないが、これは他人の夢であるはずだ。自分が巻き込まれなければならない理由など見当もつかない。
するとリヒトは、再び指をピンと立てながら答えた。
『これも先刻申し上げましたわ。貴女が選ばれたからです』
「選ばれた……?」
そう、とリヒトは頷いた。
『悪魔の正体は、人間が生来持っている悪意の塊です。恨み、辛み、妬み……そうした感情が凝り固まって、個としての意識を持つに至った精神体。本来、感情は人間の死とともに消滅するはずなのですが、あまりにも強い感情は、稀に地上に取り残されてしまうのです。それだけなら大した害はないのですけれど、悪魔に変じて力が強まると、いよいよ人に危害を加えるようになります。心の隙間に入り込み、望みの夢を見せる裏で、その人が現実を生きていくために必要な魂の光を喰い荒らす……元々が悪意ですから、人を苦しめることそのものが目的なのですわ。我々御使いは、そんな悪魔とは対極に位置する存在。人の良心から生まれ、人を護るために悪魔と対立する……まぁ、宿敵みたいなものと思っていただければ結構ですわ』
そこでリヒトが微かに目を伏せた。
『ですが、実際には宿敵と呼べるほど対等な存在ではないのですわ。感覚的に分かると思うのですけれど……人間の悪意はとても強いものですわ。時として人の善意を踏みにじってしまうほどに。それと同じで、御使いと悪魔の間には圧倒的な力の差があるのです。そこで我々は、悪魔と戦うために一計を案じました。善なる魂の光が強い人間の、精神の一部。それを界境世界に呼び込み、我々の力を託して増強させてやることで、悪魔に対抗できる強力な戦士を生み出せるのではないか、と』
「……もしかして、その戦士っていうのが神子――つまり、私ってこと?」
『そのとおり、理解が早くて素晴らしいですわ!』
彼女が得意げに言葉を締め括ったのと同時に、陽千香は静かに息を吐いた。何とか冷静さを保ったままここまで話を聞くことができたが、それももう限界かもしれない。さらに一呼吸置いてから、陽千香はその質問を声に乗せた。
「ねぇ、私は選ばれたって言ったわね? 確認したいんだけど……選んだのは、誰?」
『もちろん、わたくしですわ』
リヒトはあっけらかんとした態度で答えた。何が嬉しいのか、両手を顔の前で組み、祈るような姿勢で続ける。
『相応しい人間の気配を探っていた時にピンと来たのです。だから早速こうしてお呼びしたのですわ。もっとも、悪魔に遭遇する前に合流できなかったのはいささか想定外でしたけれど』
決定的だ。陽千香の周囲を流れる空気が、完全に凍り付いた瞬間だった。
「……つまり、私がこんな目に遭っているのは、全部あなたのせいってこと……!?」
陽千香が震える声で問うと、リヒトはムッとした表情を作る。
『わたくしの"せい"というのは心外ですわ。わたくしは自分の生まれ持った使命を果たしているにすぎません。それに、わたくしと出会う前に悪魔に見つかってしまったのは、貴女があちこち勝手に動き回るからですわ。神子としての手ほどきを受けた後なら、あれくらいの相手は簡単に対処できたはずですのに!』
リヒトの勝手な物言いに、陽千香も黙っていられず声を荒げる。
「私のせいだって言うの!? いきなりこんなわけの分からない所に放り出されて、じっとしてろって言う方が無理な話じゃない! というか、人の都合も考えずに勝手にそんなもの任命しないでよっ!」
『言葉が過ぎましてよ! 我々は貴女も含む人間全てのためにやってますのに!』
「頼んでないっ!」
『な……何ですって~!?』
そこから先は泥沼だった。売り言葉に買い言葉をぶつけ合い、今の状況を忘れて罵り合うこと数分間。お互いぜぇぜぇと息を切らし、睨み合うことまた暫し。
「……帰して」
陽千香は力いっぱいリヒトを睨み付けながら、低い声で呻くように言った。
「今すぐ現実の世界に帰して」
『イヤですわ』
取り付くしまもなく切って捨てると、リヒトはぷいとそっぽを向く。
「帰してよ!?」
『ぜ~ったいにイヤですわ!』
すっかり意地になっているこの憎らしい天使をどうしたものか。今すぐにでもこの不気味な世界から抜け出したいのに、だからといってリヒトに頭を下げて頼み込むのは絶対に筋が違うと、自分の中のプライドが断固拒否を訴えている。
膠着状態に陥った女の戦いに終止符を打ったのは、教室の窓に走った一本の細い亀裂だった。ガラスがひび割れる音に二人揃って振り向く。窓の外には景色以外何も見えないが、嫌悪感を催す気配だけがガラス越しに伝わり、肌の表面を焦がすようだった。
『しまった……しくじりましたわ。感情に流されて貴重な時間を無駄にするとは、何たる失態……』
悔しそうに口元を歪めると、リヒトは陽千香に向き直った。意地悪な態度が一転、背に腹は代えられないとばかりに真面目な表情を作り、早口に捲し立てる。
『先ほどの話。現実世界には……帰したくても帰せないのですわ。界境世界は悪魔の領域。この場を支配する悪魔の力が消えない限り、現実世界への帰り道を繋げられないのです』
「そんな……!」
陽千香は愕然としながら、リヒトとひび割れた窓を見比べる。一方的に巻き込んだ挙句帰せないだなんて、そんなのあんまりじゃない!
陽千香が狼狽えていると、リヒトが不意に飛び上がり、陽千香の顔の前にやってきた。真剣な眼差しで陽千香の目を覗き込み、諭すような口調で言う。
『お願いですわ陽千香。神子の役目を受け入れて。悪魔を倒すのに協力してください!』
「き、協力って言ったって……いったいどうすれば良いの!?」
――ピシッ。
小さな音と同時に、ガラスに更なる亀裂が入る。枝分かれしながら縦横に走る線は、もうあまり時間が残されていないことを暗に語っていた。
『目を閉じて。自分の中に力が満ちていくのをイメージして』
リヒトの静かな声に従い、陽千香は戸惑いながらも両の目を閉じた。力のイメージと言われてもピンとこなかったが、何となく光を連想し、それが身体中を巡っていく様子を想像した。
『両腕を前に差し出して、その中心に力を集めて。力が徐々に武器の形を成していくのを思い描いて』
身体に満ちた光が、陽千香の両手の間に集っていく。掌を中心に、全身が何だか温かい。光を包み込むようにして指を折ると、光の中心で指先が何かに触れた。陽千香の脳裏に、独りでにイメージが溢れ出す。光よりもなお白く輝く刀身。細かな装飾の施された銀の柄。その先端に埋め込まれた、光と同じ純白の宝玉。
『武器を頭上に掲げて。姿が視えたら、貴女の手元に引き寄せて!』
光は陽千香の頭上に浮かび上がると、眩い剣の輪郭を現した。陽千香は両手で柄を握り込むと、光の鞘に収められた刀身を一気に引き抜いた。
両腕に重さを感じて陽千香が目を開けると、そこには頭に描いたのと同じ剣の姿がある。窓から差し込む月明かりを受けて煌めく刃は、光をそのまま鍛え上げたように白かった。