ヤマアラシのジレンマ(10)
「綾藤さん!?」
「大丈夫ですっ」
肩越しに良一に応え、廊下の角を曲がる。靴を履き替える時間も惜しんで正面玄関から飛び出し、脇にある生徒用駐輪場を経由して校舎北側へ。北西非常階段の横を通り過ぎて見えてきたのは空っぽの駐車場。教材等の搬入業者が利用するそこには、基本的に人の姿はほとんど見られない。普段生徒がうろついているような場所ではないため先生達の監視は甘く、この時間帯ともなれば業者の出入りもほぼ終わってしまっているからだ。彼らのような人種がくつろぐのには格好の空間だろう。
陽千香は足の回転を緩めて呼吸を整えると、立ち止まってもう一度手元に視線を落とした。スマートフォンに表示されたままの貴則のメッセージ。短いコメントを返してホーム画面に戻ると、別のアプリを立ち上げていくつかの操作を行う。上手くいくかどうかは分からない。だが、せっかく巡ってきたチャンスをふいにするわけにはいかない。最後に表示されたボタンをタップすると、陽千香はいよいよ駐車場の方に近付いて行った。
「そろそろセンコーにしょっぴかれてる頃じゃねーか?」
校舎の壁に身を寄せて隠れながら、陽千香は耳をそばだてた。少し距離が遠いが、彼らの下品な大声のおかげで、会話の内容を聞き取るのには苦労しない。
「あのイチネンセーかわいそ~。ビビッて一言も喋んなかったもんね~」
「あれならセンコーにチクる心配もねーだろ。どうせ志筑は言い訳なんてしねーからな。暫くはツラ拝まずに済むだろうぜ」
「二年のくせにイキがりやがってあの野郎。何度屋上から突き落としてやろうかと思ったかしれねぇ。ざまぁ見ろ」
「一匹狼気取っていつも一人だからなアイツ。暴力沙汰で箔が付いたら、ますます周りが静かになるってわけだ。今度会ったら礼の一つでも言ってもらおうぜ」
そう言った後で、三人の声がげらげらと笑う。勝手なことばかり言っている。陽千香は眉間に皺を寄せながら、怒鳴り付けたくなる衝動に耐えた。
「なぁなぁ、暴力沙汰で停学ってどんくらいくらうのかな~?」
「数週間か、一か月くらいか……長いに越したことはねーな。そのためにいかにも善良そうな奴見繕ったんだし? 停学ついでに自主退学とかしてくれたらもっとイイんだけどな」
「そりゃあ良い。アイツさえいなくなりゃ俺らのストレスの種が一気に減る」
「もしそうなったら、アイツの彼女取っちまおうか? そこそこ可愛かっただろ」
「藤堂ってばや~らし~」
「勝手にしろ。俺ぁ女の方はどうでも良い」
「悪かったわね、どうでも良くて」
陽千香が割り込むと、三人はぎょっとしてだらけきっていた体勢を整えた。壁を離れて姿を現した陽千香を見ると、途端に侮った笑みを浮かべる。陽千香は怯まずに三人の方へ歩いて行くと、ある程度距離を置いて立ち止まる。
「やっぱりあなた達ね。無関係の後輩に怪我させてまで志筑くんを追い出したいの?」
「よぉカノジョさん。仰るとおりだ。俺ら全員、アイツが死ぬほど嫌いなんでな」
答えたのは高橋だった。近付いてみて気付いたが、彼らの周囲には煙草の煙が漂っている。きつい臭いに眉をひそめながら、陽千香は腹の辺りに力を込めて言った。
「さすが、志筑くんを目の敵にしてるだけのことはあるのね。あなた達の予想どおり、彼は黙ったまま弁解しようともしなかったわ。このままじゃ停学になるかもしれない。仕方ないから代わりに来たの。あなた達に自白してもらおうと思って」
陽千香の台詞に、不良達が顔を見合わせた。一瞬の間を置いてどっと笑い出した彼らは、苦しそうに息をつく合間で馬鹿にしたように口を開く。
「アホかお前。自白なんかするわけねーだろうが」
「え~? イイんじゃない、謝ってあげれば。オレ達がやりました~ゴメンナサ~イ!」
「自白タイム終~了~。で? この後どうするって?」
耳障りな言葉を吐き散らす彼らを尻目に、陽千香はスマートフォンを取り出した。音量を最大まで上げて画面をタップすると、まだ騒いでいる彼らの方にスピーカーを向ける。ガチャガチャとうるさい雑音に続けて聞こえてきた声に、不良達の顔色が変わる。
『そろそろセンコーにしょっぴかれてる頃じゃねーか?』
『あのイチネンセーかわいそ~。ビビッて一言も喋んなかったもんね~』
「……テメェ、録音してやがったのか」
額に青筋を立てた高橋の顔を睨み付けながら、陽千香はアプリの停止ボタンをタップした。
「当たり前じゃない。あなた達が自分から謝りに行ってくれると思うほどお人好しじゃないわ」
「小賢しいねぇアンタ。志筑の次くらいにムカつくわ」
「な、なぁ、あれ取り上げないとヤバくね~……?」
上目遣いに仲間二人を窺いながら、杉下が陽千香のスマートフォンを指差してくる。険悪な空気が一気に膨らんでいくのを感じながら、陽千香は一歩後ずさった。後を追うように足を踏み出しながら、高橋が右手をこちらに伸ばしてきた。
「寄こせ」
「イヤよ」
短く答え、スマートフォンを庇うように後ろ手に回す。高橋の目付きは、それだけで人を殺せそうなほど凶悪な光を宿し始めていた。
「さっきから聞いてりゃ、お前口の利き方がなってねぇな。俺らが先輩だって分かってんのか?」
「学年が上だからって無条件に敬われると思わないで。平気で人を傷付けたり、陥れたりする人達に払う敬意なんてないわ」
「……女なら殴られないとでも思ってんなら、いっぺん思い知らせてやる必要があるな?」
怖い。膝が震えそうになるのを必死に堪えながら、陽千香は近付いて来る高橋を正面から見据えていた。彼の発言は冗談などではないだろう。殴ると言ったら本気で殴る。そんな目をしている。
今さら足掻いたところで逃げ切れはしないだろう。こうなるのは覚悟のうえで来たはずだ。だから陽千香にできるのは、信じてここで耐えることだけだ。
高橋がもう目の前に来ている。拳を振り上げる姿がやけにゆっくりと視界に映り、そして――。
「こらぁぁぁっ!! 貴様ら何してるっっ!?」
「ひゃ……!?」
背後から突然響いた怒号が、背筋の凍るような空気を一掃した。思わず声を上げながら身を震わすと、同じように肩を震わせた高橋の口から、カエルを踏み潰したような声が漏れた。その視線は、陽千香の背後に釘付けになっている。つられて陽千香も目をやれば、そこには阿修羅の面と見まごう表情を浮かべた一人の男性が立っていた。
「き、木下先生!?」
柔道歴三十年。そんな肩書を持った野球部の名物顧問は、鬼すら黙らせる気迫の声で吼えた。
「たぁかはしぃぃぃ……お前は性懲りもなく!!」
「な、何でお前がこんなとこにいんだよクソっ!」
陽千香を威圧していたそれまでの雰囲気から一転、高橋は急に情けない声を上げると、こちらに背を向けて一目散に走り出した。その先にいたはずの藤堂と杉下の姿を探せば、彼らは車両用の出入口から学校の敷地外へと出て、転がるように逃げて行く途中だった。呆気に取られてその様を眺めていた陽千香の隣に、駆けつけてくれた木下が並ぶ。
「間に合って良かった。怪我はないか?」
筋骨隆々としたその体躯に向き直った時、陽千香は視界の端にもう一つ見慣れた人影が映ったことに気が付いた。身体をくの字に折り曲げて、上がった息を整えている。普段の澄ました態度が嘘のようで、呆れたようにこちらを睨むその人と目が合った瞬間、陽千香は緊張の糸が切れて笑ってしまった。
六限目開始のチャイムが鳴り響く。授業には間違いなく遅刻だが、もはやそんなことはどうでも良かった。証拠を収めたスマートフォンを胸に抱きながら、陽千香は心からの安堵の息を吐いた。




