ヤマアラシのジレンマ(8)
予想は当たり、職員室の前には野次馬の生徒達が何人も集まっていた。あと一歩のところで蒼真の姿は職員室の扉に吸い込まれてしまい、陽千香は仕方なく野次馬の一人に声をかけた。
「ね、志筑くんどうしたの? 何かあったの?」
「へ? あー、何か無抵抗の奴を殴ったとか聞いたよ。あの不良、とうとうやらかしたみたいだな」
まさか。蒼真に限ってそんなわけはない。だったら陽千香は何だというのだ。あれだけ周囲をうろちょろしていて、未だにピンピンしているというのに。
「それ、殴られたっていつの話!?」
「さぁ? 周りが騒がしくなったのは、昼休み入ってからだと思うけど」
陽千香は教えてくれた生徒に礼を言うと、職員室の扉の前に立った。もし昼休み中に起きた出来事なら、陽千香が証人になれる。蒼真が購買に行っていた最初の数分を除けば、ずっと陽千香が一緒にいたのだから。
「失礼しますっ」
職員室に踏み込んで首を巡らせる。衝立で仕切られた奥の応接スペースから、守山の厳つい声がしている。チラチラと視線を投げる先生達の間をすり抜けて、陽千香はその一角に近付いた。守山の声が途切れたところで衝立にノックをすると、少しの間を置いて守山が顔を出した。彼は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに険しく眉を寄せて言った。
「何だ綾藤か? 今取り込み中だぞ、後にできないのか?」
「すみません。その、お取込み中のことでお話があって」
片眉を跳ね上げた守山に、陽千香は続けた。
「志筑くんが人を殴ったって聞いたんですけど、そんなはずないんです。私、昼休み中ずっと志筑くんと一緒だったので」
「何?」
守山は眉をひそめると、一瞬衝立の中を覗き込むような仕種をした。
「ちょっと来なさい」
先に入った守山に続いて、陽千香も衝立の中に足を踏み入れた。さほど広くはないスペースの中には、小さな木製テーブルを挟むようにして、革張りのソファが置かれている。一方には蒼真、もう一方には顔に痛々しいガーゼを貼った男子生徒が座っている。どうやら一年生のようだ。怯えた様子でこちらを見ている。
「座りなさい」
守山はそう言って、男子生徒の側のソファを示した。陽千香が素直に従うと、守山は蒼真の隣に腰を下ろしてから口を開いた。
「飯島、殴られたのは昼休みの間だと言ってたな?」
彼の視線は、陽千香の隣の男子生徒に向けられている。飯島と呼ばれた少年は、ちらちらとこちらを気にするように見ながら頷いた。
「は、はい……購買に、パンを買いに行こうとしてた時に……」
「彼女が、それはおかしいと言ってるんだが」
守山の言葉に、飯島はやけに大げさに肩をびくつかせて陽千香の方を見た。守山は続けた。
「綾藤、さっきの話を詳しく聞かせてくれ」
「はい」
促された陽千香は、昼休みの間のことを最初から丁寧に話して聞かせた。屋上に出入りしていたことを白状しなければならなかったが、施錠されてはいないことを知っているからか、守山は渋面ながらも黙って最後まで聞いてくれた。
「……つまり綾藤は、俺が志筑を連れて行くところも隠れて見ていたと、そういうことか?」
「はい、そうです」
「綾藤の話が本当なら、お前の言ってることと矛盾する。飯島、どうなんだ?」
「ほ、ホントです! ホントに、し、志筑先輩に……!」
飯島は必至な形相で訴えた。しかしその顔は真っ赤で額には汗が浮き、目線はあちこちに動いて定まらない。どうにも先ほどから挙動が怪しい。
守山も同じように感じたのだろう。屋上の件は置いて、普段真面目にしている陽千香の証言ということもあり、飯島の話を少し疑わしく思い始めたようだった。
「どうなんだ志筑? 綾藤の言ってることは正しいのか?」
守山が蒼真に訊ねた。これで蒼真が頷いてくれれば、停学という最悪の事態は回避できるはずだ。陽千香は内心、ほっと胸を撫で下ろした。――だが。
次の瞬間、陽千香はぎょっと目を見開いた。蒼真は、あろうことか『さぁ?』とでも言いたげに肩を竦めてしまったのだ。せっかく弱まった疑いの視線が、俄かに勢いを取り戻していく。陽千香は焦った。
「そんなはずありません。ずっと目の前にいたのに」
「だが、昼休みの最初にコイツが何してたかは見てないんだろう?」
「だ、だから、それは購買に――」
パンを買いに。そう言おうとして、直前に同じ台詞を聞いたことを思い出す。飯島の方を見ると、彼は気まずそうに目を逸らして俯いてしまった。
「……残念だが、疑いを晴らすには少し弱いな」
守山がそう呟いて腕を組んだ。陽千香は首を振りながら反論した。
「志筑くんは何の理由もなく人を殴ったりしません、でないと私が殴られなかったことの説明がつきません!」
「女子だから殴られずに済んだだけじゃないのか? さっきから様子を見てると、友人というほど親しいわけでもなさそうだしな。同じクラスだからといって、無理に庇ってやることはないんだぞ」
どうしてそうなってしまうのだ。すべて本当のことなのに。陽千香は訴えるように蒼真の方へ視線をやった。だが彼は明後日の方を向いたまま、ちらともこちらを見ようとはしなかった。
「じきに昼休みも終わる。もう教室に戻りなさい」
落ち着いた、それでいて有無を言わさぬ退去の指示。陽千香はのろのろと立ち上がり、もう一度その場の面々の顔を見回した。険しく眉を寄せる守山。未だ俯いて肩を震わせている飯島。そして、何もかも諦めたような顔で沈黙を通している蒼真。
陽千香は息を吸った。
「……証明します」
「……何だって?」
守山が怪訝な表情で訊き返してきた。飯島が顔を跳ね上げてこちらを見る。蒼真には目立った反応がなかったが、微かに目元が揺らいだような気がした。
「証明します。私の証言が信じられないと仰るのであれば、志筑くんが犯人じゃない証拠を他に見つけてきます」
「な、何を言い出すんだ綾藤?」
狼狽えて腰を浮かせた守山の目を正面から見据え、陽千香は強い口調で言った。
「少しで良いんです。処分を下すのを待っていただけませんか?」
「あ、あのな綾ふ――」
「お願いします」
守山の言葉をさえぎって言い切り、一歩も退かない意思をもって頭を下げる。視界から消えた守山が、心底参ったように息をつく気配がした。
「……五時までだ」
その声に、陽千香は顔を上げた。
「今日のことを、飯島の親御さんに報告しなきゃならん。俺と飯島の担任が付き添って、一緒に家に伺う予定なんだが、夕方までは仕事で帰って来れないそうでな。だからそこまでは待ってやる。校長への報告は、まぁ何とかしてやる」
「っ! ありがとうございます!」
再び頭を下げた陽千香に、守山は困惑したように口を開いた。
「綾藤、お前志筑とはどういう――」
「急いでるので失礼します、約束破らないでくださいね!」
最後まで言わせずに一礼すると、陽千香はすぐさま踵を返した。職員室を飛び出し、廊下を走りながら思考をフル回転させる。
あの飯島という少年は明らかに嘘を吐いている。だが、蒼真を陥れようという嫌な感じはしなかった。何か別のものに怯えて、無理に演じているような雰囲気があった。きっと彼を殴った真犯人に脅されたのだ。蒼真には悪い噂が多いから、たとえ嘘でも、"いつかやると思っていた"と色眼鏡で見られてしまう。犯人はそれも分かっていたに違いない。悪意を持って蒼真を陥れようとする卑劣な人間の心当たりは、大いにある。
こんな時、誰に頼れば良いだろう。人脈が広く、機転が利いて、行動も早い、そんな人物。真っ先に思い浮かんだ顔は――。
「あ、陽千香先輩、こんにちわわわわっ!?」
勢い余って肩に飛び付いてしまった陽千香に、圭介は目を白黒させながら訊ねてきた。
「ちょ、ちょ、そんな慌ててどうしたんですか!?」
「お願い圭介くん、助けて!!」
「へ!?」
誰が見てもただごとではない陽千香の様子に、圭介は最初戸惑った表情で話を聞いていた。しかし話が進むにつれ、その顔は真剣さを増していった。
「それ、他のみんなにはもう話しました?」
陽千香は首を振った。
「職員室を出てからすぐ、圭介くんのところに走って来たから……」
「真っ先に頼ってもらえたってことですか。光栄ですけど、責任も重大ですね」
圭介は言って左腕を捲った。暫し腕時計に目を落としてから、スマートフォンを取り出して言う。
「手分けしましょう。みんなには僕から連絡します。時間がないので、直接聞き込みして回るよりは、SNSで学校の知り合いに片っ端から訊いてみる方が良さそうですね。それなら話下手のあやめちゃんでも戦力になるし、場合によっては授業中の拘束も無視できます。久我センパイは……あの人何か手伝ってくれるのかなぁ……いつも人付き合いは苦手、とか言ってごまかしてるけど」
圭介は言いながら頭を掻き回し、「まぁ、テキトーに何か頼んでおきます」と口をへの字に曲げながら、スマートフォンに何事かを打ち込んだ。
「私はどうしたら良い? やっぱり聞き込み?」
「陽千香先輩は飯島君を落としてください。彼が嘘を吐いてるなら、志筑先輩を庇おうとした陽千香先輩にも負い目があるはずです。彼から本当のことを聞き出すんです」
本当のこと。先ほど初めて顔を合わせたような相手に話してくれるだろうか。怯えた少年の表情を思い出すが、それでもやるしかないのだと腹を括る。陽千香が頷くと、圭介はスマートフォンから顔を上げて言った。
「昼休みはもう時間ないし、放課後は人が減ってくる……となると、五限目が終わった後の小休憩までが勝負ですね。志筑先輩の冤罪、みんなで立証してやりましょう」




