悪夢を狩る天使(1)
彼女の苦難は、一通の手紙を開封したところから始まった。
その日、学校から帰った陽千香は、郵便物の中に妙な封筒が混じっていることに気が付いた。今時珍しく蝋で封印された、上質そうな白い封筒。宛名には陽千香の名前が記されていたが、差出人は不明だ。切手が貼られていないところを見ると、自宅の郵便受けに直接届けられたものらしかった。
普通なら怪しむところだが、その時の陽千香は何故か、この手紙を開封しなければならないという強い義務感に駆られた。自室に戻って鞄を置くなり、早速手紙の封を開いて。
気が付いたら、どこか別の場所で机に突っ伏して眠っていた。
いつの間に家を出たのか、どうやってここまで来たのかも覚えていない。ただ、窓の外の見慣れた景色から、ここが自分の通う並木ヶ丘高校の教室らしいということは辛うじて認識できた。
陽千香は寝起きの緩慢な動作で席を立つと、窓辺に寄って改めて外を見やった。見慣れているはずの校庭の景色。その上空には、真っ暗な空が広がっている。
帰宅した時にはまだ陽があったはずだ。今はいったい何時頃なのだろうか。段々と覚醒してきた頭で考えると、陽千香は慌てて教室の時計に目をやった。
「……え?」
目に入ってきたものに愕然と声を漏らす。教室の正面。黒板の上に取り付けられた飾り気のない時計には、針がなかった。長針も短針も、秒針さえも付いておらず、文字盤には一から十二までの数字と、針を固定する中心のネジだけが残されていた。
誰かが悪戯でもしたのだろうか。ため息をつきながら、陽千香はカーディガンの袖をまくった。手首にはめた腕時計に目線を落とし、一瞬の間を置いて凍り付く。
数字と中心部のネジだけになった文字盤が、虚ろに陽千香を見返している。教室の時計と同様、自分の腕時計からも、いつの間にか針が失われていた。
「何なの……!?」
陽千香は狼狽しながらカーディガンのポケットに手を突っ込んだ。スマートフォンを取り出し、画面を起動させる。パスコードの入力画面に、デジタルの時計が表示される。現在時刻は、九十九時九十九分。
とうとう言葉を失った陽千香は、混乱した頭を鎮めるため、数回深く息を吸った。身の回りの時計が全て壊れているなんて、いったい何が起きたというのだろう。いずれにしても、まずは家に連絡を入れよう。これだけ空が昏いなら、少なくとも今は夜なのだろう。普段、断りも入れずに夜歩きなどしたことがないから、家族が心配しているかもしれない。
陽千香はスマートフォンのロックを解除し、続いて自宅の電話番号をタップした。耳に当てると、スピーカーからは通話中を報せる音が聞こえてくる。不審に思って画面を見れば、アンテナが圏外を示している。こんな街中で圏外だなんて。首を傾げながらも仕方なく家への電話を諦め、陽千香は学校の出口へ向かうべく歩き出した。
外は暗かったが、校舎内は各所に灯りが点いていて、移動するのに不便はなかった。階段を下りて一階の正面玄関を抜け、校門に向かって歩いて行く。日中は解放されているはずの鉄製の門扉が固く閉ざされ、敷地の内外を隔てていた。
陽千香は門扉に手をかけ、開くかどうか試してみた。案の定鍵が掛かっているようで、押しても引いても動かない。
「警備員さんにでも頼めば出してもらえるかしら……」
そう呟くと、陽千香は校舎の中に引き返した。強引に乗り越えるという手がなくもないが、この学校の校門は結構高さがある。怪我でもしてはつまらないし、何より今の自分はまだ制服のままだ。どこかに引っ掛けて破れでもしたら困る。素直に事情を話して、門を開けてもらうべきだろう。
警備員室は、確か書道室の斜向かいにあったはずだ。玄関を通り過ぎ、中庭に面した廊下を抜けて、校舎北側の特別教室区画に向かう。ここからだと、書道室は廊下の突き当たりを左手に折れてすぐの位置だ。
書道室の前を過ぎて間もなく、警備員室のプレートがかかった部屋に辿り着く。明かりが灯るその部屋には、しかし人の気配がしなかった。一応ノックもしてみたが、誰かが出てくる様子はない。校舎内の見回りにでも出てしまっているのだろうか。
「弱ったなぁ……」
ため息と一緒に独り言を零し、陽千香はとぼとぼと廊下を歩く。部屋の前で待っていればそのうち戻って来るかもしれないが、こんな暗い廊下にずっと一人で立っていたら、何だか怖い想像をしてしまいそうだった。適当に辺りをぶらついていた方が気は紛れそうだ。運が良ければ、途中で警備員も見つけられるかもしれない。そう考えながら、正面玄関の近くまで差し掛かった時だった。
――ズルッ。
重い物を引きずるような音が耳に入り、陽千香は全身の動きを止めた。何の音だろう。耳を澄まして音の出所を探ってみると、どうやら上の階から聞こえているようだった。階段の方から、反響した音が降ってくる。注意深く聞いていると、音が少しずつ大きくなっているのが分かった。
こちらに近付いて来ている。得体の知れない音に不安を覚え、陽千香は足音を立てないように移動した。靴箱の陰に滑り込むと、端から階段の方を覗き込み、息を殺して音の正体が現れるのを待った。
――ズルリ。
やがて、一階に到達した音の主が姿を見せた。思わず悲鳴を上げそうになったのを、息を吸うことで何とか堪えた陽千香は、がくがくと笑う膝を抑えるようにしてしゃがみ込んだ。
巨大な蛇。一言で表すなら、それが最も近い表現だろう。だが、陽千香の目に飛び込んできた蛇の頭――蛇の頭があるはずの部分には、人間の上半身らしきものが生えていた。骨と皮しかない、ミイラを思わせる身体。一瞬見えた眼窩の奥には、凶悪な光を宿した目が蠢いていた。いったいあれは何なの……!?
陽千香は荒い呼吸を悟られぬよう、必死に口元を押さえた。何かがおかしい。時計の針。誰もいない校舎。そしてあの化け物。自分は悪夢でも見ているのだろうか。そうでなければ、あんな化け物が学校をうろついている説明がつかない。
――ズルッ、ズルッ……。
蛇の身体をくねらせて、化け物が動く音がする。陽千香は震える身体を抱え込み、気取られないよう息を潜めた。お願いだからこっちに来ないで……!
幸いにも、化け物は陽千香とは反対の方に移動しているようだ。不気味な音が徐々に遠退いていくのを感じる。陽千香は泣き出しそうになるのを堪えながら、再び靴箱の端から顔を覗かせた。教室が並ぶ廊下を、蛇の尻尾が這って行く。やがてそれが教室の中へ消えていくのが見えた時、陽千香は気力を振り絞って立ち上がった。今のうちにここを離れよう。陽千香は靴も履き替えずに玄関の外に飛び出すと、脇目も振らずに校門を目指した。一刻も早く学校の外に出て、誰かに助けを求めなくては。
校門まで辿り着くと、陽千香は装飾部分の凹凸を足掛かりにしながら門をよじ登り始めた。何度か足を滑らせながらようやく中央まで登ると、門の上辺から頭を覗かせることができた。あと一息。そう思いながら上辺のフレームに手をかけようとすると、何かに弾かれるような衝撃とともに、伸ばした右腕が後方に押し戻された。痛みは感じなかったが、電気でも流れたように指先が痺れている。理屈は分からないが何度試しても結果は同じで、どうやら門の外には出られないらしいと気付くのにそう時間はかからなかった。
絶望的な気分になりながら門から飛び降り、陽千香は自分の周囲に目を向ける。校門の他によじ登れそうなものはない。こんな見晴らしの良いところであの化け物に見つかっては大変だ。早くどこかに身を隠さないと……!
迷う陽千香の耳に、例の音が聞こえてきたのはその時だった。身体中に戦慄が走る。怯えながら辺りを見回した陽千香は、ふと視界の隅で何かが動いたのに気付いた。月光に照らされて地面に伸びた影。その根元を辿って視線を上に上げていく。
開け放たれた窓の縁から身を乗り出すようにして陽千香を眺めていたそれは、陽千香の視線を認識すると、奇声を発しながらこちらに襲い掛かってきた。
ずっと堪えてきた悲鳴が一気に咽喉から溢れ出す。足を滑らせながらも走りだし、辛うじて蛇の急襲を避けると、陽千香は恐慌状態で校舎の中に逃げ込んだ。中庭横の廊下を突っ切って校舎の北側へ。そこから階段を上って二階へ。背後に化け物の蠢く音を聞きながら再び廊下を渡り、南側の階段から三階へ。
走っても走っても化け物の気配は遠ざかることなく、むしろ近付いてさえいるようだ。どこをどう逃げたか分からなくなってきた頃、疲労でとうとう足がもつれ、陽千香は廊下の真ん中で転んでしまった。強かに打った膝が熱を帯び、じんじんと鈍く痛み始める。すぐに動き出すことができず、その場にうずくまっていると、ズルリ、と背後で嫌な音がした。
恐る恐る振り返った陽千香の前に、ミイラのような顔が映る。化け物は虚ろな視線で陽千香を眺め、やがて口元に歪んだ笑みを浮かべた。蛇が鎌首をもたげるように上半身を持ち上げ、そのまま仰け反るようにして身体を折り曲げると、蛇の下半身との接合部分がぱっくりと割れる。現れたのは巨大な口。真っ暗なその穴は、凍り付いた陽千香を丸呑みにすべく、頭から覆い被さるように近付いてくる。なす術もない陽千香は、死を覚悟してきつく目を閉じ――。
『――光よっ!』
刹那、強烈な閃光が空間を焼いた。視界を奪われた化け物が、苦悶の声を上げて陽千香から身を離す。目の前の事態を把握できず呆けている陽千香に、どこからか鋭い声が飛んだ。
『何してますの!? 早く立って、こちらに来るんですの!!』
声の方に視線を向けると、廊下の先に小さな光が浮かんでいるのが見えた。光は陽千香を急かすように数回素早く揺れ動いたかと思うと、廊下の右手に飛んで行く。
何だか分からないが、自分を助けようとしてくれているらしい。理解した途端、足の痛みが軽くなり、再び立ち上がる気力が湧いた。まだもがいている化け物を振り切り、光の後を追って走る。
『こっちですわ!』
光は、廊下の突き当たりにある教室の前で陽千香を呼んでいた。音楽室だ。あの部屋の扉なら鍵がかかる。陽千香は全力で廊下を駆け抜け、言われるままに教室に飛び込んだ。同時に背後で金属の重い扉が閉まり、鍵のかかる音が鳴る。
『間一髪、間に合いましたわね』
その場でへたり込んでしまった陽千香の背中に、高い声が降ってくる。子供の声のように聞こえるが、品の良い喋り方は大人の女性のようにも思えた。助けてもらった礼を述べたかったが、すっかり息が上がってしまって声が出せない。陽千香は呼吸を整えながら、命の恩人の方を振り返った。
誰もいない――そう思ったのは束の間だった。周りに視線を巡らせると、ドアノブの辺りがぼんやりと光っている。よく見ると光の中心には何かがいて、時折小さく動いているようだった。
『結界を準備しておいて正解でしたわ。これで暫くは持ち堪えられるはずです』
陽千香を助けてくれた声は、その光の方から聞こえていた。陽千香がじっと見つめていると、光はふわりと舞い上がり、陽千香の目の前に飛んできた。
『もし、大丈夫ですの? 見たところ怪我は大したことなさそうですけれど……しっかりなさいまし』
そう声をかけてきたのは、掌に乗るような大きさの、小さな小さな人だった。