赤いキノコは食べられるか?(8)
貴則が嗤った。
「どうやらこいつが親玉だね。会えて光栄だよ!」
言うが早いか、貴則は足元の影を走らせ、大蜘蛛の脚を断ち切りにかかる。迫り来る影を前に、大蜘蛛は暫く口元の触角を動かしていたが、影の刃が届こうかというその寸前、身体を折り曲げて臀部を突き出し、自身の影に向かって勢いよく糸を噴射した。糸は大蜘蛛の影を覆うように床にへばり付き、次の瞬間はらりと裂けて地に融けていった。影の刃が通り過ぎた後も、大蜘蛛には何ら変化が見られない。脚を切られるどころか、傷一つ負っていないように見える。
『糸の影で自分の影を庇いやがった。ノリ、こいつ知恵が回るぞ! 気ィ付けろっ!』
レイヴンの言葉に、貴則は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「図体相応ってわけだね……悪知恵だけでいつまでもつかな」
再び影を走らせながら、今度は貴則自身も地を駆ける。大蜘蛛の両側面から挟み撃ちを仕掛けるが、大蜘蛛は難なくそれを捌いていく。糸で影の攻撃を封じつつ、脚の先の爪で貴則を貫こうと反撃を繰り出してくる。
「な……何か、まずくないですか……?」
貴則と大蜘蛛の攻防を見やりながら、圭介が不安げに呟いた。劣勢とまでは言わないが、子蜘蛛を相手にしていた時ほどの余裕がないのは確かだろう。貴則の表情からは、いつもの笑みが消えている。
だが、下手に手を出せば貴則の集中を乱す恐れもある。迷う陽千香の耳に大蜘蛛の不気味な鳴き声が轟いた。
――ギチギチギチギチギチギチッ!
天井で、漣の音が動き出した。大蜘蛛の鳴き声に従うように這い出てきた子蜘蛛達が、糸を伝って壁際に集結していく。体育館にある窓という窓が子蜘蛛で覆いつくされた時、室内は濃密な暗闇に支配されていた。
鋭い舌打ちが耳に届く。視線を向ければ、そこには貴則の姿がある。それまでほぼ互角であったはずの戦いは、急激に大蜘蛛の優位に傾いていた。その理由に気付いた瞬間、陽千香はリヒトに向かって叫んだ。
「リヒトっ、光をもっと強く! 早く!!」
『は、はいですわ!』
ぼんやりと周囲を照らすに留まっていた光が、徐々に闇を打ち払っていく。体育館の隅まで光が満ちると、闇に隠されていた大蜘蛛の影が再び姿を現した。これでまた貴則の勢いが戻るはず。そう息をついたのは束の間だった。大蜘蛛は不意に臀部を持ち上げると、あろうことかリヒトの方へと狙いを定めた。空気を押し出す重い音と同時、黒い塊がリヒト目掛けて飛来する。
『ひっ!?』
「リヒトっ!?」
口元を覆った陽千香の髪を、強い風が巻き上げた。一瞬目を閉じ、恐る恐る開けたその先には、見えない壁に護られたリヒトの姿がある。間一髪、あやめが風で防いでくれたようだ。
『あ、あああ……』
大きな目に涙を浮かべて震えているリヒトから、急速に光が失われていく。恐怖のあまり術を解いてしまったのだろう、憐れな相棒をそっと引き寄せてやりながら、陽千香は押し寄せてくる闇をなす術なく見つめた。
『やむを得ん……!』
そう呟いたのはロベルトだった。彼は空中高くに舞い上がると、自分の周囲に小さな炎を生み出した。赤みを帯びた弱い光が、暗闇の浸食を辛うじて食い止める。
『リヒトには劣るが、ないよりはマシだろう。今のうちに何とかしろ!』
「ロ、ロベルト君のことは、わたしが護ります! 先輩達は、大蜘蛛を……!」
フルートを構えるあやめに頷き返し、陽千香は大蜘蛛に向かって地を蹴った。もはや躊躇っている場合ではない。一刻も早く大蜘蛛を倒さなければ、この場の全員蜘蛛達の餌にされてしまうだろう。
「はぁぁぁぁっ!」
気合一閃、大蜘蛛の脚目掛けて剣を振る。関節を狙った一撃は、しかし大蜘蛛の回避行動によって爪の部分に当たり、弾き返されてしまった。体勢を立て直すまでの僅かな隙に、槍のような脚が陽千香を狙うが、後方から放たれた良一の矢がそれを阻んだ。良一は次々と矢を番え、大蜘蛛の胴体目掛けて弓を引いていく。矢は悉く弾かれてしまっていたが、彼の狙いは大蜘蛛の注意を逸らすことにあるようだ。良一の狙い通り、大蜘蛛の攻撃の手が緩んだのを見計らい、背後に回った圭介が巨大な氷を撃ち付ける。
床を通じて、ハンマーの衝撃が足元に伝わる。床を這って伸びた氷の蔦が蜘蛛の脚を絡め取り、地に縫い付けて動きを封じる。大蜘蛛は忌々しそうな鳴き声を上げると、力任せに脚を持ち上げ、凍り付いた床板ごと引き剥がしにかかった。べきべきと木の割れる音に、圭介の焦った声が響く。
「ひ、陽千香先輩、早くっ!」
「分かってる!」
圭介に応え、陽千香は大蜘蛛に向かって駆けた。大蜘蛛の臀部から放たれた糸をかわし、逆袈裟に剣を振り上げる。刃は今度こそ関節を捉え、鋭利な脚の一本が氷漬けのままその動きを停止した。
「やあああ!!」
陽千香と入れ替わるようにして、圭介が鋭い声を上げた。横薙ぎに振るったハンマーが、氷に覆われた爪を粉砕しながら、新たな凍気を撒き散らす。ダルマ落としのごとくバランスを崩した大蜘蛛の胴に、良一がすかさず炎を叩き込むと、とうとう大蜘蛛が怒りの声を上げた。
――ギィィィィィィィィィッ!!
声に呼応し、周囲の子蜘蛛が動き出す。臀部を一斉にこちらに向け、全方位から黒い糸を射出してくる。避けきれない……! 奥歯を噛んだ瞬間、黒い波はあらぬ方向へと軌道を変え、そのまま体育館の壁や床にに吹き散らされていった。
「あやめちゃん……!」
フルートを奏でながら、あやめが強い眼差しを送ってくる。これで子蜘蛛の攻撃は封じられる。だが、あやめの意識がこちらに向けられている今、ロベルトの護りは手薄になっていた。
大蜘蛛は見逃してはくれなかった。不揃いになった脚でバランスを取りながら、臀部の先をロベルトの方に向けてくる。あやめも気付いたようだが、まだ子蜘蛛達の攻撃は止んでいなかった。今制御を解けば、陽千香達が糸の餌食になってしまう。
「ロベルトっ!?」
良一が叫ぶのから一瞬遅れて、大蜘蛛が糸を噴き出した。迫り来る糸を前に、ロベルトは逃げようとしない。炎を保ったまま、覚悟したような表情でその場に留まり続けている。
「ロ――」
ロベルトの姿が闇に呑み込まれた――かのように見えた。息を詰まらせた陽千香は、次の瞬間、彼が無事であることに気付く。
ロベルトを襲った糸の塊は、左右に割れて彼を素通りしたのだった。切り裂かれた糸は床に落ち、影の中に吸い込まれるようにして消えていった。
大蜘蛛の動揺を受けて、子蜘蛛達の糸が僅かに途切れた。その隙に陽千香は再び床を蹴り、一気に大蜘蛛との距離を詰めた。高く跳躍して切っ先を下に向け、重力を利用して力の限り突き立てる。
耳をつんざく悲鳴が響く。振り払おうともがく勢いに耐えながら、さらに力を込めていくと、大蜘蛛の脚がびくん、と大きく痙攣した。動きが止まったその一瞬を逃さずに放たれた良一の矢が般若の額を貫くと、大蜘蛛の全身から力が抜けた。見た目よりずっと軽い音を立てて崩れた大蜘蛛の背から飛び退くと、その身体は徐々に炎に包まれ、火の粉となって空中に散っていった。
体育館の中に、夕陽の明かりが戻ってくる。視線を上げると、窓を覆いつくしていた子蜘蛛達が、大蜘蛛と同じように消えていくのが目に入った。親玉の力を失って、末路をともにしたのかもしれない。随分と久し振りに感じる陽の光に、陽千香はほっと目を細めた。
「……やった……」
圭介が呆然と呟く声が聞こえた。
「……勝てたぁぁぁぁぁ……っ」
気が抜けたようにそう言うと、圭介は床に大の字になって転がった。つられるように良一がしゃがみ込み、あやめが笑顔で胸を撫で下ろす。御使い達も含め、全員が無事だった。あの強敵を相手に誰も傷付かずに済んだのは、奇跡のような結果と言えた。
「……あ」
ふと思い出し、陽千香は視線を巡らせた。四人から少し離れたところに、ぽつんと貴則が佇んでいる。陽千香は彼の方へ近付くと、頭を下げて礼を述べた。
「さっきは、ありがとうございました」
怪訝そうに眉を寄せる貴則に笑いかけながら、陽千香は先を続けた。
「ロベルトを助けてくれたの、久我先輩でしょう? おかげでみんな無事でした。本当にありがとうございます」
貴則は、どこか拗ねたような表情で陽千香を見つめ返していた。不思議に思った陽千香が首を傾げると、彼は視線を逸らしながら呟くように言った。
「……良い気分なんじゃないかい?」
「え?」
「やり返せたと思ってるんだろう?」
貴則はそう言うと、眼鏡の蔓を押し上げて腕を組んだ。
「偉そうに言った割に、最後は全部キミ達の手柄だ。勝ち名乗りを上げたければそうすれば良いさ」
「……ええと」
貴則の言っていることが分からず、陽千香は指で頬を掻く。そんな陽千香の様子に、貴則は苛ついたように眉間を寄せて言った。
「わざとやってるなら腹が立つね……テストのことに決まってるだろう?」
「……ああっ!」
言われて、陽千香はポンと手を打った。
「悪魔を倒すのに必死で、今の今まですっかり忘れてました!」
「忘れ……」
呆気に取られた顔で零し、貴則は額に手をやった。その目に憐みの色が見えたような気がしたが、陽千香は気付かなかった振りをした。
「あ、あの……忘れておいて何ですけど。テストの結果って……?」
訊ねる陽千香に、貴則は暫く無言だった。不安になりながら見守っていると、やがて彼はため息と同時に吐き出した。
「……あえて訊いてくるあたり、キミも大概意地が悪いねェ。結果は出たんだ。言うまでもないと思うけど」
「……じゃあ……!」
陽千香は胸の前で手を組んで、貴則に笑顔を向けた。貴則は相変わらず視線を合わせてくれなかったが、最後には渋々といった調子で頷いた。
「……合格だよ」
陽千香は振り返り、他の三人の仲間を見た。陽千香達の会話は聞こえていたのだろう、いずれも嬉しそうな表情を浮かべて、陽千香の方を見返していた。
「やりましたね、綾藤先輩……!」
「ふふーんだ。これでちょっとは見直しました? これからはチビ介なんて呼ばせませんからね~」
「圭介君……」
ここぞとばかりに言い返す圭介を、呆れ顔の良一が窘める。そんなやり取りすら微笑ましく思えて、陽千香は思わず声を上げて笑った。
きっと大丈夫だ。陽千香は思った。どんな困難な局面でも、みんなで協力すればきっと乗り越えられる。
残る神子は一人。顔も名前も分からないその人と出逢うのが、今から少し待ち遠しく感じられた。




