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リンクリングトラウム  作者: 田川 竜
プロローグ
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プロローグ

〝それ〟は、暗闇の廊下を走っていた。獣のような荒い息を吐き、強靭(きょうじん)そうな後ろ足で床を蹴って、脇目も振らずにどこかへ向かっていた。

その目的はただ一つ。自身の存在を(おびや)かす、とある存在の排除。研ぎ澄まされた五感は、敵の位置情報を正確に捉えていた。聴覚は微かな衣擦れや息遣いを。嗅覚は敵の移動の痕跡(こんせき)を。優れた身体能力をもってすれば、敵がどこに隠れようとも追跡は容易(たやす)かった。

もっとも、敵が隠れてなどいないことは始めから分かっていた。敵はこれまでもずっと、真っ向から挑んできては多くの同胞を(ほふ)ってきた。生来備えている身体の頑強さや俊敏さに関しては、自分達より遥かに劣っているにも拘わらず、だ。それもこれも、全ては忌まわしいあの能力のせいだ。自分達を葬るためだけに、奴ら一人一人に授けられた武器。その一撃を喰らえば、いかにこちらの身体能力が優れていようと、一瞬で蒸発させられてしまうのだ。事は慎重に運ぶ必要がある。奴らに攻撃の(いとま)を与えてはならない。隙をついて一気に仕留めるのだ。

音とにおいを頼りに建物の内部を進み、同じような造りの部屋が並ぶ廊下の突きあたりを曲がると、その先に開けたスペースが見えてきた。四方をガラス戸に囲まれた小さな庭。建物の最上階まで吹き抜けになったその中央には、一本の樹が植えられている。空から降り注ぐ月明かりが枝葉を照らし、その足元に濃い影を落としていた。

そして気付いた。樹が作り出した影の縁で、静かに佇んでいる一つの気配。それはこちらに背を向けた状態で、天上の月を仰いでいるようだった。

牙も爪も持たない、いかにも非力そうな二足歩行の生物。その中でも、とりわけ小柄で弱々しい外見を持つそれは、人間の女だった。まだ年若いその容姿は、少女と呼んでも差し支えない。

見つけた。口元が自然と残酷な笑みを形作る。あれが標的だ。

気配を殺し、そっと庭の方へと近付いて行く。呑気に空を見上げている少女は、まだこちらの存在に気付いていない様子だ。見る限り丸腰で、今仕掛ければ完全に不意をつくことができる。

腰を落とし、脚に力を込める。極限まで張りつめた筋肉のバネを使って一気に跳躍(ちょうやく)すると、〝それ〟はガラス戸を破って標的に肉迫した。ガラスの砕ける音に反応した少女がこちらを振り向こうとしたが、もう遅い。笑みを浮かべながら腕を振り下ろした先で、鋭い爪が少女の首元を()いだ――そのはずだった。

視界の隅に映る違和感。傷口から噴き出した血の、その夜空のように真っ黒な色。これはいったい何だ? 混乱の中で視線を彷徨(さまよ)わせると、振り下ろしたはずの腕が、(ひじ)の先から消えているのが目に留まった。黒い液体はそこから迸り、空中で光となって霧散(むさん)していく。

しくじった。その事実に気付き、"それ"は表情を歪ませた。隙だらけと侮ったばかりに、こんな深手を負わされるとは。だがこれで終わらせはしない。無事な方の腕を振り上げ、せめて一撃を喰らわせようとする。

だが、全ては遅すぎた。

少女はもはや完全に〝それ〟の姿を捉えていた。鋭い視線が月光を受けて(きら)めいている。目が合った瞬間、少女は短い気合の声とともに、いつの間にか手にしていた得物(えもの)を振り抜いた。

満月のごとく白い刀身。忌むべき力で構成されたそれは、〝それ〟の胴体の中心を一文字に切り裂いた。怨嗟(えんさ)のこもった断末魔とともに、眩い光が周囲に散らばり――


それが最後だった。敵の消滅を確認すると、少女は今しがたの気迫が嘘のような、気の弱そうなため息をついた。鎖骨を少し越える長さの(つや)やかな黒髪をかき上げると、虚空に向かって声を発した。

「終わったわよ」

『ご苦労さまでしたわ、陽千香(ひちか)

少女の呼びかけに、どこからか応える声があった。女性、というより、小さな女の子のものと表現する方がしっくりくる甲高い響き。それでいて不思議と気品に満ちた、何とも形容のしがたい雰囲気を含んでいる。

陽千香と呼ばれた少女は、剣を持つ腕を下ろすと、庭の中央に佇む樹を見上げた。片手を樹上に向かって差し出すと、彼女の掌に小さな光が舞い降りてくる。拳と同じ程度の大きさの光は人の形を持っており、背には白銀に輝く翼が生えている。それは世に天使と呼ばれる存在を彷彿とさせる姿だった。

『だいぶ手際が良くなってきましたわね。良い調子ですわ』

先ほど陽千香に応えた声は、彼女のものだった。小さな天使は両手を胸の前で組み、機嫌良さげな笑みを浮かべた。そんな彼女に対して、陽千香は不服そうに唇を尖らせている。

「もう、リヒトったら他人事だと思って。こっちは毎回、必死だっていうのに」

『あら、他人事だなんて思ってませんわ。陽千香に頑張ってもらわないと、わたくしだって使命を果たしたことになりませんもの。毎回、真剣に応援してますわ』

調子よく答える天使――リヒトに、陽千香は恨めしそうな視線を向ける。リヒトはそんな彼女の目の前で手を打ち鳴らし、急かすように声を上げた。

『ほらほら、仕事も終わったことですし、そろそろ現実世界にお帰りなさいませ。遅刻しないように、ちゃんと目を覚ましてくださいましね?』

「むー……分かってますよーっだ」

拗ねた様子の陽千香に呆れた声を漏らしながら、リヒトが空中に飛び上がった。翼から一枚羽根を抜き取ると、そっと息を吹きかける。羽根は光の粒子をまとい、徐々に輝きを増したかと思うと、やがてリヒトの頭と同じくらいの大きさの、白い風船に姿を変じた。

『それじゃあ、いきますわよ~……せーのっ』

パンッ!!

リヒトが両手で挟むように叩くと、その大きさからは想像しがたい音量の破裂音を響かせて、風船が破れ散った。気付いた時には、そこにいたはずの少女の姿はきれいさっぱり消えており、庭には小さな天使が一人、ぽつんと残されているだけだった。


沈黙と月明かりだけが満ちる庭の片隅。それは、人々が夢を見ている間の出来事だった。

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