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風五月の記憶

作者: 野球の戦士

本作品はフィクションであり、作品に登場する個人名や国・地域の名前は、実在するものとは一切関係ありません。

響き渡る大歓声。


日本国歌の音調は、観客の声でかき消され、会場は異様な盛り上がりを見せていた。


オレ───木下成浩きのした なるひろは、目を閉じて右手を胸、すなわち日の丸のマークのある場所に当てて、会場の空気を黙って吸っていた。


自然で優しい俺の吐息は、誰に聞こえるでもなく胸の中にこだまする。会場の喧噪が消え、俺の精神は鋭利な日本刀の切っ先になって、研ぎ澄まされていく。


国歌演奏が終わり、割れるような歓声が超満員の会場に響き渡った。


「いよいよ・・・ですね。木下さん」


俺の隣にいた日本代表のチームメイト、高橋が顔を前に向けたまま俺に耳打ちをした。


ああ。


抜けたような声で、高橋に応える。





アジア卓球大会、男子団体の決勝、日本VS韓国。


舞台となるウズベキスタン共和国タシケントにある国立体育館には、アジア人、ヨーロッパ人、アメリカ人など世界中からファンや報道関係者が詰めかけていた。


卓球といえば、一昔前はどちらかというと地味というか、カラダとカラダをぶつけあうスポーツというよりかは、緻密で頭脳を使うスポーツだというふうに思われていたそうだ。しかし現代ではそんなことはなく、むしろ全身を使ってボクシングのごとく激しく攻め、殴り合う(と、これはもちろん言葉のアヤであるが)最高にカッコいいスポーツだと思われている。そういうわけで、野球やサッカーといった競技に流れがちだった優秀人材が相次いで卓球を選ぶようになり、日本のみならず世界中の国の卓球レベルが飛躍的に上昇した。


かつては、中国の卓球が世界を席巻する時代が長く続いていたらしいが、時代は変わった。やがて中国は国際大会でも思ったような成績をあげることができなくなり、それとは対照的に周辺国がめきめきと力をつけ、あげくの果てにそれまで名前すらなかったアジアやアフリカの小国まで、さかんにジャイヤント・キリングを起こして世界一流の争いに食い込むような、いわば戦国時代に入りつつあったのであった。


その中で、特にめざましい成長を展現したのが、アジアの2カ国──日本と韓国である。


まずは、日本だ。


中国が一大勢力を築いていた時代でも、日本人選手は持ち前の技術の高さと勤勉なプレースタイルを活かして中国選手に食い下がり、しばしば中国を打ち破ることがあったが、やがては自然と中国を凌駕し、世界一と呼ばれるまでの強い選手を次々輩出するに至った。


中国が衰退したのち、日本人が国際タイトルを総なめにするような時代が続いた。国内の卓球人気に加えて国からの多額の援助もあり、「卓球ニッポン」という20世紀に卓球業界でささやかれた死語が再びスポーツ界で流行するまでだった。


そして、もう一カ国は、韓国である。


韓国は日本よりも若干遅れて卓球への本格的な強化が始まった国だが、その成長のスピードは日本よりも速く、かつダイナミックだった。


もともと負けん気の強い民族である。どのスポーツをやらせても、多少荒いながらも劣勢からまくりにまくって最終的には勝ち点獲得へとつなげていくその執念深さは、卓球においても面目躍如だった。


卓球はもともと、ある程度指先の感覚や器用さが問われるスポーツである。韓国人は精密で高い技術力があり、パワーと素早さも兼ね備えていた。身長は大きいが大味なヨーロッパの選手や、パワーでごり押しするような南米やアフリカの選手は、サッカーやラグビーではそうしたプレーが通用しても、卓球という競技においては自らの隙を生むだけのものであると気づかされた。


日本と韓国。


まさに今世界の卓球の双璧をなす超大国の激突に、卓球メディアはおろか、他のスポーツメディアやファンさえも釘付けになり、熱狂していた。





「久野、調子はどうだ?」


俺は、いよいよ決勝戦の第一試合の選手として台へと向かう日本代表の久野に、軽く声をかけた。


「木下・・・ありがとよ。まあ、精一杯暴れてきてやるさ」


そう言って久野は、にやりと笑う。だが、目の筋肉は顔の動きと一致せず、緊張したようにこわばっていた。


「そうか。・・・相手は、あいつだから、まあ・・・」


俺はそこまで言って、口をつぐんだ。その続きをどうやったら良かったのか、軽はずみなことを言うことはできず悩んでいると、久野はぽん、と俺の方を叩いた。


「『まあ、負けても俺がなんとかするから、気楽にやれ』、だろ?」


久野はにっと笑って、そのまま何も言わず戦場へとゆっくりと歩いていった。


のっしりとした重そうな久野の身体は、見かけによらず質の良い筋肉でできていて、やわらかくつやがいい。他の球技をやっても成功するんじゃないか、と思うくらい久野は運動神経にすぐれているが、裏腹にメンタルの面ではややもろさが目立つ。


「木下。・・・いいか、最終セットまで試合がもつれるという前提で動いてくれ。いいな」


監督は、練習のラリーをはじめた久野の背中をじっと見つめながら言った。静かな闘志のこもった、震えるような声だった。




卓球には団体戦がある。


国際大会においては3人で1チーム、5試合を行い先に三人が勝利したチームが勝ちというルールだ。


3人で5試合を戦うわけなんだから、3人のうち2人は2試合を戦わなければならない。通常この2試合を戦う選手というのはチームの実力者である。


例えば、日本。2試合を戦うのは俺と久野だが、俺はこの日本チームのエースという扱いを受けていて、久野もこの何年か連続で全日本選手権の決勝で俺と対戦しているような選手だ。今回の試合では、久野、俺、高橋(これは、若いながらも全日本や世界大会で好成績を残している、日本のホープと目される選手だ)、久野、そして俺という組み合わせで戦うことになっている。


俺は、台から離れたところで相手のドライブやスマッシュといった激しい攻撃をひらりひらりとかわし、相手が自滅するか、そうでなければこちらから反撃するタイプの、いわゆるカットマンという戦型を得意としていた。卓球界にカットマンの選手はすくないから、相手が不慣れなのもあってか、俺のプレースタイルはかっちりと型にはまり、勝ちまくった。


ひたすら守って守って、守りまくる。サッカーのゴールキーパーではないが、攻めの速いボールをうまく拾って、柔らかく、しかし魔法をかけて相手へと返す。持久戦だ。そうした長い勝負に俺は慣れていたし、たいてい先に精神が折れてミスを連発するようになるのは相手だった。相手が攻めれば、守る。また攻めてきたら、また守る。いずれ相手が疲れてきたところで、きついのをおみまいする。まあそんなような感じで、俺は「日本の天才カットマン」なんて異名をほしいままにしながら、もはや世界には敵なし、というところまで俺は上り詰めた。





ところが・・・だ。


天才ともてはやされる選手は、お隣韓国にもいた。





どっわああああ!!


韓国代表のエースの登場に、突如大歓声が、国立体育館をばきばきに割った。


俺はびくっとなって、久野が立っている台を見る。


相手の韓国選手は、端正な細い顔に笑みを浮かべて観客に手を振ったかと思うと、すぐに射るような瞳を久野へと向ける。まるで精悍な野獣と化したかのような、殺気のこもった眼光。


韓国の赤いユニフォームの袖口からすらりと伸びた腕の先に置かれたピンポン玉がふわりと浮いたかと思うと、もう次にはしゅるしゅるしゅる、と台の上で蛇のように這って久野のふところへと襲いかかる。


久野はレシーブをミスし、台の向こうで韓国選手が雄たけびを上げる。


そう、彼こそが、今の卓球界をときめく韓国のスーパースター・・・


ソン・ミンヒョン選手だ。

 



俺が最初国際大会でミンヒョンを見たとき、「なんだコイツは?」と驚嘆してしまった。


全体的に細身で身長も170と少しくらいしかないように見えたが、台のそばで激しく動き回るさまは、激戦地における歴年の兵隊を思わせるほど洗練されていた。


韓国にものすごい選手がいる、というウワサは確かに聞いていたが、正直ここまでとは思っていなかった。


誰も相手にならなかった。1セット落とすことすらも稀で、ほとんどストレート勝ちで世界の強豪たちを次々と撃破していったのである。


短く刈り込んだ髪、小さいがすごみのある瞳。


俺も、大会でミンヒョンと何回か戦ったが、負けた。


ミンヒョンが本格的に国際大会に出るようになって、俺の優勝回数はぐっと少なくなった。


他の選手では絶対に取れないタイミング、取れない位置を狙って打っても、ミンヒョンだけは涼しい顔で返してくる。むしろ、あざ笑うかのようにこちらの隙を正確に見抜き、容赦ない攻撃が俺の守りを打ち砕く。


一時期、俺はミンヒョンに勝てなくて悩んで、卓球を辞めようかと思ったことがあった。


けれど、やっぱり負けて悔しいという気持ちがあった。


だから、卓球で韓国に勝って、アジア王者になりたい。その一心で、俺は日本代表のユニフォームを着けて、このウズベキスタン国立体育館に来ているのだ。




「くっそお、だめだ、歯が立たねえ」


久野が日本ベンチに戻ってきて毒を吐いた。


3-11。


いきなり第一セットを韓国のエース、ミンヒョンに取られるという、完全にミンヒョンのペースになった。


「久野、落ち着いてミンヒョンの動きをよく見るんだ。今日のミンヒョンはバックハンドの調子が良くない。いつもより肘が上がりすぎてるんだ。ミンヒョンは良い選手だが、お前だってそりゃもう毎日練習もして、簡単には負けないはずだ。自信を持ってやれ。以上」


監督はそう言って、久野の方を両手でポン!とたたく。久野は不安げに監督を見上げながら、「はい、監督」と威勢のいい返事をした。


俺はそんな二人のやりとりを見ていながら、心の底では氷よりも冷たい結論をすでに下していた。


今の久野では、ミンヒョンには勝てない。





以前、韓国の監督がメディアのインタビューに答えていたことがある。


「ソン・ミンヒョンは歴史を変えられる力量がある。ソン・ミンヒョン選手は、普通の選手ならば0.5秒の判断時間を費やして処理するボールを、わずか0.2秒の判断時間のみで処理できる。こんな選手は世界にはいないし、今までもいたことがなかった。彼は、天才だ」


驚異的な反射神経。


小さな卓球台で向かい合ってその短距離の間で高速のラリーを繰り返す卓球というスポーツでは、反射神経がまずなによりも必要になるが、ソン・ミンヒョンの反射神経はもはやずば抜けていたから、その銃弾と銃弾が飛び交うかのような戦地での駆け引きにおいて、彼は天才であり支配者だった。いくら一般選手が隙を狙って打つボールでも、ソン・ミンヒョンにとっては予想済みで、難なく対応できてしまう。いや、予想すらしていないかもしれない。その場の反射神経のみで常人の半分以下の時間で判断できるのだから、およそ動きが遅れて反応できない、ということは彼にあってまずありえないことなのだから。


加えて、身体の芯の強靱さがある。


どんな体勢になっても、またどんなにきわどいところにボールが飛んできても、ブレのない体勢で打ち返すことができる。どれだけ動かして振ってもけっして崩れないのだ。ムンヒョンの父親は、英国の著名なサッカーチームの選手だったというから、その血をミンヒョンは受け継いでいるのだろう。


俺はちらりと監督を見やる。監督は久野とミンヒョンの試合のことをどう考えているかは分からないが、おそらくは捨て試合だと考えていることだろう。それくらい、久野とミンヒョンの差は大きかった。だとすれば、韓国に一点を先制されたという前提から出発し、日本としては3勝をいかに稼いでいくか、という発想をしなければならない。それが、いかに難しいことであったとしても。




「おい木下、そろそろアップを始めろ」


戦況は好転するきざしを見せず、久野は2セットを連取されて、第3セットも2-7の劣勢。


久野の敗戦が濃厚になりつつあった。


それでも、ミンヒョンは軽く流しているかのようにプレーしていた。終始落ち着いた、抑揚のないプレーながら久野を圧倒している。


俺は、深呼吸をして、もう一度じっと台の上を見つめた。


頭の中で、ゆっくりとイメージをする。


かこん、かこん、かこん、かこん・・・。頭の中で繰り広げられる、台の上での戦い。イメージトレーニングだ。台の上に入ってから戸惑うことのないように、俺は試合の前に入念に試合を様子をシミュレーションすることにしている。


再び、会場が大歓声に震えた。


セットカウント3-0。勝者、ミンヒョン。


韓国が圧倒的な攻撃力で1-0と先制した。


日本はあっさりと初戦を落としてしまった。


「久野、よくやった。負けたのは気にするな。このままでは俺たちは終わらない・・・いや、終わらせない、この俺が、な」


「・・・!」


俺が肩を落としてベンチに戻った久野の耳元でささやいてあげると、久野ははっと驚いたように俺の方を見た。


俺はすぐに背中を見せてコートへと向かう。




「さて、お前がエース・キノシタか。ここでオレが勝てば、韓国が2-0でリード。お前達の敗戦がほぼ決まるようなもんだ」


韓国の2戦目の選手、シム・ムヨルがにやりと笑う。これはひょろりと手足の長い、高身長の選手である。


「オレは、お前に勝つために半年も前からカットマン対策の練習をしてきたんだ」


「・・・」


試合前の練習ラリー。


俺の身体中のバネがゆっくりと加熱し、やわらかくなって動きがなめらかになっていく。


俺にとってラリーは、呼吸のようなものだ。俺の呼吸には俺のリズムがある。ラリーの中で俺は呼吸を整え、自分と対話し、そして相手とのリズムの違いをはかる。そして、それが終われば、逃げようのない死闘へと、自然と突入していく。


ムヨルの赤いユニフォームが会場の照明に照らされ、血のようにぴかぴかと赤く輝いて見える。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ。・・・キノシタ。このオレのスピードにどこまでついて来られるかな?」


「ゴタクは勝ってからにしな」


ムヨルの細い瞳に、火花が散った。


ラブ・オール。


大歓声の中、ピンポン玉がふわりと宙に高く投げ上げられる。




「木下、悪くないぞ。しかしまだ少し身体が固いのかもしれん。相手のテンポに合わせる必要はない、お前のペースで守ればいい。下回転オンリーだと相手に細工されやすいから、もっとナックルや横回転をうまく使うといい。それらの球種は相手も強打しづらそうにしていると見える」


ベンチに戻った俺は、タオルで口を押さえながら監督のアドバイスを受けていた。


俺の顔の筋肉がふるふると震えている。


監督は、こうした調子が悪い状況でも、責めたりどやしたりすることはなく、柔らかい言葉で慰めてくれる。俺はその監督の包むような温かさに依頼したくて、しきりにうなずきながら聴き入る。


5-11。


一セット目をムヨルに奪われた。


正直、俺は平常心を失っていた。


まさか、先にセットを取られるなんて。思ったよりもムヨルは強い。


ムヨルは、とにかく速攻に徹してきていた。


タッチが早く、かつネット際に多くボールを落としてきていた。ときおり繰り出されるドライブは、速攻でテンポを崩されていた俺のカットでは思うように受けられず、しばしば俺はレシーブをミスした。


こんなはずではない。


俺は一度深呼吸をして、目を閉じた。大丈夫、大丈夫だ、いつも通りの俺のプレーをすれば・・・。


「・・・木下さん」


若手の高橋が俺を見つめていた。


「木下さんなら、あのシム・ムヨルとかいうやつには負けないです。たしかにあいつはカットマン対策をがっつりやってるみたいですけど、ワンパターンに陥ると思います。俺、木下さんを信じてますから」


「・・・ありがとう」


「木下。攻めの気持ちも忘れるなよ。カットマンの攻めって、独特でムヨルもそこまで対策していないはずだ。大丈夫、俺たちがついてるぜ。力を抜いて、思いっきり暴れてこい!!」


久野にも勇気づけられ、俺は目がじんわりと熱くなる。


「ありがとう・・・ありがとう。俺、みんなと一緒にいるつもりで戦ってくる」


皆の暑い視線を背に、俺は再び戦場へと向かう。


俺が先に台につき、遅れてムヨルが台へと入ってきた。


「木下、お前の弱点はうちの監督がとっくに見抜いてたぜ」


そういって、ムヨルはにやりと笑う。


「抜かせ。ハッタリはそのへんにしておけ」


ムヨルは何も言わず、俺の対面に立って戦闘態勢に入る。


俺はラケットで一度顔をあおいだ。ささやかな、しかし涼しい風が顔の熱さをしずめてくれる。


歓声が場内をさざめきわたる。カメラのフラッシュがたかれ、独特の熱気が鼻をつつく。


・・・そうだ、俺は一人じゃない。ムヨルはたしかに対策をしたみたいだが、俺だって何十年とカットマンをやってきた。そう簡単に破られてたまるものか。息をつく。身体の奥からむくむくと力が湧いてくる。


俺の腕がしなり、ピンポン玉を投げ上げる。いつもより高く浮き上がった。


さて。


ムヨル。本当の勝負はここからだ。





卓球は、繊細なスポーツだから、しばしば当人の心理状態や場の雰囲気によって試合の流れは大きく左右されるものだ。


ウズベキスタンでの試合は、日本にとって完全アウェーにも等しかった。ウズベキスタンと韓国は旧ソ連の時代から移民のからみで政治的に関係が深く、観客席にも大韓民国の国旗を掲げているファンの方が日の丸よりも圧倒的に多い。


そうした中で、日本チームが韓国という世界最高峰のチームと戦うのは厳しいものであったし、韓国が1-0とリードしていることもあって流れは悪かったが、しかし俺はその流れにはのまれなかった。


いや、むしろ積極的にその流れを変えようと思った。


「ほらほらっ!」


「な、なっ・・・(こ、こんなところが見えているなんて・・・)」


右腕を遠心力に任せて伸びやかに、腕ごとぶん投げるかのように振りぬいてドライブをムヨルにお見舞いする。完全に逆をついた攻撃で、ムヨルはノータッチのままボールの行方を見送った。


これで8-4。


リードを広げる俺。


ムヨルの額に玉のような汗がいくつもにじんでいる。困惑したような、苦しそうな顔で俺の方をじっと見つめる。


これでいい。


ウズベキスタン人と韓国人の観客が静まりかえり、今まで聞こえなかった「ニッポン」コールが、小川が少しずつ大河になっていくように声量を増して会場に聞こえるようになってきた。


思えば、準決勝の日本対ウズベキスタン戦。


日本は地元ウズベキスタンに予想外の大苦戦を強いられながらも、3-2で競り勝ち、決勝戦へと駒を進めた。


その随所随所で、俺は安定感のあるプレーを心がけ、チームの皆を勇気づけた。


エースに期待されるのは、勝ち星を稼ぐことでるのは言うまでもない。


しかしそれと同等に、いやそれ以上に、チームの皆に勇気を与えることが重要なのだ。


9-4。


コートから離れて、相手の攻撃をひらりひらりとカットでかわす。やがて、俺がボールにかけた魔法に困惑して、相手がミスをする。ムヨルが、俺がナックルで返したボールの対応を間違え、ドライブがオーバーして俺の得点になった。


ムヨルはここで戦意を喪失したようだ。俺はそのまま続けて二得点し、11-4。第2セットを奪い返した。これで1-1のタイだ。





「ニッポン」コールに包まれながら、俺はムヨルのだらりとした手と握手をした。


セットカウント3-1。


俺はムヨルを撃破した。これで日本と韓国は1-1の同点。


「躍動していたな、木下」


ベンチに戻ると、監督が微笑んで俺を出迎えた。


高橋と久野が、俺の肩口をばんばんと叩く。「よくやった、よくやった」と祝福してくれる。


「いつもに増してカットの技術が良かったな。攻めるようになって明らかに相手はうろたえていた。さすがの修正能力だ、木下」


「ありがとうございます」


俺はふうと深い息をついて、席へと座った。


身体がぽかぽかと温かく、勝利した後の歓喜がじんわりとしびれるように身体中を駆け巡る。


だが、俺はまた戦場へと戻らなければならないかもしれない。


第3、第4試合ではそれぞれ高橋、久野が出場する。韓国からは、それぞれユン・ソンナム、シム・ムヨルが出る。


第5試合。日本から俺。韓国からソン・ミンヒョンが出場する。

 

エース対決だ。



2-2の同点になれば、第5試合で勝ったチームが勝利となる。この場合、アジア王者となれるのだ。


もちろん理想はこのあと高橋と久野が勝って3-1で日本が勝つシナリオだが、冷静に考えるならば、監督が考えているのは2-2で最終戦までもつれて、俺とムンギで雌雄を決するというシナリオであろう。

 

監督は厳しい目つきで台を見つめていた。その目つきは、1-1に持ち込んだとはいえ、今後の厳しい試合展開を暗示しているかのようであった。


台では、早くも第3戦、若手のホープ高橋と、同じく韓国の若手ユン・ソンナムの戦いの火ぶたが切って落とされていた。





「・・・ふう」


俺は会場を抜けて、一人で休憩場に座って飲み物を飲んでいた。


試合の喧噪が遠くなり、無機質な電灯に照らされながら、頭をからっぽにしようと努める。


「おや?タカハシの試合は見なくていいのかい?・・・キノシタ・ナルヒロ」


俺はびっくりして振り返ると、そこにはミンヒョンが立って俺を見下ろしていた。


「別に。・・・すぐにベンチには戻るつもりだし、監督にも休憩の許可はとっている。お前こそ、あのユンなんとかの試合は見なくていいのか」


「キノシタがここにいる理由と同じだ。・・・あの試合は見るまでもないさね」


俺はうつむいて言葉がなくなった。ミンヒョンは俺の隣にどすりと座り、ごくごくとのどを鳴らして飲み物を飲む。


彼の手足はすらりと細いが、きめの細かい筋肉がついていてつやがあり、動きのひとつひとつに隙がない。近くにいるだけで男性的な殺気が漂ってくる。


「・・・」


「日本人にとっては残酷かも知れないが、若手のレベルでは日本は我々には及ばない。タカハシは技術はあるが勝負どころでのセンスに問題がある。踏み込みが足らないんだ。ユン・ソンナム選手は、韓国では若手ナンバーワンだ。日本の若手選手に負けたことはないし、クノにも勝ち越している。本当のことを話すと、我々の監督は3戦目を終えて2-1で韓国が勝ち越しているというシナリオで動いている」


そう言うとミンヒョンはにっこりと笑って俺を見た。ミンヒョンは笑うと、目のはしがくしゃっとなって温厚そうな顔つきになる。


「そうか。まあそうなればいいんじゃないか?・・・想像するのは勝手だ。だが、もし3-1でこのまま日本が勝てば、ミンヒョンは出ないまま韓国は敗戦することになる。そうなったら韓国の監督は辞任ものじゃないのか?」


「卓球というのは、エンターテインメントなんだ」


ミンヒョンは俺の話を遮るようにいった。


「スポーツは、勝つのが当然だ。だが、それ以上に観客を楽しませなければならない。ただ勝つだけじゃ駄目だ、どうしたら観客が楽しくなるか、どうしたら卓球を通じて皆を熱狂されることができるか。オレは常に心がけてラケットを握っている。オレが、韓国の卓球を、いや、世界の卓球を引っ張る存在でありたい。そのためには、常に戦いの中でスターであり続けなければならないんだ」


ぐわん、と床が揺れた。どうやらどちらかがセットを奪ったようだ。そのいきなりの衝撃に俺はびっくりして、手に持っていた飲み物を落としてしまった。


俺は驚いたのが恥ずかしくて、床に落ちたペットボトルの飲料を拾わずにじっとミンヒョンの方を見た。


ミンヒョンは真剣なまなざしで俺を見つめながら、話し始めた。


「今、世界一に最も近いのは誰だと思う?・・・ヨーロッパ人は技術はあるがスピードが足りない。アフリカや中南米の選手は実力はつけているがプレーが雑だ。世界一が出るとすればやはりアジア・・・とくに韓国と日本がずば抜けている。そう、世界一を取れるのは、オレかキノシタ、この二人しかいないんだ」


ミンヒョンは意味ありげに笑うと、軽く手を振ってから自信ありげに会場へと戻っていった。俺はしばらくミンヒョンの言葉を繰り返しながら、彼の背中を見つめていた。





ベンチに戻ると、そこにはタオルを口にあてて監督の言葉を聞く高橋の姿が見えた。


「久野、試合はどうだったんだ?」


「からきしダメだ。もうセットカウント0-2。高橋も調子は悪くないんだがそれ以上にユン・ソンナムが・・・強すぎる」


「え?!だ、だって試合はさっき始まったばかりだろ?!」


久野は何も言わず、下唇をかんだ。


・・・俺が休憩室でソン・ミンヒョンと話している間に、もうそんなに時間が経っていたのか?俺は信じられない思いで、会場のスクリーンを見る。


7-11,5-11。


「一方的だよ。はっきり言って」後ろで久野が愚痴るように言い捨てる。


相手のベンチでは、早くも4番に登場するシム・ムヨルが立ち上がってフットワークと素振りを繰り返していた。韓国の監督も、ソンナムになにかを話しているが、どこか余裕そうな表情が漂っていて、ミンヒョンもコーチとなにかを話していた。


このまま高橋が敗れれば、日本は1-2と再度リードを許し、後がなくなる。


「高橋」


俺は、台に戻りかけた高橋を呼びかけた。


「高橋、絶対にあきらめたらダメだ。いつものお前ならここから逆転することも絶対できるから。単純なミスだけはするなよ」


高橋はまっすぐ俺の方を見つめて、こくん、とうなずいた。


高橋の手は震えていた。目もうるんですこし赤くなっていた。ショックだったのだろう。同じ若手でありながら、ここまでの差がついているという事実が。高橋は腹を決めたのか、力強く台へと歩いて行く。


頼んだぞ、高橋──!





高橋の打球が台を大きく外れたとき、ユン・ソンナムは雄たけびをあげて、握った左の拳を高く、高く突き上げた。0-3。結局高橋は一セットすら取れずに、力なく敗戦した。


実力差があるとは思っていたが、これで、韓国が2-1とリード。日本があと一点失えば、その瞬間アジアの戴冠を韓国が受けることになる。


割れるような「てーはみんぐっ!」の大合唱。韓国ベンチも沸き立ち、戻ったユン・ソンナムは、手荒い祝福を受けて、青年らしくかわいらしいはにかみを見せていた。


「・・・ちくしょー!!!!」


ベンチに戻るなり、高橋は突如キレて椅子を強く蹴飛ばした。鈍い音をたてて椅子が壊れて、日本ベンチに驚きとしびれたような沈黙が走った。お腹の下のあたりに、じわりと熱いなにかが走るのを感じた。


いよいよ、日本ベンチに敗戦のムードが濃くなっていた。監督も口をまっすぐ結んだまま何も言わず、高橋は一人で爆ギレ状態。久野は試合に、しかも日本が敗戦しかねない状況下での試合に、ひどく緊張していた。


久野の相手はシム・ムヨル。韓国2番手の実力者で、俺も先ほど1セット取られた難敵だ。ミンヒョンには及ばないが、それでも世界の選手の五指には入るほどの力を持つ。


「うあああーーっ!!!!!」


「!?!?!?!?!?!」


突如絶叫を始めた久野。


その突拍子のなさに、さすがの俺もひどくびびった。


「ど、どうしたんだよ久野?!」


「俺はもう絶対負けない!第一試合で手も足も出なくて、この苦しみがお前たちに分かるのか?!こんな、世界一以前にアジアで一番になれなくて、お前ら、恥ずかしくないのかよ?!」

 

「・・・」


監督も俺も黙り込んだ。ここまでストレートに、熱く自分の素直な気持ちをぶちまける久野を見るのは初めてだった。久野の悔しさの告白は、否応なく日本ベンチで敗戦ムードに包まれていた俺たちを、燃やすように鼓舞した。


「・・・久野さん、すいません、俺が、あのユン・ソンナムに勝っていれば・・・」


「気にするな、高橋。・・・さあ監督、この試合のオーダー表を見せてください」


「うむ。これだが?」


監督が取り出したオーダー表には、日本と韓国それぞれの選手の名前と、彼らについてのメモ書き──調子がどうだとか、どのようなプレーが効果的か、とか──が走り書きされている。


久野はそれを受け取ると、そのまま両手でばりっ、と破いてしまった。


「お、おい久野、それは・・・」


久野は怒ったように俺をにらみながら、叫んだ。


「相手がどうか?とか、あと何勝すれば勝てるか?とか、こざかしい計算なんてもう関係ない。俺たちは、俺たちの卓球をやり通す・・・それだけだろうがっ・・・!」


日本ベンチの重たい空気をよそに、会場は異様な盛り上がりを見せる。どこかで発煙筒をたいたファンがいたようで、どこかで赤白い閃光が輝いたかと思うと、警備員に制止されてどこかへ連行されていった。


これが、アジアの戦いであり、そのために用意された戦場、試練。


俺たちが呑み込まれてしまいそうなその熱狂の渦の中、久野とシム・ムヨルの戦いは、すでに始まっていた。





第四試合。久野はスタートから猛烈な攻撃を仕掛け、その勢いと熱気にムヨルは圧倒された。


「うおおおおおおおお!!!」


得点が入るたびに、久野が叫ぶ。張り詰めた声の波が、優勝を間近にしてほくそ笑んでいた韓国チームに、不安を与える。


第一セットを久野が奪い、第二セットはデュースの末にムヨルが奪う。迎えた第三セット。


スコアは6-9。ムヨルがリード。


サーブはムヨル。


力の抜けた、やわらかいフォームから、何種類もの変化球を自在に打ち分ける。


ふわふわとしたボールが、久野の手元へと落ちてくる。すくうか?それとも、たたくか?久野は煮えるような頭で一瞬の判断をくだし、その細微な判断を、指先へ、腕へ、フットワークへ伝え、表現する。ファンが見るぶんにはなにげないプレーに見えるのだが、プロの選手が見れば、そうした久野の一つ一つの緻密さ、のみならずそれを力強く、情熱的に見せることのできるパフォーマンスは、驚嘆すべきものだった。


しかし、その気持ちの強さが裏目に出ることもある。理想的なフォームを崩してまで攻めに専念する久野の隙を、ムヨルは巧みに突き、久野はやがて追い詰められる。


「6-10。セットポイント」


女性審判の声が冷たく響く。


久野のレシーブは失敗していた。回転を読み違えていた。判断に空隙が生じていた。


中途半端に浮いたボールに、シム・ムヨルは渾身のドライブを打つ。久野もむろん全力で打ち返したが、ムヨルの全身を使ったドライブの回転量はえげつないほど多く、久野の力でも抑えきれずにオーバーした。


久野は足早にコートを去った。ムヨルも同様だったが、久野の顔はゆがんでいた。

 




セットカウント、久野1-2ムヨル。


いよいよ日本は土俵際へと追い込まれた。


やはり、ムヨルは強い。


「久野、落ち着け」


監督がさとすように久野に声をかけている。


俺は、虚空を見つめていた。


そして、目を閉じる。 


・・・もはや、負けを認めるしかないのだろうか。もちろん相手にとって不足はないけれども、それでも骨の髄まで染みるように悔しい。


「久野」


「なんだ、木下。慰めの言葉なんかいらないぞ?」


「あのサーブを使え」


「・・・なに?!」


久野は信じられないといった顔で俺の方を見る。だが俺は本気だ。もう一度久野に詰め寄って、声を落としてささやきかける。


「お前が練習していた、しゃがみこみサーブだ。この劣勢を打開するには、お前、もうあのサーブで勝負にいくしかない。本当はもっと勝負どころで使うのがいいんだが、今使わないともう遅い」


「だ、だが、あれはまだ完成していない。サーブミスはしないと思うが、回転は甘いしフェイントもうまくできていない。あのサーブを使わなくても、俺はまだまだ戦える」


「久野、一刻を争うんだ」


韓国ベンチから、ヒューとブーイングが飛んだ。気づくと、台にはムヨルがもうついていて、軽くフットワークをはじめていた。ムヨルは優勝を目前にしながらも、涼しい表情でときどき目を閉じている。下手な思い上がりや焦りは彼には見られない。つけいる隙はないと言っていいだろう。


だとしたら、ここはこちらが奇策に出るしかないじゃないか?


「久野、日本の命運はお前にかかっている。・・・健闘を祈る」


俺はそれだけ言い捨てて、まだ躊躇している久野の背中をバンと押して、戦場へと送り出した。





ざわ・・・ざわ・・・。


「久野・・・あいつ、けっこう勝負師の才能、あるじぇねえかっ・・・!」


会場はどよめきに包まれていた。


観客の視線は、台に立っている久野一人へと注がれている。


久野はそんな視線をものともせず、ムヨルをじっとにらむ。


ムヨルのほほに一筋の汗が光る。その目には静かな不安が、しかし、まもなくあふれ出すであろう洪水のような焦りと不安が、たしかに頭をもたげはじめていた。


久野はすっとボールを高く投げ上げ、会場が水を打ったように静まりかえる。投げ上げられたボールから目を離す観客など一人としていまい。


久野の目が野獣のようにきっと光ったかと思うと、激しい身振りから久野は膝を素早くくずし、しゃがみこむ体勢を取りながら、落ちてくるボールをラケットの裏で斬りつける。


びゅん、という音が聞こえてきそうなボールが、凪いだ台上の空気をつんざいてムヨルの手元へと刺さる。ムヨルはその軌道の異質さ、タイミングの神秘さ、すべてにおいてそのサーブに対応するすべを知らなかった。


ムヨルの中途半端なツッツキなあえなくネットにかかり、久野はサーブで2点連続で奪った。


これで、9-5。


久野は確信ありげにラケットで軽く顔をあおぐ。あの顔は、すでに最終セットを考えているのであろう。同じくムヨルも顔から勝負の気迫が消え、第5セットに賭けているというような印象を受けた。


そのセットは結局11-7で久野が勝利し、これで2-2のフルセットとなった。

 

 



最終第5セット。


「おおおおおおお!!!」


ポイント、6-2。


久野のしゃがみこみサーブが大爆発だ。


久野のしゃがみこみサーブにたいし、ムヨルはヤケクソになってラケットを振るが、その摩訶不思議な回転は手に負えぬといった風情で、あっちに飛ばしこっちに飛ばし、一つとしてまともに久野のコートに返ってこない。かといって慎重になって甘甘のレシーブでもしようものなら、豪腕の久野のスマッシュの餌食となるだけだ。


俺はすでに次の試合への準備を始めていた。


ソン・ミンヒョンとの最後の戦い──。


この試合、久野は勝つ。


俺はそれを強く信じていた。


疑いたくなかった。


おそらく観客も、たとえ韓国を応援しているファンであっても、久野の勝利は固いものだと思っていただろう。久野のしゃがみこみサーブの完成度は予想以上だった。


「俺、しゃがみこみサーブ、どこまでやれるか分からなかったけど、これなら戦えます。このままムヨルをぶっ飛ばして、絶対、絶対、木下にバトン、つなぎます」と、興奮した息づかいで休憩時に監督に話していた久野だ。何より久野の顔は自信で輝いていた。今後も全日本の強力なライバルになるかもしれねえな。そう思うとむろん大変だとは思ったが、嬉しい悩みに他ならなかった。


そのまま試合は取りつ取られるで進み、スコアは9-5で久野リード。サーブは久野。


ムヨルの目は血走っていた。全身を吹き飛ばされてでも負けたくない、という気概があふれていた。


韓国の監督は表情ひとつ変えずに二人を見つめている。


だが。


──次の瞬間、空気が凍った。


「わああああああああーーーーーーー!!!!!」


耳をつんざくような大歓声。


勝ち誇ったムヨルの雄たけびが、轟音となって競技場の真ん中を揺らした。


久野の放ったしゃがみこみサーブ。


もはや無敵と思われていた久野のサーブは、ムヨルに強打されて、無残にも久野の横をノータッチで抜けていったのだ。


わずか一振り。


あっけなかった。


久野がしゃがみこんで体勢を直す前に、鋭いドライブが久野を切り裂いた。


会場はたちまち絶叫と、かき鳴らされる異国の楽器の音の渦へとのみこまれる。


「そ、そんなバカな?!」


ベンチで座っていた高橋が立ち上がって不服そうな声を出す。だが、審判の腕は冷酷にもムヨルの側へ上がっている。


しゃがみこみサーブが、破られた。


俺もその場面を見ていた。打たれた瞬間、なにか背筋に電撃が走る感覚がして、そのあと指先が冷えこごるかのような悪寒を覚えた。


9-6。


リードを保っていた久野はもう一度大きく息をついて、ハッタリをかますみたいに悠々としたさまで台に立つ。


ふっ、とボールが空中へと消える。


そして落ちてきたボールがラケットに吸い込まれたかと思うと、目にもとまらぬスピードでラケットは面を変え、ボールに生命をあたえる。


しゃがみこみサーブ。


ムヨルは大きく振りかぶり、腕をぶわん、と振った。


鋭い打球が久野のバックを襲う。久野はかろうじて返球するも、ムヨルのフォアハンドの鮮やかな追撃を受けて、久野は返球するすべを失った。


9-7。


「なんだよ、いったい何がどうなってんだ?!しゃがみこみサーブは完璧だったのに?!さっきまで全く返球できてなかったじゃねーか!!」


一人で叫ぶ高橋を横にして、日本ベンチで口をきくものはない。


あの一球で、もはや試合の流れはガラリと変わってしまった。


久野はユニホームの袖で汗をぬぐう。ムヨルのサーブ。久野はそつなくレシーブし、ネット際でのツッツキ合戦から、豪快なドライブの打ち合いへと様相を変える。


俺はぼんやりと見入った。もはや、次に俺の試合が控えていること(もちろん久野が勝利したら、の場合だが)さえも忘れて、この激しい試合の中にどっぷりと浸かっていた。


やがてムヨルの攻撃に耐えきれなくなった久野は力負けし、9-8。


ムヨルのサーブ。


久野はツッツキで対応したが、回転を読み違えたのか、ネットミス。


あっという間だった。


9-9の同点。


久野はもう一度袖で汗をぬぐった。


久野は肩で息をしていた。しゃがみこみサーブは、威力はあるが消耗する体力も多い。


韓国ベンチは全員総立ちで、前のめりになって試合を見守っている。今、5-9から追いついた韓国ベンチは、あと1歩で優勝というところまで来て、飛び出す準備をしているかのようだった。


会場のボルテージもいよいよ最高潮に達した。日の丸はもう静まりかえり、いたるところで韓国の太極旗が翻っている。


繰り返される、大韓民国コール──日本ベンチは、そんな会場の熱狂からは、取り残されて、つぶされそうになっていた。


孤立していた。


「タイム・アウト」


日本ベンチの監督は静かに立ち上がり、そう宣言した。会場の喧噪の中でも、監督の声は涼しげに、よく響き渡った。




タイム・アウトとは、卓球の試合における小休止の時間である。


1試合に一度だけ、好きなタイミングで試合を中断し、選手のコンデションを見直したり、監督やコーチからの指示をあおぐことができる。


監督は、この9-9に追いつかれた場面で、タイムアウトをとることを決断したようだ。


その時間、わずか一分。


「監督、俺のしゃがみこみサーブ、攻略されてます」


久野は早口でしゃべった。

 

「しかも、次は俺のサーブから。またしゃがみこみサーブを打って、強打されたら、もう勝てない。かといって、普通のサーブで戦って勝てる自信も正直ない。流れは完全にムヨルだ。はっきり言って恐い・・・」


久野の腕は震えていた。それほど強いプレッシャーが久野にかかっているのだ。なおかつ、わずか一分で、次のサーブをどうするか、もうあと2、3点の勝負なのに、決断しなければならないことはあまりにも多く、そして重かった。


「難しく考えるな。お前のしゃがみこみサーブは完成しているから自信を持て。今は9-9の同点にすぎない。ここからは一瞬の判断で勝負は決まる」


「監督、ではまたしゃがみこみサーブでいけと・・・?」


「そうだ。だが」


監督は久野の肩に両手を置いて、じっとその瞳を見つめながらいった。監督の目は見開かれ、血走っていた。


「立つ位置と打つコースを変えろ。それだけだ。お前ならできる」


ブザーの音。タイムアウト終了。


久野は顔を伏せて、きびすを返してコートへと戻る。


俺は戦場へ旦那を送る妻になったかのように、その背中を切なげに見送っていた。

 



久野はしゃがみこみサーブを打つとき、いつも向かって左寄りに立って、相手のミドル──つまり真ん中に向けて打つことが多かった。


それは、久野がそのパターンしか練習してこなかったからかもしれない。


だとしたら、その立つ位置と狙う位置を変えろというのは、たいへんに難しいことだと思う。


こんなところでサービスミスをしては、興醒めもいいところだし、そもそも試合に負けてしまう。大舞台だ。まともな神経をした人間なら、そんな大それたことができるはずがない。


台に立った久野は、なかなかボールを投げ上げなかった。


いぶかしく思ったファン達が、ぴーぴーとブーイングを浴びせる。


すると、久野は、ゆっくりと、台の左側から右側へと移動した。


一瞬、ムヨルは眉をしかめた。


そして久野は悟ったように目をつむってまた開くと、同じように──全く前と同じしぐさでボールを高く投げ上げ、すぱっと鋭くラケットでボールを切る。


しゃがみこみサーブだ。


それ来た、と待ち構えていたムヨルの目が光り、すぐにそれは困惑へと変わった。ボールはムヨルのミドルではなく、むしろ久野からするとストレート──つまりムヨルがラケットを持っていないバックの方へと一直線に走ったのだ。


だが、刹那、ムヨルはバックハンドで一閃。打球の光線が、久野が立っていた正反対のクロスへとまっすぐ飛んでいく。


やられた。誰もがそう思い、息をのんだ。


ところが、ムヨルの打球はぴゅん、とネットと一瞬戯れた。かと思うと、ふわりと上がり、もう一度ぱすんとネットに当たり、その向こう側のコートへ落ちることなく、ムヨルのコートにこつこつと転がった。


ポイント、久野。


久野、マッチポイント。


「ほんのわずかな差なんだ」


監督はコートを見つめながら一人ごちる。


「あのシム・ムヨル選手は、しゃがみこみサーブに対してガムシャラにラケットを振っているだけのようで、いろいろ角度や癖、回転の程度などを調べていたんだ。だから、最終セットは正直危ないと思っていた。・・・全く同じサーブでも、立つ位置と打つ位置を変えるだけで相手にとっては全く別のサーブに映る。しかし、あのシム・ムヨル選手は本当に大した適応力だ・・・最終的には、わずかな差に落ち着くと思ったよ。そのあとは、もう気持ちの勝負だ」


再び、久野がしゃがみこみサーブを打つ。ムヨルはバックに来たボールをクロスに打ち返した。しかし久野はすでにそれを読んでいた。コートの右側からサーブを打った久野は素早く体勢を立て直してフットワークで動くと、クロスに返されたボールをもうぱちん!と鋭く打ち返していた。


ムヨルの対応は一瞬遅れ、彼の打球はむなしくネットに遮られた。


瞬間、久野は両腕を突き上げて叫んだ。ムヨルが、がくりと膝から崩れ落ちた。


11-9。


セットカウント、3-2。


久野が、強敵シム・ムヨルに勝った。


久野が日本ベンチに飛び込んできて、日本ベンチにささやかな歓喜の輪ができた。久野は泣いていた。泣きながら、ガッツポーズを繰り返して、勝利の愉悦にひたっていた。


これで、日本対韓国は2-2。日本はどこまでも食い下がる。


もちろん、同点になったにすぎない。


だが、久野の劇的な勝利は、確かに日本の流れを作った。


会場も、大歓声だった韓国サポーターたちは小さな悲鳴をあげており、変わって日の丸が会場のいたるところで元気に舞っているのを見た。


日本チームは孤独じゃない。


ファンがいる。監督がいる。久野がいる。必死に声をからして応援している高橋がいる。エースとしてチームを引っ張る俺がいる。


久野の勝利は、その一体感を、異国の地において再び実感させてくれた。


ソン・ミンヒョンも俺も、ゆっくりとコートへと入った。平静を装っているミンヒョンだが、そのしぐさは闘志と殺気にあふれていて、触れただけで怪我をしてしまいそうだ。


日本チームのすべてをかけて。俺はソン・ミンヒョンを倒さなければならない。

 

 



無言の練習ラリーが続けられる。


ミンヒョンの息が高まり、やがてラリーのスピードが上がっていく。俺はそれにあくまで落ち着いて力を抜いて、呼吸を確かめるように練習を続ける。


そして、いよいよ試合開始。


「俺は、日本チームのすべてをかけて、お前を倒す」


俺は、ミンヒョンに宣戦を布告した。


そのとき、俺の精神も高ぶっていたし、ベンチも会場も日本イケイケムードになっていたから、勢いでミンヒョンを圧倒できると思っていた。


「オレがいる限り、韓国は永遠に勝ち続ける。それを、キノシタにも教えてやる」


ミンヒョンはぴしっと言い放って、審判からボールを受け取った。


俺は国立体育館の中央に置かれた台にいながらにして、会場の全観客──いや、全世界の人間はこの試合に注目していることをすぐに感じ取った。客席でたかれるフラッシュの数が尋常でなく多い。観客は絶叫していた。


「ラブ・オール」


木下成浩対ソン・ミンヒョン。


ミンヒョンのサーブから、運命の試合は始められた。





カットマンの戦いは、欧州大戦における塹壕戦と通ずるものがある。すなわち、熾烈な持久戦である。


相手の攻撃に耐え続け、期を見て突撃する。その結果狙い撃ちにされて崩れ落ちるかもしれないし、相手がひるんで突撃が成果を上げることもある。そうでなければ、ひたすら守って自分の陣地に籠城するのみ。


むろんそれは辛く苦しいことだ。この試合はいわば世界一の攻撃力と世界一の守備力との戦いになるわけだが、冷静に考えれば、守備が攻撃に勝つというのはこれはたいへんにむつかしいことではないか。


「んー!」


ミンヒョンの渾身のドライブが自陣に向かってくる。俺はその一球一球に精神を統一させて、やわらかいクラゲになって返球する。


ぱしん、とラバーがボールをはじいてほとばしる音がする。


ミンヒョンのボールは、速い上に重たい。他の選手とはキレが違う。


試合はシーソーゲームで進み、スコアは8-8。


ミンヒョンの表情は変わらなかった。ポーカーフェイスというのか、大事な試合ながら、感情の浮き沈みを表にあらわさない。かすかに頬が上気しているのは感じるが、目は涼しげである。


レシーブから、再び俺が引いて守る展開になった。


思えば、このセットだけでもう何分くらいかかっただろう?


カットマンの試合は、必然的に長い勝負になる。観客の方が先に疲れてしまうことさえある。まして、台に立っているカットマンの選手もその相手の選手も、きわめて強靱な精神力を維持することを要求される。


かつ、突撃しても成功する保証のない戦争。


日本対韓国の最後の戦いに用意されていたのは、華々しい白兵戦というよりもむしろ、泥沼の持久戦だったのである。


「やっ!」


ミンヒョンのボールがネットにかかり、俺が9-8とリードを奪った。再びミンヒョンのサーブ。俺は早めに反撃を準備し、ミンヒョンも抵抗したものの俺が打ち勝った。


10-8。


俺のサーブ。


俺はあえて下がらずに、前陣でムンギと正面対決する選択をとった。

 

ミンヒョンのツッツキが俺のフォアに落ちる。台の下に踏み込んでツッツキで返す。ミンヒョンのバックに向かった俺のツッツキを、ミンヒョンはバックの鋭いドライブで返す。素早く戻ってブロックで対応。再び鋭いドライブ。手元でぐん、と伸びるミンヒョンのドライブ。思い切って俺はそれをドライブで返した。ミンヒョンはそれを読んでいたのか、さらに強い速いボールを突き刺してくる。


今だ。


俺はその軌道を予測し、すぐにブロックで軽くボールを返す。


そのボールは、ミンヒョンが立っていないサイドへと走って行って、それでも飛びついてきたラケットの数ミリ横をかすることなく抜けていった。


11-8。


一丁、上がり。



 


「勝った!第一セットで、あのソン・ミンヒョンに勝った!!!!」


ベンチに戻ると、高橋はすでに大興奮の面持ちで騒いでいた。久野も顔を真っ赤にして、なかばうるんだ瞳で俺を見つめていた。監督だけが冷静に、俺とミンヒョンのプレーを分析する。


俺もゆったりしたさまで監督の話を聞いていたが、内心かなり盛り上がっていた。


明らかに、調子は絶好調だ。身体が柔らかく動いて回転を乗せやすいし、一つ一つの動作が軽く感じる。勝負の波に乗っている俺の胸は、一刻も早くあのコートに戻りたい、と叫んでいた。


長い一セットだったが、まだ戦える。


会場の歓声も耳に入ることなく、俺はまたふらふらと何かに引きつけられるかのように、コートへと向かう。




第二セット、しかしミンヒョンがわずかにリードしていた。


スコアは6-8。ミンヒョン・リード。


ミンヒョンの瞳は徐徐に猟奇的な鋭さを秘めるようになっていた。


おそらく、今ミンヒョンに誰かが話しかけたとしても、人の言葉は話さないであろう。言葉を忘れるほど、すべての神経をこの試合に集中させている。


猛攻が容赦なく俺に襲いかかった。


猛烈に回転量の多い攻撃が、俺の陣地の上で踊った。野球の変化球のように、それは沈んだり、伸びたり、軌道ががくっと変わったりして、まるでたけ狂う野獣のよう。俺はそれを拾うだけでもしんどかった。


はたして、卓球のボールがこのような生き物のごとく動きをするのは、信じられることであろうか?いや、とても信じられない。だがそこに、ソン・ミンヒョンという男の人間離れした技術とパワーを見る。


俺の返球がネットにかかる。集中力が切れていた。袖で額の汗をぬぐう。それでも、集中力は戻らず、ミンヒョンのボールに逆にきりきり舞いにされてしまう。


失点を重ねてしまい、俺はそのままこのセットを6-11で落とした。

 




「木下。水を飲んでおけ。お前は今日とても調子がいい。安易に攻めの体勢を作ってはいかん。あくまで粘って、粘って、返球が甘くなったところを仕留めるんだ。持久戦になれば、有利なのはお前だ」


頭がぼんやりとしていた。


監督の言葉の響きだけがぼんやりと頭の中でこだまする。その意味を理解するのには数秒かかるほどだった。


俺のカラダが、卓球を、試合を、コートを、ミンヒョンを、欲している。


俺は、卓球という競技の幸福な奴隷になっていたのだ。卓球という競技にとっぷりと浸かって、その中で勝つ喜びといい負ける悔しさといい、総じて爽快感のある感情の溌剌を覚えていた。その快感の前では、言葉も、お金も、あまい恋の希望も、さして重要ではない。卓球によってとろけさせられた俺の心は、もう卓球以外によってとろけさせられる手段を知らなかった。


「テン・ナイン。セットポイント」


第3セット、10-9で俺がリードする。


取り囲むような絶叫とフラッシュの嵐の真ん中で、俺は無心でラケットを構えて戦い続ける。


心の中には、草原が広がっていた。時間帯は夜だが星のまたたきは少ない。甘ったるい夜風が吹き、一面の草原が静かになびく。


おお、草原よ草原。ここは誰の故郷なのか?


ドンドコ、ドンドコ。


草原のどこかで、誰かがタイコを叩いている。


ドンドコ、ドンドコ。


ジャズでも南米音楽でもない、おそらくアフリカ由来の、単調な、しかし底に響くリズム。


夜空の果て、宇宙の果てまで届くであろうこのタイコの音が、この一面の草原になにかの生命を吹き込んでいるように思えた。


生命のリズムを。地球のリズムを。動物の本能を呼び覚ますリズムを。


台から離れたところから、俺は腕を思いきり伸ばして遠心力を活かしたドライブをお見舞いする。


だが、この程度、ミンヒョンのパワーなら簡単に対応できるだろう。


待ち構えていたミンヒョンは、ボールをキッとにらみつけ、右腕をまもなく差しだそうとした。しかし、強力な横回転も乗っていた俺のドライブは、ミンヒョンのコートに落ちるやいなや軌道を変えて、ムンギから逃げていく方向にカクンと曲がった。


ミンヒョンは空振りを喫した。


決まった。


11-9。


第三セット、激戦の末、俺が奪い取った。



 

会場がざわめく。


「お、おい、俺たち、本当に優勝しちまうんじゃねえか?」


「き、木下さん、いけますよね?俺たち、信じていいんですよね?」


興奮で頭が働かない。俺が持っている言語は、もはやラケットとボールのみだった。


あと俺が一セット取れば、日本が勝つ。


最大のライバル韓国を倒して、栄光の座をつかめる。


さすがの俺も心臓の鼓動が速くなっていた。


「木下。焦るな。いつもどおりでいい。いつも通り丁寧に、力を抜いて守れ。ミンヒョンはかなりスタミナを消費していて、フットワークも腕の振りも雑になってきている。必ず隙が生まれる。お前は疲れてくるとカットの打球点が低くなりがちだから、それだけは気をつけろ。練習でやったとおりだ」


疲れていないと言えば嘘になる。ちょっと気を抜けば脚ががたがた震えて崩れ落ちてしまいそうだし、肩も酸でじわじわとしびれて動くのが不思議なほどである。体力的な限界はおそらくすぐそこに来ているように思えた。


だとしたら、次の4セットで決めなければならない。


監督はつとめて焦らないように、勝ち急がないように、練習のとおり、いつも通りプレーしろと指導した。だが、俺はゴールを目前にしたマラソン選手のように、勝利と、解放を前にしてその魅惑的な前途に抗えなくなっていた。


勝ちたい。早く試合を進めたい。


俺ではない誰かの指が、しかし確かな力で小さなラケットのグリップを握る。


ゆっくりと、吸い寄せられるように、俺はコートへとむかった。




「キノシタ。遊びはここまでだ」


第四セットが始まる前、ミンヒョンは俺にささやいた。


感情を失っていた俺は、その言葉に何の意味を見いだすでもなく、淡々と戦闘態勢に入る。


だが、ミンヒョンの打球は、それまでの3セットよりも切れが良く、カットで打ち返すたびに腕が痺れ、肩ごと打ち抜かれるかのような錯覚さえしてしまう。


俺はすでに体力の大半を消耗してしまっていたのと対照に、ミンヒョンはむしろ温存していたのかもしれない。時間が進めば進むほどミンヒョンの動きは躍動感と激しさを増していた。


すっかり反撃体勢を整えたミンヒョン。それに対抗するためには、俺はあまりにも無策で疲れてすぎていた。カットも単調になり、積極的に攻撃に出ようという気概も、苦しさと焦りの中で見失っていた。


ミンヒョンの大々的な反撃を受け、俺はミスの山を築いてしまう。


試合は一方的な展開となった。


2-11。


勝負の第4セットで、俺は壊滅的な大敗を喫した。




まさか。


言葉の絶えた心に、静かな地震が起きる。


指が震えた。止まらなかった。 


負ける。


のどがからからに渇き、いくら水を飲んでもおさまらない。


「木下。大丈夫だ、俺たちがついてる」


「木下さん。優勝まであと1歩っす。木下さんなら絶対できます。俺、信じてますから」


チームメイトの力強い激励の言葉とは裏腹に、俺の胸の中では不可解な揺れに変わって、なだれるような言葉があふれ出てきていた。


一体、俺は何を相手にしているのだ?人間ではない野獣か、ないしは俺を試している、神ではないか?だとしたらこれは試練か。勝つとか負けるとかいう月並みな概念ではもはやこの境地は説明できない。どこまで俺は戦えるのか、それを俺の相手は試しているのだ。


2-2の同点。泣いても笑っても次がラスト・バトルだ。





卓球は冷酷だ。


流れを失った選手には、どこまでも厳しく、冷たい。


自信を失ったり、自卑に陥ったり、またイジけてしまえば、もうそれだけで試合からは置いてきぼりにされてしまう。まずはそのメンタルを変える努力を試合の中でしなければ、そもそも再び横に並ぶ可能性さえ0%だ。


「シックス・ラブ(6-0)。」


俺は肩を落とした。防戦一方で、守っても守ってもミンヒョンの猛攻撃を防ぐことができない。何もかもがうまくいかない。何をしても失敗してしまう。


たまらず、日本チームの監督はタイムアウトを取った。


「馬鹿野郎!!!!!!」


監督の怒号が飛んだ。


いつもならどちらかといえば冷静で、落ち着いた印象の監督は見たことのない剣幕で怒鳴り、続いて握った拳で俺の胸を強くどついた。


「か、監督」


「甘ったれるな!!さっきの試合で、久野が必死に戦って勝った。お前はなんだ?!途中で恐くなって怖じげづいたのか?この試合、もう久野も高橋もいない。お前以外もう勝てる人間がいないんだぞ」


「監督、俺は、甘えているんじゃ・・・」


「逃げるな。真っ正面からぶつかれ」


監督の言葉が終わると、監督は黙って俺に水を1本差し出してきた。俺はそれを黙って受け取って飲む。


水の一滴一滴が身体に染み渡っていくかのようだった。


飲み終わり、俺は息をつく。


まだ、戦わなくちゃいけない。・・・まだ、戦えるはずだ。




0-6と大差をつけられた状況から、俺は3-6と追い上げた。しかしそこからは点の取り合いになり、ついに5-10となった。ミンヒョンのマッチポイントである。


試合は足取りを止めない。俺も焦るでも急ぐでもなく、ただひたすら勝負の行く末に身を任せている。


ミンヒョンのサーブ。


すっかり見慣れたミンヒョンのサーブだが、その回転を見破るだけでも恐るべき神経を使う。一瞬の手首の動きと目の動きからサーブの回転とコースを読み、即座にしかるべき対策を取る。


レシーブ。ミンヒョンの強打が刺さる。そこから俺は台から下がり、守りの体勢に入る。


そして、俺が反撃を開始すれば、台から離れたところからまるでテニスの打ち合いのようなダイナミックなラリーが展開される。


大歓声が響き渡る。


何度も何度も、俺はボールを叩き、斬り、押し返した。それでも、ミンヒョンは崩れない。鋼のような固さだ。


繰り広げられた人間離れしたラリーを、最期に決めたのは俺だった。


台に飛び込むようにして踏み込み、全力でスマッシュをおみまいした。俺の体重の全てが乗ったスマッシュがミンヒョンを襲い、もはやボールは俺の方へ返ってこなかった。


俺は左腕を突き上げた。


6-10。 


会場は拍手の音で割れた。


もう、韓国ファンも日本ファンも関係なく、俺とミンヒョンへと賛辞を送っていた。


卓球が世界を熱狂させているのを、俺は肌で感じた。


だが、ここからの道は長い。あと4点は連続で取らなければならない。


俺のサーブ。ミンヒョンのレシーブから、台上での短いラリー戦となった。ミンヒョンがドライブをミスし、7-10。


まだ行ける。


「いいぞー、あと三点だあああ」


久野が叫んでいた。韓国ベンチの選手は優勝を今か今かと身体を乗り出して待ち構えている。彼らの手にはもう掲げるための韓国国旗の白い生地が見えていた。


再び俺のサーブ。


ミンヒョンのレシーブ。ツッツキである。


今の試合の流れは俺。なら、攻める以外ない。


俺はミンヒョンの隙を突くかのように、前陣からの速攻を仕掛ける。


ミンヒョンはそれに困惑気味になって、せわしげに俺のボールを追う。そのさまを見て、俺はこのままどこかで押し込めると思った。


速攻に次ぐ速攻。


ミンヒョンの対応も遅れがちになってきたところで、俺は決めるためにぐっと前に出た。


顔に汗の粒が光っていたミンヒョンの目が、その苦しそうな表情の中で一瞬ぎらりと光った。


しまった。


背筋が凍った。


俺が前にぐっと詰めたために、俺の逆サイドがガラ空きになっていたのだ。


ミンヒョンは刹那、ラケットの角度を変えてボールを強く押す。


一瞬だった。


体勢を崩されていたミンヒョンだが、一瞬の判断でラケットを翻し、鋭い軌道のボールが俺の真逆のサイドへ飛ぶ。


あ、と思い、飛びついたが、もはや及ばなかった。


全く届かなかった。


ボールは俺のラケットのはるか先を、無情にも飛びすぎていった。


7-11。


この瞬間、試合は終わった。


「オオオ!!!!!」


台の向こうでミンヒョンが叫ぶと、そのままひざから崩れ落ち、歓喜の涙を両手で覆っていた。ベンチからムヨル、ソンナム、韓国の監督とコーチたちが飛び出してきて、次々とミンヒョンへのしかかってきてもみくちゃの大騒ぎとなった。


耳をつんざくような会場の大歓声。


俺は、全身の力が一気に抜けて、そのままあお向けにぶっ倒れてしまった。


床がビリビリと震えている。天井の電灯がやけに目にしみる。


何が起きたのか分からなかった。


ただ、俺の脚はもはや震えて動かず、身体の奥からしびれるような疲労がわき上がっていた。もう限界だった。


韓国選手たちの歓喜を台の向こうにぼんやりと聞きながら、俺はしばらく何が起きたのかを、頭の中で整理することに必死だった。




ウズベキスタンの5月は、まだ春の暖かな気候を余しており、ずいぶん快適である。


からっとした爽やかな風を浴びながら、俺はスタジアムの前で泣き崩れていた。


日本チームは優勝できなかった。


その現実は、最初は信じられなかったし、万一そうなったとしてもこうして崩れてしまわないように心の準備だけはしていたつもりなのに、あまりにも認めがたく、悔しかった。


最後のミンヒョンとの試合は、勝てた試合ではなかったのか?


答えの出ない問い。かぎりない後悔の嵐。こらえきれない想い。


「木下・・・もう泣くな、俺たちは、やれるだけやった。ただ、韓国が強かった。それだけなんだ」


「そうですよ。木下さんがいなかったら、俺たち絶対ここまで来られなかったですもん。俺、木下さんの卓球、好きです」


慰めの言葉が、まるであふれてきたばかりの涙のように温かく心にしみる。けれど、その優しさがまた俺の胸を震えさせる。


しばらく滞在し、激闘が行われたこのタシケントという街。今その激闘は終わり、水色の街並みに西日が照り注ぎ、異様な美しさを眼前に展開していた。


これからは、またありふれた夕暮れを拝む日々に戻っていく。


俺は涙をぬぐう。5月の風が、敗れた悔しさと涙でぐちゃぐちゃになった顔をなでて、俺はふと優しい気持ちになった。


「木下。この大会でお前は大きく成長した。気を落とすな。お前は頑張ったし、修正点もいっぱい発見できただろう。さあ、お前たち明日からまた猛練習だ!!最後においしい中国料理でも食べて、日本に帰ろう!!」


「おお、良いっすねぇー!そしたら、今日夜行きましょうね!」


「ウズベキスタン最後の夜だ!みんな、負けたことはしばらく忘れて、おいしいもの食べて、ぱーっとしようぜ!!」


盛り上がるみんな。大事な試合で敗れて打ちひしがれている俺を気遣っているのかも知れない。俺は、流れていた涙を指先でしっかりぬぐって、叫んだ。


「お、おいおい!俺の意見無視するなよ?!中国料理もいいけど、やっぱり地元の料理の方がおいしいじゃないかー?」


「おっ、そうだな」


「ケチ臭いこと言わず、このさい両方食べちゃおうぜ!」


「いえーい!!」


お調子者で、だけど誰よりも情熱的な男、久野。若くて勤勉で真面目で、かわいいところもある高橋。試合では冷静で的確な指示を出すが、意外と悪酔いしがちな監督。


このメンバーで戦うのも、今日でいったん最後。


中央アジアの澄み渡る空気を、まっすぐ夕陽が差す。俺たち四人の影がうっすらと長く伸びて、卓球のプロ選手というよりも、部活帰りのはしゃいでいる中学生や高校生のように見える。監督も顔をくしゃくしゃにして、まるで少年みたいだ。


苦く、熱く、そして透き通るような爽やかな風が、俺たちの記憶を洗い清めていく。





そして。今。





「おやぁ、ちょっと太ったんじゃないか?」


男は、試合前ににこにこした顔で俺に近づいてきて、茶目っ気たっぷりに微笑む。


「ははは。そういうお前だって、髪の毛ちょっと薄くなってるぞ?」


そう言うと、「男の運命だな」と男は頭をつるりとなでた。そのあと、俺はその男と握手をする。筋肉質で、しっかりした感覚。やわらかい表情の中にも、刺すような鋭さのある目。


最近韓国代表監督に就任したソン・ミンヒョンは、歳をとって中年になったとはいえ、あのときと変わらない雰囲気を持っていた。

「監督になってみると、選手としてプレイしていたときとは全く違った面白さがあるね。最初は、指示がなかなか通らなくて悩んだこともあるし、思うような結果が出せずに韓国民からブーイングを受けたこともあった。だが・・・、今、韓国チームは世界最強だと胸を張って言える。この世界選手権決勝という舞台で、それを証明するつもりだ」


「相変わらず、ボクシングみたいなあおりを入れてくるねぇ。もう歳くって血圧も気になりだしてるんだから、穏やかにしてくださいよ、ソン監督」


「その方が面白いじゃないか。──卓球はエンターテインメントなんだよ、キノシタ監督」


「分かっているさ。今度こそ、日本チームが世界で一番強いってことを、見せてやるんだ」


俺とソン監督はしばらくにらみ合ってから、お互い気恥ずかしくなったのか、くすっとどちらともなく笑って、それぞれのベンチへと戻っていった。





それにしても、運命とは謎である。


あの日、アジア最強を賭けて死闘を繰り広げた俺とソン・ミンヒョン。あの試合は、卓球のみならず、全世界のスポーツの歴史に刻まれるべき、名勝負になった。


それから数年が経って。


俺とソン・ミンヒョンは、お互い監督として、世界選手権団体戦の決勝で再び相まみえることが決まったのだ。


「木下監督!国歌斉唱が始まりますよ!のどの調子は大丈夫ですか?!」


俺の元へと駆け寄ってきたのは、あの日俺とともに戦った、高橋だ。当時は若手のホープであったが、今ではベテランもベテラン、しかも現時点で世界最強の選手だと言われているというのだから、楽しみは尽きないものだ。


「はは、のどの調子は大丈夫だ」


「良かったです!俺、今度こそ韓国を倒して見せます!」


高橋はきらきらした目で俺を見ながら言った。個人戦の公式戦で42連勝中の高橋は力強くガッツポーズをした。


韓国にアジア王者の座を奪われた日本。


思えば、そこから日本卓球が立ち直る力を得られたのは、ひとえに若い高橋の奮闘によるところが大きかったのである。


ベテランになっても、変わらない高橋のエネルギッシュさと、輝く瞳を見ていたら、いとおしくなって、俺は高橋の方に手をそっと置いた。


「大丈夫だ。俺たちは絶対勝てる。タシケントでの悲劇──歴史を変えるのは、今なんだ」


高橋は黙ってうなづく。もう戦士の顔になっていた。


続いて、日本代表選手の荒田と金井がやって来て、俺と高橋と肩を組む。


卓球世界選手権団体戦 大阪大会決勝 日本VS韓国。


静かな曲調の大韓民国国歌が流れる。


──卓球は、エンターテインメントだ。


そう話すミンヒョンとの死闘の後、しばらくは俺の記憶にも悔しさばかりが残っていた。


そこから時間が経って。むろんその悔しさは忘れてはいないけれど、それよりも、俺の記憶にはっきりと残っているのは、ほんの刹那の出来事だったりする。


あのミンヒョンとの試合の第五セット。5-10とマッチポイントを握られた俺が、人間離れした壮絶なラリーの末、打ち勝った瞬間。


あんなに絶望的な状況だったのに、会場中に鳴り響いた拍手と歓声が、今まで体験した卓球上のどの瞬間よりも、爽快感と達成感があった。


これが、俺の卓球なんだ、と思った。


あっという間に両国の国歌演奏が終わり、いよいよ試合開始の時間が近づく。


「高橋、一番手で緊張するだろうが、お前ならまず負けない。序盤から速攻をしかけてやれ」


「わかりました」


高橋はベンチを離れ、一人で台へと向かっていく。その背中は大きく、力強く見えたから、俺は目を細めた。


「ラブ・オール。」


審判が叫び、試合が始められる。


俺は卓球が好きだ。そして、その気持ちを他でもない卓球にぶつけて、観客がそれを見て、熱狂し、叫び、やがて気持ちの上で俺と同じようにボールを追い、打つようになる。


世界最強のソン・ミンヒョンとの最高峰のラリーで、俺が世界の心を一つにできた一瞬だったんだ。


そしてそれはたぶん、誰よりも強く、楽しい卓球を心がけているソン・ミンヒョンとの共演によってのみ表現できるたぐいの芸術なんだろう。


あの日、タシケントで吹かれていた五月の風を思い出す。


敗戦に打ちひしがれた俺は、あの風によって洗われ、涙の乾いた眼がはじめて道を認めた。そして俺はそれを着実に一歩一歩歩んできた。その道のゴールはまだまだ遠くて、道のりは苦くて暑いけれど、透明な空気は見通しがよく、風景もいい。あのときみたいに弱くて短絡的な自分は、もう歩き始めた頃に置いてきた。


───泥の中から砂金を取り出すように、思い出を揺らして、磨いて、漉して。そして長い時間をかけて、俺にとって本当に必要なひとかけらだけが、おびただしい泥の中に不滅の輝きを放つのだ。


「さあ、もう一度勝負だ。ソン・ミンヒョン」


日本のエースが投げ上げたボールが、未来と運命を乗せて、高く、高く、宙を舞う。






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