第2章 地の底の貴婦人 2
「その怪我は、良質なエディシルをたくさんお摂りになれば、きっと治りますよ」
ラーディアが言った。
彼女は気丈にも、七都の胸の傷から目を逸らしもせず、真っ直ぐに見つめている。
「知ってるよ。でも、エディシルは摂りたくないの」
「そうなのですか……」
ラーディアはそれ以上、何も言わなかった。理由を聞くこともしない。七都は、ほっとする。
少女たちの一人が、七都の上着のポケットから、薬の瓶を取り出した。
「それは、今のナナトさまにとって、とても大事なものですね。湯浴みの間は、私がお預かりしておきますね」
ラーディアが言って、少女から瓶を受け取る。
「ありがとう、ラーディア。お願い」
ラーディアは、微笑んだ。
ラーディアって、何者なんだろう。
賢そうだし、どんと構えてるって感じだし。それに、上品だし、きれいだし。
この女の子たちは、たぶんアーデリーズの侍女みたいだから、侍女のリーダーとかなのかな。
七都は思う。
そのラーディアを仕えさせてるアーデリーズって、そもそもどういう人なんだろう?
少女は、もう片方のポケットから、何かを取り出した。
「あ……」
しまった。
七都は、そこに入れっぱなしですっかり忘れてしまっていた、大切なものを思い出す。
竜が赤い宝石を抱えている銀の指輪――。
イデュアルがくれた指輪だ。
少女は、その指輪を見つめる。もちろん彼女は、少女らしく、きれいな宝石をあこがれの眼差しで眺めたに過ぎなかった。
だが、ラーディアの反応は、違っていた。
「それは……!」
ラーディアの顔色が変わる。金色の目が大きく見開かれた。
七都は、はっとして、ラーディアを見つめる。
知っている? 指輪の持ち主を。指輪の意味とその過去を。
彼女は、知っている……?
もしかして、これは、とてもまずいこと?
ラーディアは、侍女の少女から、指輪をむしりとるように受け取った。
「これをどこで……?」
彼女の美しい顔がこわばっている。
自分を強く抑えてはいるが、本当は七都に詰め寄って、鋭く問いただしたいのかもしれなかった。
「もらったの。その指輪の持ち主に」
七都は、答えた。
「不正な方法で手に入れたんじゃないってことは、信じてほしい」
「もちろん、信じます。そんなこと疑ってもいませんわ」
ラーディアが言った。そして彼女は指輪を見下ろす。
「……イデュアル……ですか」
彼女は静かに呟いた。溜め息をつくように。とても悲しげに。
「知ってるの、彼女を?」
「幼なじみです。歳は、私のほうが少し上ですが」
ラーディアが答える。
「そうなんだ……」
どう言ってフォローしたらいいのいかわからない。
彼女は、幼なじみがあんなことになって、どれだけ悲しみ、苦しんだことだろう。想像もつかない。
幼なじみということは、当然、イデュアルの家族もよく知っているということだろう。
イデュアルとその家族に起こったことは、彼女の心を容赦なく引き裂いたに違いないのだ。
「イデュアルは、もういないのですね?」
ラーディアが訊ねる。
「太陽が昇る前に、人間に連れて行かれたと聞きました……」
「イデュアルは、自分で自分の始末をつけたの。とてもりっぱだった。わたしは、助けてあげることが出来なかった」
「彼女を助けることなんて、誰にも出来なかったでしょう。かわいそうなイデュアル……」
ラーディアは、指輪をその手の中に、大切にそっと包み込む。
「これも、湯浴みの間は私がお預かりしておきますね。少しつらいですが……」
「イデュアルは、エルフルドさまが会いに来てくださったって、とても嬉しそうに言ってたの。それが彼女にとっての、最後の救いだったのかもしれない」
七都は呟いた。
「エルフルドさまが?」
ラーディアの表情が、一瞬明るくなる。
「おやさしい方ですものね。最後に来て下さったのですね。イデュアルは、どんなに嬉しかったことでしょう。……イデュアル。あんなことがなければ、間違いなくエルフルドさまのおそばにお仕え出来たのに。あんなに憧れていた方のおそばにいられたのに。本当に残念なことです」
「エルフルドさまのおそばに?」
「定期的に貴族の娘の中から選ばれるのです。エルフルドさま付きの女官として。イデュアルは、家柄にしても性格にしても、そして美貌も、第一候補だったはず……」
「イデュアル、しっかりした性格だったものね……」
七都は、呟く。
「ラーディア。イデュアルと幼なじみってことは、あなたも貴族の令嬢なの?」
「はい。イデュアルより位は下ですけどね」
「でも、アーデリーズに仕えてるんでしょ。それは、女官として?」
「ええ。ここの侍女たちを取り仕切って、身の回りのお世話をさせていただくのが、私の仕事です」
ラーディアが答える。
「アーデリーズって、どういう人? 王族? エルフルドさまと関係あるの?」
「それは、私からは……」
ラーディアが、口ごもった。
「あとで、ご自分で聞いてみられたらよろしいですよ、アーデリーズさまに」
「うん。じゃあ、聞いてみる……」
少女たちが、お湯を張った平たい器を運んできた。
「さ、ナナトさま。お怪我に障らないところをきれいにしましょうね。髪も洗ってさしあげますわ」
ラーディアが七都に向かって、にっこりと微笑んだ。
侍女たちは、熱いお湯で七都の手と足を洗った。
洗えないところは、お湯を浸した布で丁寧に拭いてくれた。
お湯は、やはり花の香りのするものを何か溶かしているようだった。七都の体は、その芳しい香りで包まれる。
体の手入れが終わると侍女たちは、七都の髪を器に浸し、櫛で梳かした。
そして香油のようなものを注いで、髪を洗い始める。
なんだか、すごく豪華な気分。
美容室で髪を洗ってもらうときよりも、はるかに贅沢だ。
こんなたくさんの女の子にかしずかれるなんて。
ラーディアが、仰向けになって横たわる七都の顔をじっと見つめた。
「その印……。初めて見ました」
彼女が呟く。
「え?」
「額の印です。魔王さまお二人の、口づけのあと」
ラーディアが、ためらいがちに言った。
「これ……。珍しいものなの?」
「少なくとも、地の都においては、現在そういう印を持っている方は、おられないでしょう。以前はアーデリーズさまの額に輝いていたとのことですが、その頃は、私はまだ生まれていませんでしたので……」
「アーデリーズの額に?」
じゃあ、アーデリーズは、エルフルドの大切な人ってことなんだ。
恋人とか、家族とか、親友とか。もしかして、キディアス言うところの『愛人』……?
だけど、ラーディアは今、過去形で言ったよね?
「以前はってことは、今はないってこと?」
「ええ」
ラーディアは、頷く。
「何で今はないの?」
「その必要がなくなったからですよ」
「必要がなくなった? なぜ?」
ラーディアは、くすっと笑って、黙ってしまう。
それもアーデリーズに聞けってことかな?
七都は、額を撫でてみた。
この印、消えるんだ。
どういう場合にそうなるんだかは、わかんないけど。
「おきれいですわ。ナナトさまは、魔王さまたちに守られていらっしゃるのですね」
ラーディアが呟いた。少しうらやましげに。
守られている……か。
その割には、ずいぶんひどい目にあってるけど。
けれども、確かに魔神族に対しては、相当効き目があるようだ。それは素直に感謝したい。
これを付けてくれた二人の魔王。ナイジェル……シルヴェリスとリュシフィンに。
髪を洗い終えた後、七都は、侍女たちによって、別の小さな部屋に連れて行かれた。
部屋の中のあたたかい空気に触れると、あっという間に濡れた髪も体も乾いてしまう。
だが、髪も皮膚もうるおっていて、見惚れるくらいに艶々としていた。
そこから出ると、ラーディアは、七都に服を用意してくれていた。
侍女たちは七都に、ごく淡いペールグリーンのきれいなドレスを着せてくれる。
もちろん、胸の怪我が隠れてしまうようなデザインのものだ。
ドレスの上には、透き通った薄い葡萄色の肩衣。それには黒と金の糸で、細かい刺繍がしてあった。
それから、侍女たちは、アクアマリンのようなきらきら光る石がはめこまれた金の飾りを七都の額と髪に垂らした。
七都の耳と首にも飾りをつけ、さらに侍女たちは、七都の腕にも金色の輪をはめた。
「ナナトさまは、金の飾りがよくお似合いですね」
ラーディアが言った。
「ありがとう。とても素敵」
七都は、そこにさりげなく置かれていた大きな鏡を覗き込む。
ゼフィーアの衣装が西洋風の姫君なら、これは東洋風の姫君という感じだろうか。
ゼフィーアのドレスも美しかったが、魔神族の衣装は、素材自体が人間のものとは違うようだった。
とても軽い。羽根のように。そして、締め付けないし、動きやすかった。
ドレスの裾を踏んづけて転ぶ、という事態も起きなさそうだ。
「美しく仕上がりましたわ。アーデリーズさまにもご満足していただけるでしょう」
侍女たちの仕事に細かく最終チェックを行ったラーディアが、大きく頷いた。