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第8章 風の扉 4

 七都とアーデリーズは、空を見上げた。もちろん、ストーフィも。

 太陽を背にして、白い大きなものが、宙に浮かんでいた。自らの巨体を持て余しているかのように。

 額にはえた、銀色の長い角。きらめく鱗。薄青の背びれと尾びれの端が透き通って、空に溶けている。


「竜っ!!!」


 七都は、天を仰いで叫ぶ。


 そこには、昨夜ジュネスの城から眺めた、あの虹色をまとった黄金の竜とよく似た竜が浮いていた。

 あの竜と形は全く同じだが、色は違う。

 アーデリーズたちが乗ってきた竜は金色だったが、この竜は真っ白だった。

 闇が支配する夜ではなく、太陽が輝く昼間のせいか、白が際立って、雲と氷でつくられているような、幻想的な雰囲気がある。

 鱗の表面には、淡い虹色がきらめいていた。

 夜、この竜を見たら、金の竜と同じように、とても豪華なのかもしれない。

 白い竜の不透明な紫色の両眼が、砂漠にいる七都とアーデリーズに向けられた。

 機械の竜は、ゆっくりと砂漠に降り立つ。

 砂煙が舞ったが、七都たちがいる場所は、そこに見えない盾でも置いてあるかのように、砂から守られていた。


「きれい……」


 七都は、白い竜に見惚れた。

 もちろん、アーデリーズとジエルフォートが二人してつくった、機械の乗り物だ。


「スウェンよ」


 アーデリーズが言った。


「私を迎えに来たの」


 彼女の言葉は、落ち着いた自信に満ちていた。

 愛されているという自信で安定している、穏やかな心。そして、彼に対する揺るぎない信頼。

 アーデリーズの顔は静かな喜びに輝き、少女らしくはにかんでいる。


「いいなあ。機械の竜に乗って迎えに来てくれる恋人がいるなんて」


 七都が呟くと、すかさずアーデリーズが言う。


「うらやましがっていないで、あなたもシルヴェリスに迎えに来てもらいなさいな」

「うん。いつかね……」


 ナイジェル、機械の乗り物、何か持ってるかな。竜でなくても円盤とか。

 機械の馬でもいいや。いつかアーデリーズみたいに迎えに来てもらおう。で、馬に一緒に乗せてもらおう。


「ジエルフォートさまっ!」


 七都は白い竜に向かって、手を大きく振ってみた。

 ジエルフォートが竜のどこに乗っているのかは、わからない。

 外観は全く、生きている竜なのだ。

 操縦席は、頭にあるのか胸にあるのか、あるいは背中なのか。

 取りあえず七都は、竜の視界に完全に入るところに立って、手を振る。

 竜は、紫色の目をじっと七都に注いだ。

 二つの竜の目の表面に、七都が小さく映っている。


「ジエルフォートさま、同じ機械の竜を二つ一緒に、つくったんだね」


 七都が言うと、アーデリーズは訂正した。


「ちょっと違うわ。最初、私の金の竜だけだったんだけど、スウェンったら、いつの間にか色違いの同じ竜をもう一頭つくってたの」

「やっぱり、アーデリーズとお揃いの竜がほしかったんだよ、ジエルフォートさま」

「あら、そうなの。単に形が気に入ったか、別のものを考えるのがめんどうだから、ついでに、もう一つつくったのだとばかり思ってた」

「そんなわけないよお。アーデリーズが考えた機械の竜に、自分も乗りたかったんだよ、きっと」


 アーデリーズは、明るく笑った。


「これから彼と共に、水の都に行くわ。その前に、一旦私の屋敷に寄って、キディアスを拾っていくけどね」

「うん。気をつけてね」


 アーデリーズは、まっすぐ砂漠の向こうを指差す。


「この先に、扉がある。風の都へ通じる扉よ。私たちは『風の扉』って呼んでるわ」

「風の扉……」


 七都は、アーデリーズが指し示した方角を見つめる。

 そこには、重なり合う砂の丘しか見えなかった。


「あなたには『案内の目』もあるし、簡単に行けるはずよ。もう誰もあなたの邪魔はしない。無理をしない速度で進んで、あなたの好きな時間に到着するといい」


 アーデリーズが言った。


「そうするよ」


「さて……」


 アーデリーズは、ちらっと、超巨大な猫の置物のように、砂漠にちんまりと座っている竜を眺めた。


「また元の姿に変わらなくちゃね。この姿も気に入ってるんだけど」

「戻る必要なんてないよ、アーデリーズ」


 七都は、彼女に言った。


「え?」と、アーデリーズは首をかしげる。


「あなたがその格好が好きなら、そのままジエルフォートさまの前に出ればいい。別にジエルフォートさまの好みに合わせなくてもいいと思う。困らせてあげたらいいんだ」


 アーデリーズは、にやりと笑った。


「そうね。たまにはこういう格好も、新鮮でいいかもしれないわね。私が少女の姿になると話がしにくい、なあんて言ってたし。じゃあ、このまま行くことにする。せっかくあなたが冠を変えてくれたことだし。光の魔王ジエルフォートさま。どういう反応をするか、とても楽しみだわ」


 エルフルドさま、この冠をつけて水の都に行くの?

 七都は、何だか出来の悪い作品をいきなり大きな展覧会に出すはめになったような居心地の悪さを感じたが、無理やり思い直す。

 ま、いいか。似合ってるし。かわいいし。


 アーデリーズは、改めて七都を見つめた。


「私に意見するなんて。ナナト、あなたはキディアスの言うように、やっぱり将来たいした貴婦人になるかもしれないわね。貴婦人じゃなくて、王妃さま? それとも別のものかしら」

「言っとくけど、キディアスは、わたしを買いかぶってるからね。ナイジェルとわたしをくっつけようと、必死なの」


 アーデリーズは、七都の頬を撫で、微笑んだ。


「じゃあ、これから、彼があなたとくっつけようと必死だという、そのナイジェル――シルヴェリスを見てくるわ」

「うん。ナイジェルによろしくね」

「いよいよお別れね、ナナト。寂しいわ」


 七都は、再びアーデリーズに抱きついた。涙がこぼれ落ちる前に。


「エルフルドさま。エルフルドさま、大好き!」

「ありがとう、ナナト。あなたのその言葉は、とても力になる。私が今ここに存在する意味をはっきりと示してくれる言葉……。私をここに繋ぎとめる、大切なものの一つだわ」


 アーデリーズは、七都の顔をいとおしげに覗き込む。彼女が流すことの出来ない透明な液体をたたえた、明るいワインレッドの目を。


「ごめんなさい。別れるときに涙を見せるのは不吉だって、キディアスに言われたんだけど……」

「構わないわ。あなたは涙が流せるのですもの。あなたの体がそういう構造になってるのよ。涙を我慢していると、病気になるわよ。私が人間の食べ物を得ないと心が乱れるように」

「うん……。でも、もう少しだけ我慢しなきゃ。まだ旅の途中なんだもの」


 七都は手の甲で、溢れ出しそうになる液体を拭う。


「風の城に着いたら、泣くことにする。リュシフィンさまに抱きしめてもらって、よく来たねって言葉をかけてもらったら、きっと大泣きしちゃう」


 アーデリーズは、にっこりと笑った。


「そうね。そうするのが正解だわ。あなたの最終目的地は、リュシフィンの腕の中。そこが、あなたのこの旅の到着地点ね」


 七都は、頷いた。

 そう。そこがたぶん、最終目的地。そしてもうすぐ到着できるのだ。

 アーデリーズが指差した方角。その真っ直ぐ向こうにある、風の扉。

 それを開ければ風の都が広がり、幽体離脱したときに訪れた、あの美しい風の城が浮かんでいる。

 今度は意識だけではなく、体も一緒にあの城に入る――。

 そして、風の魔王リュシフィン――。

 七都と同じワインレッドの目をした、あの美しい若者。銀色がかったチャコールグレーの長い髪の、イケメン魔王さま。

 幽体離脱していたとき、彼には七都の姿が見えなかったし、彼の体にも触れられなかった。

 だが、今度はちゃんと見つめてもらって、固く抱きしめてもらう。絶対、そうしてもらう。


「お行きなさい。いえ、お戻りなさい、と言うべきかもしれないわね」


 アーデリーズが言った。


「本来、あなたがいるべきなのかもしれない風の城にね、お姫さま」


 もしかしたら、七都がいたかもしれない風の城。

 母がもし父ではなく、風の城にいるリュシフィンに七都を託していたら――。

 人間ではなく、魔神族として七都が育つことを選んでいたら。

 当然七都は、今も風の城にいるだろう。魔神の王族として。

 けれども、それはそれで、また別の悩みを抱えていたかもしれない。


「あなたには元の世界にも家族がいるけど、この世界にも家族がいるのよ。人間の世界からやってきたあなたにとっては、ちょっと変わった家族ってことになるかもしれないけれどね」


 七都は、頷く。

 リュシフィン。そして憎たらしいナチグロ=ロビン。(ナチグロは元の世界でも飼い猫だったから、そちらでも家族ってことになるのだけれど)

 他にも誰かいるかもしれない。

 もちろん、元の世界でいう法的な『家族』とは、違った概念の家族だ

 だが、きっと彼らは家族。そして、この世界のどこかにある、あの不思議な場所にいて、七都を見守ると言った母もまた……。

 彼らは、七都が風の都に着くのを静かに待ってくれている。


「じゃあ、私も行くわ。また会いましょうね」

「うん。絶対だよ、アーデリーズ」


 アーデリーズは、最後に一回だけ、七都をぎゅうっと抱きしめてくれた。

 それから彼女は、白い竜の前に歩み出る。

 七都のほうに振り返った彼女の姿が、ふわりとぼやけた。

 彼女の輪郭を残した灰色の影が一瞬、彼女がいた空間に残ったが、やがてそれは消えてしまう。


 七都は、白い機械の竜と向かい合った。

 やはりどこなのかはわからないが、この機械には二人の魔王が乗り込んでいる。それは確かだった。

 七都が手を高く伸ばすと、竜はうつむいて、七都に顔を近づける。

 七都は、竜の滑らかな顎に触れ、それからそっと撫でてみる。

 鱗で覆われた、猫にそっくりな顔。剣のような鋭い歯が間から見える、裂けた口。不透明な紫の、無表情な目。

 やはり機械には思えなかった。

 生き物にしては、微かな呼吸の音もせず、どこの体の部位も全く動かない――。そういう、極めてごく僅かな不自然さを除いては。

 なんて見事な仕事をしてるんだろう。

 やっぱり、二人とも尊敬してしまう。あこがれてしまう。


 七都は、竜に向かって、ゆっくりと丁寧に頭を下げる。

 二人の魔王に対する、心からの敬愛のお辞儀。

 キディアスに教えてもらったとおり、優雅に、気高く、しかも少女らしいかわいらしさと可憐さが現れるように。

 おそらくキディアスも満足してくれるようなお辞儀を、七都は砂漠の真ん中で完璧に行った。

 竜の紫色の目が、笑ったようだった。

 それから竜は頭を上げ、たたんでいた羽根を広げる。

 その姿は眩しいくらいに神々しく、厳かだった。

 竜は砂煙を舞い上げ、浮かび上がった。

 ぎっしりと詰まった虹色の鱗が遠くなる。

 竜は高く空に上がり、砂漠に佇む七都を軸にして、ゆっくりと旋廻した。


「あの竜って、鳴かないのかな」


 七都が呟いた途端、竜は、七都に返事をするかのように叫び声を上げた。

 その声を聞いた七都は、思わずこけそうなる。

 それは、どう聞いても、にゃああああ、としか聞こえなかった。

 巨大な機械の竜が発するには、あまりにもかわいらしすぎる鳴き声だ。


「にゃーって。……やっぱ、猫かっ」


 七都は幾分あきれて、空を回る白い竜を眺める。

 ギエエーッとか、グォォォとかいう怪獣の鳴き声じゃなくて、ニャアアア。


「ジエルフォートさまの趣味だよねえ。アーデリーズ、さすがに鳴き声まではデザインしないだろうし。安易というかなんというか……」


 でも、やっぱりアーデリーズかもしれないかな。

 彼女のことだから、意外性があっておもしろいから、敢えてわざと猫の声にしたとか。

 七都は笑いながら、機械の竜に向かって、大きく手を振る。

 竜は、七都に答えるように、何度も猫の声を放った。

 そして、五回目くらいの旋廻の途中で、その姿は忽然と消えてしまう。


 七都は、ぼんやりと、取り残された景色を眺めた。

 ラベンダーの空と、輝く太陽。そして、白い砂漠。

 本当に夢うつつで、竜の幻を見ていたような気分だった。

 竜は、地の都のアーデリーズの屋敷に向かったのだろう。キディアスを乗せるために。

 七都は、傍らに立っていたストーフィを見下ろした。

 ストーフィは、幻などではなく、しっかりとした存在感で、七都を見つめ返す。

 小さな銀色の体に空と太陽を映し、砂の上に影を描いて。


「わたしたちも、行かなくちゃね」


 七都が声をかけると、ストーフィは、こくんと軽く頷いたような気がした。

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