第8章 風の扉 3
ふと気がつくと、灰色のストライプは消えていた。
透明なガラスの壁も、扉もなかった。
エレベーターの小部屋自体が、忽然と消え去っている。
果てしない白い砂漠の真ん中に、七都はぽつんと立っていた。
頭上には、ラベンダー色の空。
斜めになった朝の太陽が、砂漠の表面に光の針を突き刺すように輝いている。
風が砂の表面を渡って、薄くベールを剥ぐように渡って行く。
七都は、周囲を見渡した。
特に見渡さなくとも、結果はわかっていたが。
三百六十度、砂漠。誰もいない。動くものは、砂しかない。
巨大なドームの中につくられた偽の砂漠だということは、頭では理解していても、やはりその不毛さには心が沈む。
なんて寂しい。なんて空虚な景色なんだろう。
あの華やかな舞踏会のあとにこの光景を見るから、よけいにそう思えてしまうのかもしれない。
白い砂の大地を、誰かが音もなく歩いてくる。
七都はその気配を感じて、振り返った。
マントがひらひらと風になびき、長い髪が炎のように舞う。
その人物は滑るように砂漠を進み、次第に七都に近づいてくる。
少女だった。
七都と同じか、あるいはもう少しだけ下の年齢くらいの。
鮮やかな赤い髪に、オレンジ色がかった濃い金色の目。
太陽の光を反射して額に輝くのは、花の形を模した金の冠。
片手に、銀色に光るものを下げている。
その少女は七都の前に立ち、どう?と言いたげにポーズをつけ、にっと笑った。
「……エルフルドさま!?」
七都は、目の前の少女に向かって呟く。
いつもの二十代半ばではなく、十代半ばくらいの姿をしたアーデリーズは、七都を睨んだ。
「この姿で『エルフルドさま』は、ちょっときついでしょ?」
「もといアーデリーズ。なんでそんな姿を?」
「あなたに合わせてみたのよ。久々に、こういう年齢の姿になってみるのもおもしろいと思ったしね」
アーデリーズが言った。
七都は、アーデリーズをしげしげと眺めた。
成熟した女性ではなく、まだどこかにあどけなさを残した、美しい少女。
背の丈も、七都よりほんの少し高いだけだった。いつもより目線を下にして、話が出来る。
「とてもかわいい。アーデリーズって……かなりの美少女だったんだね」
「当たり前でしょ。あなたには負けないわよ」
アーデリーズが、白い歯を出して笑った。
「もう、アーデリーズったら。あなたはいつも、わたしをびっくりさせるんだから。砂漠で何度もストーフィとグリアモスさんを出してみたり、お茶会してたり、正体が魔王さまだったり、男装したり……。他にもいろいろ……。で、最後は美少女に変身?」
「結構、楽しかったでしょ。私も楽しかったわ」
美少女に変身したアーデリーズは、手に持った銀色の物体を、七都の目の前にぐいと突き出した。
ストーフィの超巨大アップが、七都の視界いっぱいに広がる。
「この子……!」
「あなたにあげるわ。一緒に連れて行きなさい。あなたになついているようだしね」
「きみ……。きみ、アーデリーズといたの。お別れが言いたくて、探してたのに……」
ストーフィは、相変わらずの無表情なオパール色の目で、やはり相変わらず黙ったまま、七都を見つめた。
「お別れはしなくてもいいわ。リュシフィンも文句は言わないでしょ。これは単なる機械なんだから。一人で風の都に行くことになんら変わりはないものね。たとえ機械の猫でも、いれば寂しさも少しは紛れるでしょう」
「ありがとう、アーデリーズ!」
七都は、同じくらいの背丈になったアーデリーズに、勢いよく抱きついた。
いつものアーデリーズのような豊かな胸の膨らみはなく、体も華奢だったが、同級生に抱きついているようで、七都は何となく心地よさと親しみを感じた。
「……まったく。私にこういうことをする魔神族は、あなたぐらいね」
アーデリーズが言った。あきれているようだが、どこか嬉しそうに見える。
「うん。だって、わたしはあなたの口づけをもらっている唯一の魔神族なんだもの。遠慮はしないよ」
アーデリーズは、七都の背中に腕を回した。
「さっき、とても寂しそうな顔をしてここに立ってたね、ナナト。そんなに皆との別れが悲しかったの?」
「誰かと別れるのは、やっぱりつらいよ。またみんなと会えるかなって妙に不安になったの。それに、ここはこんな風景だから、よけいに感傷的になっちゃって……」
「魔の領域の中にいる限り、魔神族は安全よ。外部から守られているわ。自分から何か不注意なことをしない限り、人間よりも長い時間を生きられる。安心していいわ。きっとまた会えるから」
アーデリーズが、七都の髪を撫でながら、やさしく言った。
「うん。そうだよね……」
そしてアーデリーズは、金色の目を細めて、砂漠を見渡した。
「確かに殺風景ね。でも、ここの景色は、私は好きだわ。砂と空しかないけど、いつまでいたって飽きない。心が静まる。だから私は、よく砂漠を歩いてる」
「わたしがアーデリーズみたいな境地に達するには、まだたくさんの時間がかかると思う……」
アーデリーズは、笑った。
「そうよね。私はあなたの十倍以上は年上なんだものね。感覚が違っても当たり前だわ。たとえ同じように人間の血を引いていても」
七都も砂漠を振り返ってみる。
アーデリーズにつかまったまま砂漠を眺めると、何だか安心して、ゆったりとその景色を感じ取れるような気がした。
ほったらかしにされたストーフィも、二人と同じ方向に顔を向けている。
「大昔、ここは砂漠じゃなかった。その話はしたわよね」
アーデリーズが言った。
「うん。ここで初めて会ったとき、話してくれたね。ここで事故があって、地の魔神族は地下に移ったって」
「今はこんなだけどね。地の魔神族たちは、ここに住んでたの。都市はここにあって、緑が溢れてた。光の都よりも美しい、水晶のような都市だったらしいわ。人々は穏やかに日々を営んでいた。でも、ある日、地面が裂けたって聞く」
「……裂けたの? 地面が?」
アーデリーズは、頷いた。
「何が起こったのかはわからない。でも、大勢の人々が亡くなって、ここは砂漠になった。ここは墓標。突然消えてしまった、たくさんの人々の存在を思い出し、慰める場所。だから、若いあなたが何かを感じ取りすぎて寂しく思うのも、無理はない」
「あなたはきっと王様として、ここでその人たちを悼んでるんだね……。ここを歩いて……」
七都が呟くと、アーデリーズは首を振った。
「そうするのが私の役目でもあるんだけどね。だけど私は、多くは自分のためにここを歩いてた。彼らではなく、自分の心を慰めるために」
「アーデリーズ……」
「でも、これからはちゃんと悼まなきゃね。はるか昔にここで生きて、突然命を断たれた先祖たちのことを。でなきゃ、あなたにメーベルルとイデュアルを悼むようにって言う資格なんかないわ。あなたにも言われたもの。わたしはたったひとりの地の魔王だって。太陽が平気でも、人間の食料を食べられても、暗くて狭いところが苦手でも、ここの魔王さまなんだって」
「ごめんなさい。生意気なこと言っちゃって」
アーデリーズは、七都に微笑んだ。
「私、あなたのような娘がほしいわ。スウェンに娘を抱かせてあげたい。もちろん息子もほしいけど。子供はたくさんつくりたいな」
「家族がほしいって、アーデリーズ、言ってたものね。アーデリーズがお母さんになったら、きっと、とてもやさしい、素敵なお母さんになると思うよ」
「ナナト、『こわくて』が抜けてるわよ」
アーデリーズは、七都を軽く睨んで見せた。
「両親が二人とも魔王さまなんて、魔神族最強の子供になるね。でも、後継者問題も絡んでくるから、最低二人はいるよ」
アーデリーズは笑ったが、その表情にはすぐに、あきらめたような寂しさが入り込んでしまう。
「でもね。子供は出来ないかもしれないの」
アーデリーズが呟いた。溜め息まじりに。
「え?」
「女性の魔王が子供を身ごもることは、稀らしいわ」
「……そうなの?」
「あまりにも魔力が強すぎて子供が育たないとか、冠が嫉妬して邪魔するとか、いろんな理由が言われているけど。今までそういう例は、ほとんどないらしい。でも、頑張ってはみるわ。ジエルフォートさまにも協力してもらってね」
七都は、少し反省する。
無邪気なことを安易に彼女に言ってしまったかもしれない……。
「そうだね。ジエルフォートさまに、いっぱい愛してもらわなくちゃね」
「あーら。そういうことを平気で言えるようになったんだ。進歩ね、お姫さま」
アーデリーズが、にやっと笑う。
七都は、やっぱり、思わずうつむいてしまった。
いえ。無理してます。まだまだです。お二人には、とても対抗できません……。
それから七都は、話題を変えて、彼女に質問してみる。
「ジエルフォートさまとの生活って、今までと変わる?」
「あまり変わらないと思うわ。これまでと同じように扉を開けて彼のところに通って、同じように仕事をする。互いに同意したときは、交わったりもする。ただ、気が向いたら彼は、こちらに遊びに来てくれるかもしれないわね」
「やっぱり、お忍びで?」
「もちろんそうなるわ。正式に来たら、周りが気を使い過ぎて息が詰まるし、まともに話もできやしない。でも、今までと同じで、私は満足」
「いつでも、会いたいときに、ジエルフォートさまに会えるんだものね」
アーデリーズは、頷いた。
それから彼女は、おもむろに七都の手を取り、自分の冠に触れさせる。
冠は揺らめき、たちまち形を変えた。
七都が子供の頃に絵本で見た冠――。
童話の挿絵の王子や王女が付けていたような、あのぎざぎざの冠が、アーデリーズの頭の上に出現していた。
側面には、ハートの模様が、一列にずらりと並んでいる。
もちろん、七都によるデザインの冠だった。
七都は、頭を抱えたくなる。
一応人に訊かれたら、趣味は絵画ということにしているし、美術の成績も、全教科の中でいちばん点数がいい(進学校で、五教科のどれかではなく美術が得意などというのは、美大志望とかでない限り、あまりプラスにはならないらしいのだが)。
なのに、わたしのセンスって、この程度か……。
無意識の産物とはいえ、なんてベタでチープな形と模様なんだろ。
「私の冠も変えちゃうんなんて。やっぱりナナトって、ただの風の魔神族の姫君じゃなさそうね」
アーデリーズは、ストーフィの後頭部を鏡にして覗き込み、自分の姿を映して確認する。
「かわいいわ。ちょっと変わってるけど、素敵」
確かに、かわいい。今のアーデリーズには、よく似合ってるかもしれない。
マントの下に着ている、ダークグリーンのひらひらドレスにもマッチしている。
本当に、童話の世界から抜け出してきた王女のようだ。
七都は、少し気を取り直す。
「アーデリーズ。亡くなる前にイデュアルは言ったの。あなたと手を繋いで、太陽の光の中に立つわたしが見えるって」
「イデュアルが?」
「きっと彼女の言ったことは本当だよ。わたし、またあなたに会いにここに来るから、一緒に散歩に行こう。魔の領域の外に。手を繋いで、太陽の下に立とう。あなたが言ってたように、いつか別の世界にも連れて行ってくれる?」
七都がデザインした冠をかぶったアーデリーズは、幼い少女のように嬉しそうに笑った。
「いいわよ。魔神族と一緒に昼間外に出られるなんて、夢みたい」
その時――。
ラベンダー色の空に、巨大な影が現れた。
「あれは……」




