第2章 地の底の貴婦人 1
「着いたわよ」
アーデリーズの声が、耳元で聞こえた。
周囲で猛り狂うように舞っていた砂の音が、消え去っている。
砂の中にいるという息の詰まるような閉塞感も、もうなかった。
感じるのは空間の広がり。そして、少し湿っていて重苦しい雰囲気があるとはいえ、きれいな澄んだ空気。
七都は、顔を上げる。
アーデリーズが、七都を覗き込んでいた。金色の目が高貴な宝石のように美しい。
「かわいいわね、ナナト。ずっと抱きしめていたいくらい」
彼女が、くすっと笑ってささやく。
七都は、思わずアーデリーズから離れた。
「冗談よ」
アーデリーズが、さらにおかしそうに笑った。
「ここは……」
七都は、周囲を見回した。
七都が立っているのは、磨かれた床の上だった。
装飾が施された柱が何本も、巨大な林のように並んでいる。建物の中のようだ。
高い天井からは見事なシャンデリアが下がっていて、柱にもそれぞれ明かりが灯されている。
だが、それらの明かりは避難所の照明のような薄青い光ではなく、太陽を思わせる明るい橙色の光だった。
その光の下にはたくさんのストーフィが、思い思いの場所で、思い思いのポーズをしてくつろいでいた。
間隔を開けて散らばる彼らは、ロボットとはいえ、やはりどこか猫っぽい。
「あなたのお屋敷ですか?」
七都が訊ねると、アーデリーズは頷いた。
「そうよ。ここはあまり広くはないけどね。遠慮はいらないわ」
広くはないって……。
七都は、もう一度あたりを見渡す。
ここの廊下だけで、私の家の面積のいったい何倍あるんだろう。
「お帰りなさいませ」
並んだ柱の奥から、人々が列になって進んでくる。
女性が七、八人、男性が一人だ。
女性たちは、同じ白いドレスをまとっていた。先頭の少女だけ、違う衣装――青いドレスに真珠色の上着を着ている。
男性は、砂漠で会った二人の魔貴族よりは、動きやすくシンプルな服装をしていた。
全員魔神族のようだ。そして全員、濃淡はあるとはいえ、やはり金色の目をしている。
「アーデリーズさま!」
男性が叫んだ。
初老の男性だった。髪は真っ白だ。
七都は、若くない魔神族を見るのは初めてだった。
今まで出会った魔神族は、すべて若い姿をしていた。十代から二十代くらいまでの。
だが、彼は四十代、いや、五十代かもしれない。
もちろん魔神族は、自分のなりたい年代の姿を取れるらしいから、その年代の姿形が彼の趣味なのだろう。
「あら、ラーセン。来てたの。ご苦労なことね」
アーデリーズが、素っ気なく言った。
ラーセンと呼ばれたその初老の男性は、アーデリーズに頭を下げて挨拶をした。
それから彼は、ためらいがちに告げる。
「お城から、使いの者が参っておりますが……」
「いないって言って。砂漠にいるって。実際今まで、砂漠でお茶会してたんだから」
アーデリーズが、めんどうくさそうに答えた。
「ですが、本日お使いが来るのは、二度目ですよ……」
アーデリーズは、ラーセンを睨む。
「そんなの、知ったことじゃないわ。とにかく、今私はここにはいないの!」
ラーセンは、溜め息をついた。
「ふん。私に何か言いたければ、砂漠まで来ればいいんだわ。ヴェルセル公爵みたいに」
アーデリーズが呟くと、ラーセンは悲しげな暗い顔をする。
お城って……。
地の魔王エルフルドのお城のことかな?
で、お使いの者っていうのは、彼の使者?
七都は、ちらっと思った。
「この方は?」
ラーセンが、七都を眺めた。
値踏みするような鋭い目つきだった。
旅の装束、しかも砂だらけの少女というのは、彼にとってあまり気に入るシチュエーションではないらしい。
「通りかかったから、来てもらったの」
アーデリーズが言う。
「また、そのような! どこの誰ともわからぬ者を!」
「失礼よ、そんなこと言っちゃ。風の魔神族の姫君だわ。水の魔王さまとも関係があるみたい。ほら」
アーデリーズが手を伸ばし、七都の額の髪を上げる。
ラーセンは七都の額を見て、「ひっ!」と叫んだ。
「そそそそ、そのようなお方をお連れしてっ!!! アーデリーズさま、ただでは済みませんぞっ!!」
「少しくつろいでもらったら、すぐに帰っていただくわよ。心配はいらないわ」
アーデリーズは、投げやりに言った。
七都は、ほっとする。
どうやら彼女は、七都をちゃんと砂漠に返してくれるつもりではあるようだ。
アーデリーズは、青いドレスの少女のほうを向いた。
「この子をお願いね。うんときれいにして。私が満足するくらいに」
「かしこまりました」
少女はにっこりと笑ってお辞儀した。そして、七都にも丁寧にお辞儀をする。
「ラーディアと申します。どうぞ。私と一緒においでください」
「あの……」
「彼女について行って。あとでまた会いましょう、ナナト。きれいになったあなたを見たいわ」
アーデリーズが、七都の不安げな眼差しを受け止めて、安心させるように、ゆっくりと頷いた。
七都は、青いドレスの少女ラーディアに案内され、建物の奥に入って行った。
屋敷の装飾はランジェの城のそれよりも繊細で、デザインも洗練されていた。
そして人間の造った建物とは、根本的に異質なものがあった。
七都にはそれが建物の材料なのか、装飾そのものなのかはわからなかったが。
だけど、なんとなく懐かしい……。
七都は、建物の内装を楽しむように見上げる。
魔神族の造った建物。その中に深く抱かれ、幾重にも守られているという安心感があった。
そんなふうに感じてしまうのは、やはり七都が魔神族の血を濃く受け継いでいるせいなのかもしれない。
たくさんの柱を通り過ぎたあと、ラーディアは、七都を一つの部屋の中に導いた。
床にはモザイクのタイルが美しく貼られ、壁には星空のような絵が描かれていた。
花の香りを微かに含んだ、湿ったあたたかい空気が、ふわりと七都の体を包み込む。
浴室のようだ。おそらく隣の部屋には、湯が張られた浴槽があるのだろう。
「さ。ナナトさま。その砂を残らず落としてしまいましょうね」
ラーディアが微笑んだ。
七都は、胸当ての上に手を乗せる。
「ラーディア。わたし、怪我をしてるの……。だから、お風呂は……」
ラーディアは、心持ち顔を曇らせた。
「それはお気の毒です……。でも、髪と顔は洗えますよね。手と足も。ご安心ください。お怪我に差し障ることは致しません」
「ありがとう。本当は、お風呂、ずっと入りたかったんだ……」
「少しは、すっきりしていただけると思いますよ。ここは魔の領域の中。外と違って水もお湯も、何の心配もいらず、ふんだんに使えますから」
白いドレスの少女たちが、七都のマントを肩から取り、胸当てをはずす。
剣と上着も取り去られ、七都の体は軽くなる。
「その包帯も、お取り替えするのよ」
ラーディアが少女たちに指示した。
少女たちの中の一人が、七都の包帯をはずす。
その部屋には少女たちがたくさんいたが、七都は恥ずかしさは感じなかった。
ゼフィーアに続き、シャルディン、カーラジルトと裸体をさらしてしまったので、もう幾分そうすることに対して慣れてきていた。
それにここにいるのは、全員同性。こだわる必要はさらにない。
だが、包帯の下から現れた七都の傷を目にして、一人の少女が鋭い悲鳴をあげた。
彼女は七都の足元に、すとんと倒れこむ。気を失ったようだ。
七都は呆然と、倒れた少女を見下ろした。
「なんと失礼なことを!!」
ラーディアが叫んだ。
「早く連れて行くのよ!」
気を失った少女は、他の少女たちによって、たちまち部屋から連れ出された。
「申し訳ありません。たいへん失礼を致しました」
ラーディアが七都に頭を下げる。
「あ。いいよ。仕方ないよ。それだけひどい怪我だってことだもの。見るに耐えないよね」
七都は言ったが、気持ちはかなり暗かった。
あんなにあからさまに失神されるなんて。正直、へこむ。そんなにひどいのだろうか。
七都は、自分の胸の傷を眺めた。
薬のおかげで血は止まっている。だが、自分の体の現在の状態が信じられなかった。
暗黒だった部分は、暗黒ではなくなっていた。
魔の領域の中では、傷口の暗黒は消え去るのかもしれない。
闇が拭い去られ、その奥に今見えているのは、体の内部。
ぞっとするような赤味を帯びた色彩と艶。おそらく、肉と内臓……。
七都は、思わず顔をそむける。
こわい。あまりのおぞましさに体が震える。
やっぱり、これではゾンビだ。生きて動いて、普通に生活出来ているのが奇跡なのかもしれない。
あの侍女が気絶したのも、無理はないだろう。
それに怪我自体が、前よりひどくなっているような感じがする。
単なる気のせいだろうか。
もしかして、わたし、とんでもないことをし続けてる?
わたしが楽観的に思ってる以上に、事態は深刻?
カーラジルトの心配そうな顔が、ふっと現れて消えた。