第8章 風の扉 2
七都はラーディアに案内され、廊下を歩く。
キディアスやラーセンたちも、遠慮がちにぞろぞろとついてきた。
何回か廊下の角を曲がると、やがて突き当たりに、美しい彫刻が施されたガラスの壁が現れた。
壁の向こう側に小さな部屋があるのが、彫刻の隙間から見える。
けれども、その中には、調度品は何も置かれていなかった。空っぽの部屋だ。
ガラスの壁には、ガラスの扉がついている。
扉の向こうの、何もない狭い部屋。
もしこれで、どこかそのへんにボタンがあったら――。
「わかった。エレベーターだ、これ。すっごくおしゃれな、ガラスのエレベーター」
七都が言うと、全員がけげんそうな、困った顔をする。全員の頭に『?』マークがついてしまったようだった。
ただキディアスだけが、『またですか』みたいな表情をした。
「なんでもないです」
七都は、小さく呟いた。
はい、すみません。またやってしまいました。
ラーディアが手を上げると、扉が開く。
扉はエレベーターっぽく、スライドして、両側に分かれた。
「どうぞ。すぐに地上に着きますよ。どうか、お気をつけて。風の都に、無事に到着されますように」
「ラーディア」
七都は彼女の手を取って、ぎゅっと握った。
「本当に、いろいろありがとう。また一緒に舞踏会に行こう。ジュネスの銀の城の舞踏会にも」
ラーディアは頷く。
「はい。ぜひ」
「今度あの城での舞踏会にナナトさまが出られるときは、ジュネスさまとラーディアの婚約式、もしくは結婚式かもしれませんね」
ラーセンが、横から口をはさんだ。
「あ、そうなの?」
「ラーセン侯爵。いやですわ、そんな……」
ラーディアは、頬を染める。
「アーデリーズさまは、そういうことで話をすすめると言っておられましたよ」
「じゃあ、ラーディア。結婚式には、絶対呼んでね」
ラーディアは、さらに赤くなって、うつむいた。
「もう、ナナトさままで……」
「それはともかく。ジュネスにもお別れの挨拶ができなかったから、私が感謝してたって伝えておいてもらってもいい? 舞踏会に招待してくれて、本当に嬉しかったって。そして、私のアヌヴィムのシャルディンと一緒に、またいつか、お城を訪問させてもらうって」
「はい」
ラーディアは頭を上げて、しっかりと頷いた。
七都は、ガラスの小部屋に入る。
扉の前に並んだ、魔神族たち。少しの間だけ、一緒に過ごした人々。
彼らの顔を見ているうちに、目が曇ってくる。
曇っているのではなく、濡れているのだ。透き通った液体で。
それが涙だと自覚した途端、言いようのない悲しみが、喉の奥底から目の表面をめがけて押し寄せてきた。
なぜだろう。なぜこんなに悲しいんだろう。
「ナナトさま。別れるときに涙を見せるのは、不吉なのですよ」
キディアスが言った。
「我々は涙を流す習慣はありませんが、その理由のひとつとして、涙は不吉だという概念があるからです」
「そうなの。ごめんなさい……」
七都は、じんわりと湧き出ていた涙を手で拭った。
そうだ。ゼフィーアにも注意されたのに。人前で泣くなって。
「でも、私は、ナナトさまの涙は好きですよ」
ラーセンが言った。微笑みながら。
「何というか、素直で、とてもおかわいらしい。心が穏やかになります」
「私もです」
ラーディアが同意する。
グランディール卿とエクト卿も、首を縦に振った。チョコレート色の毛のグリアモスも。
キディアス以外の全員が、好意的に見てくれているようだ。
「みんな、また会おうね。また会えるよね……」
七都は呟く。その言葉が、何か不吉なことを避ける呪文のように。
「もちろんですよ。またここにおいでくださいね」
ラーディアが言った。
扉がゆっくりと閉まって行く。
ラーディア、ラーセン、そしてグランディール卿とエクト卿の、いろんな濃淡の金色の目。グリアモスの、薄いブルーに闇色の瞳の、猫の目。それからキディアスの、暗い冬の海の青黒い目。
たくさんのあたたかい目が、七都を見つめる。
「ごきげんよう、お姫さま」
「お元気で、ナナトさま」
「またいつか、お会いできる日まで」
扉が閉じる直前、魔神族たちは、一斉に七都に向かって頭を下げた。
「ありがとう、みんな……」
止まっていた涙が、また溢れ出す。
泣く必要なんかない。また、きっと会えるのだから。
彼らは、人間の何倍もの寿命を約束されているのだ。
それに魔力だって使える。すべての悪いことから身を守れるだろう。
不安に感じることなんて、何もないはず……。
けれども、自分はきっとわかっているのだ。
あの時間がもう二度と戻らないということを。
たとえ今度ここに来て、彼らに再びあいまみえたとしても、全く同じ自分が、全く同じ彼らと、全く同じ時間を過ごせないということを。
七都は、不透明な暗い灰色になった部屋の壁をぼんやりと眺める。
灰色は、果てのない無数の細いストライプの線を描き始める。
やはり、七都が思ったように、地底都市と砂漠をつなぐエレベーターなのかもしれなかった。
魔神族は、確かに長い時間を生きる。人間よりもはるかに長い時を。
それに、魔力も自由に使う。火や水や風や砂を駆使して。
だが、七都は見てしまった。
そんな彼らでさえ、一瞬にして消えてしまう場面を。
彼らでさえ抗うことの出来ぬ、過酷な運命――。
メーベルル。腕を失ってしまったナイジェル。そして、イデュアル……。
なんとはかないのだろう。
たとえ強力な力を持つ魔王といえども、太陽の下に出れば、ひとたまりもない。
その体は、あっという間に火を噴き、灰と化す。
あとには何も残らない。細胞のかけら、骨の粉さえ。
笑って見送ってくれた彼らは――。
今度ここに来たとき、必ず、全員が揃っているといえるだろうか。
誰かが欠けているかもしれない。
いや、その前に、自分は果たしてまた、ここに来られるのだろうか。
漠然とした不安。涙が出る理由も、たぶんそのせい。そんな不安が何割か混じっている。
また会える? また会おうね。
この世界に来て、誰かと別れるとき、何度同じことを言ったのだろう。
セレウス、ゼフィーア、セージ。ナイジェル。
シャルディン、カーラジルト……。彼らとの別れ際に。
絶対、また会えるよね。
それは、会えるという、確実な保証を得ようとするため――。
もしかしたら、もう会えないかもしれないという不安をごまかし、消し去ってしまうために、七都が口にする言葉。
みんな、笑って頷いてくれた
たぶん、七都を安心させようとして。
この世界は、あまりにも不確実だ。危険がいっぱい、そのへんに口を開けて待っている。
人間は魔神族に襲われる不安を常に抱えているわけだし、魔神族は、太陽や魔神狩人にいつ命を断たれるかわからない。
気の抜けない不安定な危機的状況に、ここの人々はいつもさらされている……。
でも――。
それは、この世界だけじゃないんだ。
七都は、改めて思う。
私が生まれ育った、元の世界の人たちだってそう。
たとえ太陽の光に溶けなくったって、魔神狩りに遭わなくったって、ある日突然いなくなる可能性を、みんな持っている。
ある朝、寝ている間に心臓が止まって、二度と目覚めないかもしない。
自転車で走っていたら、車がものすごい勢いで迫ってきて、避けられないかもしれない
あるいは、普通にいつものように歩いていただけなのに、たいした理由もなく、見知らぬ誰かに命を奪われるかもしれない。
きょうと同じ明日はまた必ず来るんだと疑うことなく、みんな一日を過ごしている。
もう来ないかもしれないのに……。
何げなく、のんびりと日々を生きているけれど、たぶんそれは、とてつもない偶然の上に成り立っているのだ。
毎日が無事でいられることが、きっと奇跡なんだよ……。
七都は、溢れてくる感傷に浸りながら、透明な壁の向こうで踊る、たくさんの灰色のストライプを眺め続けた――。




