第8章 風の扉 1
窓の向こうの風景は、相変わらず、闇の中にぶちまけた輝く宝石のようだった。
夜が明けたというのに、地の都の居住区は、厚い砂の層のさらにその下にある暗黒に包まれている。
太陽の光がここに届くことはなく、地の魔神族たちは機械が作った冷たい光を灯して、日々を暮らしているのだ。
アーデリーズが息を詰まらせるのも、わかるような気がした。
けれども、このはるか上の砂漠に出れば、朝の太陽が魔の領域のラベンダー色の空に輝いている。
魔神族が浴びても、何の害も及ぼさないように加工された太陽の光が、白い砂漠に降り注いでいるだろう。
七都は、居間のテーブルの上にきちんとたたんで置かれてあった旅の衣装に着替えた。
ゼフィーアが用意してくれた衣装を身につけると、昨夜の赤いドレスを着ていた姫君の面影は、すっかりなくなってしまう。
エクト卿が口にした、『少年のよう』な姿。
メーベルルの剣をつけ、セージがくれた胸当てをつけると、さらに凛々しい雰囲気が加わる。
「あれ?」
旅の衣装のセット。
最後に残ったのは、ゼフィーアがくれたアヌヴィムの銀の輪だった。
それも、テーブルの上に、きちんと置かれていたものの一つだ。
「これ、ストーフィが付けていたのに?」
扉がたたかれ、ラーディアと侍女が一人、入ってくる。
侍女が掲げていたカトゥースのいい香りが、部屋に広がった。
彼女たちのあとから、ストーフィが十体くらいついてきて、わらわらと部屋の中に散らばる。
じっと立ち尽くすストーフィもいれば、椅子に座るもの、じゃれあいをはじめるもの、窓に走り寄って景色を楽しむものなど、その行動はさまざまだ。
そのどれかのストーフィが、アヌヴィムの輪を付けていたストーフィなのかもしれない。
七都の血止めの薬とイデュアルの指輪を飲み込み、ずっとそばにいた、あのストーフィ――。
だが、七都には区別はつかなかった。
全員、同じに見える。違うところが全くない。
「ねえ、ラーディア。わたしのアヌヴィムの輪をはめていたのって、どの子?」
七都が訊ねると、ラーディアは困ったような顔をする。
「わたしにもわかりませんわ。輪をはずしてしまったら、みんな同じですもの」
「そうだよね……」
油性マジックとかで、顔にラクガキでもしとけばよかったかな。眉毛とかヒゲを描いたりして。
七都は思う。ここに油性マジックがあれば、の話だったが。
「ストーフィ!」
七都が試しに呼んでみると、部屋にいたストーフィ全員が、七都のほうを振り返った。
もちろん、みんな同じ顔、同じ無表情。銀色の球形に真ん丸いオパール色の目、とがった耳だった。
七都は、肩をすくめる。
ストーフィたちは七都には何の興味も示さず、すぐに各々の行動に戻ってしまった。
「お別れを言いたかったのに。あのストーフィが、ここにいるのかさえもわかんない」
「きっと、ストーフィには伝わってますよ」
ラーディアが慰めた。
「あのストーフィ。他のストーフィとは、どこか違ってるような気がしたんだけどな」
「そういえば、単独行動が多かったですよね。ストーフィたちが普段しないような行動を取っていたような……」
だが、それもまた、結局謎のままだ。
自分はこれから風の都に出立するのだから。それに、ストーフィをつくった本人(もちろん、マッドサイエンティストのジエルフォートだ)さえわからないような素振りだったのだから。
七都は、侍女が入れてくれた熱いカトゥースを体の中に流し込む。
テーブルの上には、携帯の容器に入れられたカトゥースも、いつの間にかさりげなく置かれていた。
さすが、ラーディア。よく気がつく。果林さんみたい。
七都は、感謝する。
カトゥースを飲んでしまったあと、七都は立ち上がった。
行こう。風の都。風の城へ。
目的地は、この地の都の隣にある。
きっとすぐにたどり着けるだろう。
「じゃあ、また会おうね」
七都はストーフィたちに声をかけたが、それに反応してくれたストーフィは皆無だった。
彼らはそれぞれ、彼らなりに忙しいらしい。
じゃれあったり、景色を眺めたり。七都に注意を向けてくれるストーフィはいない。
七都は、アヌヴィムの銀の輪をカトゥースの入った容器の紐にかけた。
少しだけ寂しい気分を抱きしめて、七都は部屋から出る。
廊下には、キディアスがいた。
それから、グランディール卿とエクト卿、そして、美青年ではなく、元の中年の姿に戻ったラーセン侯爵。
両手が機械の、あのチョコレート色の毛のグリアモスもいる。
七都を見送ってくれるようだ。
「ラーセンさん。いつものあなたに戻っちゃったんだ」
七都が言うと、ラーセンは、決まりの悪い表情をした。
「やはり、あの若い姿のほうがお好みですか?」
「だって、ゆうべの姿のほうが、わたしの歳に近いんだもの。親しみを感じても仕方ないでしょ?」
グランディール卿とエクト卿が、ほら見ろと言いたげに、大きく頷いてみせる。
「でも、今のあなたも素敵だと思うよ。重みがあるし、威厳があるし、第一他の人が持っていない存在感みたいなのもある」
「そうでしょう? 若ければいい、というものではありませんからね」
彼は言って、二人の若い美青年姿の魔貴族を睨んだ。
七都は、その二人の前に歩み寄る。
「グランディール卿、エクト卿。また一緒にお茶会して、踊りましょうね」
「お待ちしておりますよ、ナナトさま」
「いつでもお誘いください」
二人は、にっこりとさわやかに笑う。そして、丁寧に七都にお辞儀をしてくれた。
「行かれるのですね……」
キディアスが、彼に似合わず、しんみりと言った。
七都は、彼の前に立つ。
「うん。とうとうお別れだね。キディアス、ずっとわたしについてきてたものね」
キディアスは七都に、手を差し出す。
黒い手袋をしたその手のひらには、猫の目ナビが乗せられていた。
「ジエルフォートさまからです。中味を最新のものに入れ替えてくださったそうです」
「ありがとう。すっかり忘れてた」
七都は、猫の目のペンダントを受け取り、いろんな角度から眺めてみる。
けれども、もちろん外見は全く同じで、前と変わったところはなかった。
七都はそれを首にかける。
「ジエルフォートさまに、きちんとご挨拶できなかったな。倒れちゃったから」
彼にはいろいろお世話になったのだから、結局最後にエディシルをあげられてよかったかもしれない。
七都は、思う。
あの水槽に入ってなかったら、今頃ここにこうして立ってなんかいない。
きっとあのまま死を迎えていた。そして体はすぐに分解して、消えてしまっただろう。
七都は、ぞくっと身を震わせた。
「では、私からお礼を申し上げておきましょう」
キディアスが言った。
「よろしく伝えてください、キディアス」
それから七都は、キディアスに抱きついた。
突然そういうことをされたので、キディアスが戸惑っているのがわかる。
「ナナトさま。王族の姫君は、他の一族の男性に対して、気安くこういうことをしてはいけません」
固まったまま、キディアスが言った。
「わたしが、もしナイジェルと結婚とかしたら、同じ一族になるかもしれないじゃない?」
七都は、くすっと笑って、抱きついたままキディアスを見上げた。
キディアスは、冬の暗い海のブルーの目で、七都を静かに見つめる。
「キディアス。いいな。あなたはこれから水の都に戻って、ナイジェルに会うんだよね。そして、彼に抱きしめられる。彼の腕の中に」
「おかしな表現はやめてください。単なるお食事です」
キディアスが言った。
そして彼は七都の腰に、いきなりぐいっと手を回す。
「えーと。あなたこそ、他の王族のお姫様に、そういうことしていいのかな?」
七都は、彼を睨んだ。
「最後に猫パンチ、おもいっきり受けてもらってもいーい?」
「このまま、水の都に行きましょう、ナナトさま」
キディアスが真剣な顔をして、七都の目を覗き込む。
「そして、シルヴェリスさまに抱きしめられてください」
「キディアス、しつこいっ!」
七都は、五十センチくらいの距離を瞬間移動して、キディアスの腕から逃れた。
猫パンチは、取りあえずはやめておくことにした。今度会ったときに、また続きが出来るように。
「ナイジェルには改めて会いにいくって、何度も言ってるでしょうが」
「あなたのことですから、いつになるかわかりません」
相変わらず真面目な顔つきのまま、キディアスが呟く。
「近いうちに、必ず行くよ」
「本当ですか?」
「本当。だってわたしも、彼に会いたいんだからね。生身で彼に会いたいの」
「それをお聞きして、安心しました。ほんの少しだけですが」
キディアスが言った。
「では、ナナトさま。お気をつけて」
「うん。あなたもね。二人の魔王さまのお世話は大変でしょうけど、頑張ってね」
七都が言うと、キディアスは慇懃に頭を下げた。
キディアスはこれから、水の都のシルヴェリスのもとにエルフルドとジエルフォートを案内するという、魔貴族にとっては大変な役目を背負うことになる。
しかし、きっと彼なら、難なくこなせてしまうに違いなかった。
「ラーディア。アーデリーズは? 彼女にも挨拶しなきゃならないのに、どこに行っちゃったの?」
「砂漠でお待ちになると。そうおっしゃっておられましたよ」
七都の後ろに控えていたラーディアが、微笑んで答えた。
「砂漠で?」
「地上には、こちらから出られます。どうぞ」




