第7章 刻まれた時間 2
「会わないほうがいい……?」
アーデリーズは、頷く。
「メーベルルはこの人にとって、たぶんとても大切な存在だったはず。それを突然失ってしまった」
「うん……。船の中で彼女が悲しそうな顔をしていたのは、メーベルルを悼んでいたせいなのかもしれない……」
「その悲しみが、憎しみなんかになって、あなたに向かうんじゃないかと、私は心配する」
アーデリーズが言う。
「わたしに?」
「あなたを逆恨みしないとも限らない。メーベルルの最後の言葉を受け取ったでしょうから、あなたのことも知っていると思うわ。でも、素直にそれを遺言として彼女が受け入れるかどうかは、また別よ。納得できていないかもしれない。そんな彼女の前に、あなたが現れたら……。拒否されるだけならまだしも、何かされたら……。魔神族は魔力なんか持っているから、人間よりもはるかにやっかいだわ。感情をぶつけると、必然的に魔力もぶつけてしまうってわけ。おまけに、あなたは無防備。そういう攻撃から完璧に身を守るにはまだ若すぎるし、第一あなたは別の世界で生まれ育ったせいで、魔力も使いこなせない」
「確かにそう……。修行が足りない……」
七都は、認める。
けれどもアーデリーズは、にっこりと笑った。
「まあ、でも、それは私の取り越し苦労で、この人は、ものわかりのいい、穏やかな人かもしれないわ。あなたにも、何のこだわりもなく会ってくれるかもしれないわよ」
「そう願う。メーベルルの最後を見届けたのは、わたしなの。だから、わたし、この人に会わなくちゃ。彼女の最後を伝えなきゃ……」
アーデリーズは溜め息をついて、七都をまじまじと見つめた。
「本当にナナトって、いい子ね。とてもいい人たちに育てられたんでしょうね」
「……あきれてるの?」
アーデリーズは微笑んで、首を振った。
「いいえ。褒めてるのよ。魔神族にしておくには、もったいないわ」
「半分人間ですから。でも、いい人だよ、お父さんも、義理のお母さんも。一生懸命、わたしを育ててくれたの」
アーデリーズの微笑みが、少し翳ったような気がした。それが何を意味するのか、七都にはわからなかった。
「でも、わたしがこの人に会いたいのは、自分のためかもしれないけど……」
七都は、絵の中の少女を見下ろして、呟く。
「あなたのため?」
アーデリーズが、首をかしげた。
「あまりにもメーベルルが早くいなくなってしまったから……。会った途端、ろくに話も出来ないような状態で、逝ってしまったから。わたしはまだそれをどこかで受け入れられていない。メーベルルにそっくりなこの人に会って、メーベルルがたしかにいたってことを確認したいだけなのかもしれない」
「それは間違っていないと思うわ。確認したいなら、確認するといいのよ。でも、メーベルルはいたわ。みんな知ってる。この絵の中にも姿が刻まれて、ほら、笑ってる」
アーデリーズが言った。
それから彼女は、おもむろに手を伸ばし、指を動かす。
すると、壁に立てかけてあった数点の絵の中から、一枚がひとりでにせり上がった。
「ナナト。あと一枚、見てもらいたい絵があるの」
その絵は、メーベルルの絵の横に、静かに並べられた。
どこかの屋敷の中のようだった。描かれているのは、五人の人物。
若い男性がひとり、若い女性がひとり。そして、二人の前に三人の少女が座り、各々違ったポーズを取っている。全員が、微笑んでいた。
おそらく絵を描いた人物は、モデルたちのその微笑に包まれながら、筆を動かしていたのだろう。
メーベルルの絵と同じような、やさしいタッチ。それは、メーベルルの絵よりも、心持ち丁寧に描かれているような気もする。
三人の少女たち――。
その中の一人は、七都がよく知っている人物だった。
金色の目が、七都を見つめ返す。
「イデュアル!!」
七都は絵の中に向かって、彼女の名を呼んだ。
「そう。今はもう存在しない、あの子の姿だわ。あの子だけじゃなく、この絵に描かれている人たちは、全員存在しない。絵を描いた人もね」
アーデリーズが言った。
絵の中の男性を、アーデリーズは指差す。
少し気難しく見える、イデュアルによく似た金の目の持ち主だった。
隣のやさしげな女性は、イデュアルと同じ紫色の髪をしている。
そして、イデュアルを小さくしたような二人の少女。
おそらくイデュアルの両親と妹たち。幸福な家族の肖像画――。
「これが、ヴェルセル公爵。この絵を描いた人。家族を描いたあと、自分の姿も描き加えたの。だから、自分の絵だけが不自然で浮いてるって、この絵を見ながら、よく話してた。これは、公爵家の食卓に飾られていた絵よ」
「イデュアル。イデュアル……。ここにいたの。ここにいたんだね……」
七都は、絵の中のイデュアルに話しかける。
「そう。イデュアルも、メーベルルも、ここにいる。この絵が存在する限り、永久にこの中に。彼女たちの時間の一部が、この絵の中に写し取られているの」
アーデリーズが言った。
「不思議……。二人はもういないのに、絵の中では笑ってる。もう体は溶けてしまって、塵になって、風にさらわれて行ってしまったのに……」
「魔神族は、死ぬと人間みたいに遺体は残らないからね。生を終えると分解して、何も残らない。だからお墓もないわ。人間の場合とは、少し違うかもね」
「じゃあ、生きた証って、こういう絵しかないの? その人が確かに存在したってことを示すものって……。たまたまメーベルルもイデュアルも絵があったけど、指輪とか剣とかマントとかも残してくれたけど……。もしそういうのがなかったら、二人がいたってことすらわからない。二人は、確かにいたんだよ。とても、とてもきれいな人たちだったのに。なのに、生きた痕跡もお墓もないなんて。そんなの、ものすごくむなしい……」
「ええ。とてもむなしいことだわ。でもね、それは魔神族だけのことじゃない。人間もそう。あなたの世界の人間も、動物も。そして、どの異世界に存在するものたちも。生きとし生きるものは、たとえどれだけ長い時間を生きようが、いつかは死ななければならない。何の痕跡も残さずに。気が滅入るくらいにむなしいことだわ。どれだけ美しかろうが、かわいかろうが、りっぱな業績を残そうが、歴史に名を残そうが、皆、そう。結局は、むなしく消え去って行かねばならないのに、それでも生きなければならぬ私たち……。それはたぶん、すべての人が悩んで答えが出ない、過去から未来永劫まで続く永遠の問いにもなっている。でもね。その人に関わった人たちは、その人の生きた証を持つことが出来るわ。それは、その人の子孫であったり、芸術であったり、研究であったり……そして……」
アーデリーズは、七都の頭に手を乗せ、それから、七都の鎖骨あたりにも手を置いた。
彼女の手の重みと冷たいあたたかさが、伝わってくる。
「証はここにもある。あなたの記憶と心の中に。二人の姿は永遠に刻まれているわ」
「記憶と心の中に……」
「それが二人が生きた証よ。最後の言葉を受け取れば、もっと鮮明に刻まれたんでしょうけどね。でもあなたはまだ若いから、きっと彼女たちのことは強く刻まれているはずだわ。彼女たちの姿、声。話したこと。覚えているでしょう?」
「うん。一生忘れないよ……」
機械の馬に乗って、あの遺跡に颯爽と登場した、メーベルル。
その姿には思わず恐怖を感じ、立ちすくんでしまった。だが、美しかった。
剣で襲ってきたメーベルル。仮面を脱いだメーベルル。手のひらの傷を治してくれた彼女。
リュシフィンのところに連れて行くと申し出てくれた彼女。
ユードに二度も剣を浴びせられ、倒れてしまった彼女。
そして、太陽に焼かれ、溶けてしまった彼女――。
イデュアル――。
あなたのことも忘れない。
最初会ったとき、ベッドに横たわっている私を花で飾ってくれたね。
ダンスをたたきこんでくれたあなた。
闇の中での二人だけの舞踏会は、疲れたけど、楽しかったよ。
あなたとの鬼ごっこは正直怖かったけれど、スリルと迫力満点だった。
ランジェを死出の供として連れ去り、キスをして殺してしまったあなた。
そして、わたしに抱きしめられたまま、太陽に焼かれて消えてしまったあなた……。
絶対に、忘れないよ……。
「あなたが生きている限り、彼女たちの生きた証は、あなたの中にあるのよ。時々、二人を思い出してあげなさい。あなたの記憶の中の二人を大切にしてあげて。それがわたしたち魔神族の悼み方よ」
「うん……」
七都は、何度も頷いた。
気がつくと、頬が濡れていた。
それは、人間のときのような熱い液体ではなかったが、二人を悼むには十分にあたたかい、魔神族の涙だった。
アーデリーズが、七都の両肩に、力強く手を乗せる。
「夜が明けたら、発ちなさい、ナナト。太陽と共に。魔の領域の外では、わたしたちが生きられるのは夜の闇の中だけど、ここでは太陽が道しるべになるわ。光を浴びて、砂漠に戻るといい」
彼女が言った。
「あなたはリュシフィンに会いに風の都へ。スウェンと私は、水の都に行くわ。キディアスに案内してもらってね。シルヴェリスに腕を届けるために」
「ナイジェルの機械の腕……。出来たんだね」
「まだ試作段階だけどね。付けられそうだったら、付けてみるわ。細かい調整は、あとから出来るし」
「ありがとう、エルフルドさま!」
「アーデリーズ!!」
彼女は、鋭い金色の目で七都を睨んだが、その目は笑っていた。




