第7章 刻まれた時間 1
二人の少女が、こちらを向いて微笑んでいた。
輝く金色のやわらかい髪。そして、穏やかな湖のような銀の瞳。
同じ顔をしたその少女たちは、色違いの同じドレスを着て、抱き合っていた。
ふざけあっているのかもしれない。
きゃあきゃあという彼女たちの笑い声が、今にも聞こえてきそうな気がする。
だが、聞こえない。静かだ。
少女たちの微笑みは止められ、ふざけあっているはずのその手も頭も、微動だにしなかった。
二人の周りに咲く白い花はみずみずしくはあったが、彼女たちの頭上から降り注ぐ明るい光と同じように、永遠の沈黙の中に塗り込められていた。
けれども、彼女たちの過ごす世界では、音は溢れ、太陽は廻り、花々は風に揺れ、彼女たちはふざけ続けるのだ。
この子達、知ってる……。
ぼんやりと七都は思う。
七都が知っているその人物たち。
彼女たちは、その少女たちほど若い姿ではなかった。
けれども、彼女たちだ。間違いない。
少女たちと七都の間に、誰かがすうっと割って入る。
アーデリーズが、やさしい目で七都を見下ろしていた。
もう魔貴族の男性の衣装ではなく、いつものような、長く美しいドレスをまとっている。
それは、魔の領域の空の色と同じラベンダー色だった。
「エルフルドさま……?」
アーデリーズは七都の額に、そっと手を乗せる。
「とうとう、エディシルを取られてしまったね、ジエルフォートさまに」
アーデリーズが言った。
「あなたがあの水槽から出たときから、狙っていたものね。いつかやるとは思ってたけど……」
七都は、起き上がる。
頭が、がんがんした。
その鈍い痛みに、七都は思わず顔をしかめる。
視界が真っ赤になって、それからの記憶がない。
ここはどこだっけ?
赤いドレスは着てはいなかった。頭も軽くなっている。
結い上げられていた髪は下ろされ、宝石で出来た蝶の飾りは、取りはずされていた。
今着ているのは、薄い布で作った、クリーム色のドレス。
薔薇のつぼみのような、かわいいデザインだった。
首には淡いピンク色の小さな宝石がいくつも下がった、繊細なネックレス。おそろいのブレスレットも、腕に巻きついている。付けていることが負担にならぬくらいの、軽いアクセサリーだった。
七都はその衣装のまま、ベッドの上に寝かされていた。
落ち着いた深いグリーンの天蓋で覆われた、ぜいたくな雰囲気のベッド――。
天蓋からは、透明な宝石のビーズで作られた蜘蛛の巣のような飾りが、垂れ下がってきらめいている。
「ああ、ここ、私の部屋よ。地の都の屋敷に戻ってきたの。あなたを運んだのは、もちろんキディアス。舞踏会は、とうにお開き。みんな帰途についたってわけ」
アーデリーズが説明する。
「わたし、舞踏会の途中で倒れちゃったの? ……ジュネスに悪いことしてしまったかもしれない」
「気にすることないわ。魔王にエディシルを取られて平気でいられる魔神族なんて、そうそういないから」
それからアーデリーズは、七都を覗き込んだ。
「スウェンったら。我慢できなかったのね。あなたが目の前で踊ってたものだから、つい味見してみたくなったんでしょう」
やっぱり、カツオブシだ。白い雄猫の前で赤いドレスを着て踊る、カツオブシ。
猫の立場としては、無視出来るわけがない……。
七都は、溜め息をつく。
「わたしを襲ったグリアモスも言ってた……。今のわたしくらいの年代の魔貴族の姫君が、最高のご馳走だって」
「あら、そうなの?」
アーデリーズは、七都を覗き込んだまま、にっと笑う。
「じゃあ、わたしも一口いただこうかしら?」
「アーデリーズっっ!!」
「あは、冗談だってば。泣きそうな顔しないでよ」
アーデリーズは、七都の肩を包み込むように腕を回した。そして、指差す。
「御覧なさい。あれをあなたに見せたかったの」
そこには、あの少女たちがいた。
同じ顔をした、二人の美しい少女。
薄紅と薄青のドレスを着た彼女たちは、七都に微笑みかける。
長方形に平たく区切られた、けれども、奥行きのある空間が広がる、向こう側の世界から――。
それは、一枚の絵だった。
少しフィルターがかかったような、やわらかいタッチで描かれた絵。
画家のあたたかい人柄が、どこかに感じられるような……。
「メーベルル……?」
七都は、呟く。
「そう。どちらかが、メーベルル。若い頃の姿を描いたものよ」
アーデリーズが言った。
「右の子だ。たぶん、そっちがメーベルル」
七都は、薄紅の服の少女を指差した。
「あら、わかるの?」
「うん、なんとなく」
きっとそうだ。
彼女たちは、静と動。
ドレスの色のせいでそう見えるのかもしれない。
だが、同じ笑顔でありながら、微妙に違うその表情。
七都がメーベルルだと思った少女は、屈託のない明るい笑顔だった。それは、猫の仮面を脱いだ後に七都に見せてくれた、あの笑顔とも重なり合う。
それに対してもう一人の少女は、静かで穏やかな笑顔。
ちょっとはにかんだような、何となく隣のメーベルルに遠慮しているような、そんな表情。
太陽と月。対照的な笑顔だった。
七都はベッドから降り、壁に立てかけられているその絵に近づいた。
そして、絵に触れぬように注意しながら、少女の姿のメーベルルをなぞってみる。
「その絵は、ヴェルセル公爵……イデュアルの父親が描いたものよ」
アーデリーズが言う。
「イデュアルのお父さんが……」
「彼は絵を描くのが趣味だったから、屋敷は彼の描いた大量の絵で溢れていたわ。もう彼の屋敷も、そんな絵ごと取り壊されてしまったけれど」
「イデュアルの住んでいたお屋敷は、もうないの……?」
アーデリーズは、寂しそうに頷いた。
イデュアルが生まれ、育った家。それさえも、もう残ってはいないのだ。
太陽に溶けてしまった彼女と同じように、後には何も残らない。彼女が生きた痕跡さえも。
七都は、指にはめた銀の竜の指輪を見つめる。それは沈黙を守ったまま、赤い宝石を抱えていた。
今となっては、これが、彼女が存在したという唯一の印……。
「屋敷が取り壊される前に、気に入った絵を何点か運んできたの。でも、部屋に飾る気にはなれないわ。いつも部屋の隅に、壁に向けて立ててある。見るとつらくなってしまうから」
アーデリーズが言った。
「これは、その中のひとつ。公爵家の居間に飾られていたわ。ヴェルセル公爵が若い頃に描いたものよ。きっとその頃から、メーベルルと親交があったんでしょうね」
「アーデリーズ。このもう一人の子は誰? メーベルルと同じ顔をした子……」
「わからないわ。彼女の姉妹なのか、親戚なのか。あるいは母親とかね。魔神族は、どんな年齢にでも変われるから」
「でも、わたし、この子に会ったの。会ったというか、正確には、窓際に立っているのを見たんだけど……。闇の魔王さまの機械の船に乗ってた。もちろんこの絵のような歳の女の子じゃなくて、メーベルルと同じくらいの、大人の女性だった」
「ハーセルの船に?」
アーデリーズが、眉を寄せる。
「とても悲しい顔をしていた。見ているわたしのほうが、胸が痛くなるくらい……」
「ハーセルは、よほど親しいものでないと、自分の船には乗せないらしいけど」
アーデリーズが七都の横に並んで、その絵を見下ろした。
「じゃあ、ハーセルさまと関係のある人なんだね」
「かもね。だけど、そろそろハーセルにも、一度会っておかなきゃならないわね」
アーデリーズが呟く。
「ジエルフォートさま以外の他の魔王さまに、会ったことないんだっけ、アーデリーズ」
「そうよ。会議に出たことないもの。だから、シルヴェリスに会う手はずを整えてくれたあなたには、感謝しなくちゃね。もっとも、近いうちに召集がかけられるでしょうから、全員に会えるわけだけれど。でも、その前に会ってみるのもいいと思うわ。リュシフィンにもね」
アーデリーズは七都を見つめて、ふっと笑った。
「スウェンと私がリュシフィンに会いに行く頃には、あなたは元の世界に戻ってしまってるんでしょうけどね」
「うん、たぶん。でも、またこちらに来るよ。扉の開け方もわかってるもの」
「無理しなくていいわよ。あなたは元の世界の生活を大切にすべきだわ」
「でも、絶対、また来るよ」
七都は、もうひとりの少女を指でなぞった。
あなたは誰?
いつか、あなたにも会える?
そして、メーベルルのこと、お話できる?
「わたし、この人に会いたい……。ううん、会わなくちゃって思う」
「私は、あまりすすめないわ。彼女に会うことを」
アーデリーズが、真面目な顔をして言った。




