第6章 銀の城の舞踏会 5
その男装の麗人は、七都を見つめていた。
赤い炎の目が揺れる。
笑っている?
その人物は、猫の仮面にゆっくりと手を伸ばす。
七都は息を呑んだ。
「メーベルル……?」
もう一度、七都は、確かめるように、彼女の名を呼んだ。
「別に、メーベルルの真似をしたわけじゃないんだけどね」
仮面が、取り外される。
その下からは、金色の目が現れた。
オレンジ色がかった、濃い金の目。金色の目を持つ地の魔神族の中でも、特徴のある目だ。
その見覚えのある目は、七都を親しげに見下ろした。
「悪かったわね、ナナト。メーベルルじゃなくて」
彼女が、微笑んだ。いたずらっぽい表情で。
「こういう衣装にすると、どうしても似てしまうね」
「エルフルドさま!!!」
アーデリーズが、そこに立っていた。
赤い髪を金に染め、いつもの長いドレスではなく、魔貴族の男性の衣装で。
ただ額には、シンプルなデザインにまとまった金の冠がはめられている。
ラーディアが困ったような複雑な顔つきをしていたのは、このせいだったのだ。
エスコートしてくれたのは、最初聞いていたキディアスではなく、彼女が仕えている地の魔王エルフルド。
ラーディアは嬉しかったに違いない。だが、相当戸惑ったということも、容易に想像がつく。
そこにいるのがメーベルルではなかったことに、七都は正直、安堵する。
そうだ。彼女は、もういないのだ。
それは彼女が亡くなってから、ずっと胸に抱き続けている、動かしようもない記憶。
受け入れなければならない真実なのだ。
それが覆るなら、今までのこの世界での出来事も体験も、全部ひっくり返ってしまう。そんな気さえする。
「もうっ、ナナト! ちょっと油断すると、すぐ『エルフルドさま』になるんだから」
アーデリーズが、七都を睨んだ。
エルフルドさま?
エルフルドさまですって?
ざわざわと魔貴族たちの間に、張り詰めた緊張の波が広がっていく。
それはゆっくりと疑問から驚愕、そしておそれへと変化して行った。
いつの間にか、音楽も止まっている。
「もといアーデリーズ。なんで? なんでそんな格好をしてるの?」
「なぜって? もちろん、あなたと踊るためよ」
アーデリーズが、当然のように答えた。
「わたしと?」
七都は唖然として、男装の彼女を見つめる。
「あなたと、そして、ラーディアと踊るためだわ」
アーデリーズが隣のラーディアのほうを向く。ラーディアは、うっとりとアーデリーズを見上げた。
「イデュアルは、魔王と踊るのが夢だったそうね。つまり、本当は私と踊りたかった……」
七都は、頷く。
「そう。あなたに憧れていたから。でも、あなたと踊るのは難しいって言ってた。たぶん、女性同士だからって意味で……」
「だから、私が男装したわけ。これなら一緒に踊れるでしょう?」
アーデリーズが、ふふっと笑う。
「ナナトさま。イデュアルの代わりに、私たちが魔王さまと踊りましょう。今はもういないあの子の分も……」
ラーディアが言う。
<ナナト。美しく着飾って、魔王さまたちと踊ってね>
イデュアルが笑いながら、耳元でささやいたような気がした。
<きっと上手に踊れるわ。私があれだけ教えたんだもの……>
うん。イデュアル。そうだね。
あなたは、踊り方をみっちり教えてくれたものね。手抜きして上手に見えるコツもね。
「しかし、エルフルド。きみがそういう衣装だと、私と踊れないではないか」
アーデリーズとラーディアの背後から、声がした。
よく通る、涼やかな声。
もちろん、聞き覚えのある声だった。
七都は、はっとして、彼女たちの後ろの空間を眺める。
そこには、二人の人物が立っていた。
背の高い白い影と、その影にエスコートされた、黒い影。
ジエルフォートとキディアスだった。
「ジエルフォートさま!!」
ジュネスが、驚いて叫ぶ。
ジエルフォートさま?
まさか、ジエルフォートさまがここに?
いや、間違いなく、ジエルフォートさまだ!
魔貴族たちに、動揺が広がる。
もちろん彼らは、地の魔王エルフルドは知らなくても、光の魔王ジエルフォートは知っていた。自分たちの王なのだ。
ジュネスの親しい知り合いならば、ジエルフォートを子供の頃から知っている者も多いかもしれなかった。
「ああ、ジエルフォートさま。嬉しいです。あなたが私の城に来てくださるなんて……。しかも、そちらはエルフルドさまなのですね? こんな光栄なことはありません」
ジュネスが、丁寧に挨拶をする。
魔貴族たちも、いっせいに頭を下げた。
「ここに来るのは、子供の頃以来だな」
ジエルフォートは、ジュネスに微笑み、頷いた。
彼は、白いマントをまとっていた。
マントの中の衣装も、真っ白。
装飾品は、額に輝く金の冠だけだったが、豪華な冠はそれだけで十分彼の素性と身分を明らかにし、同時に彼の美しさを引き立てていた。
もちろん、アーデリーズがデザインして、ジエルフォートが冠の形を変えたに違いなかった。
「彼に頼まれたの。ナナトの踊る姿が見たいから、一緒に舞踏会に行ってくれって」
アーデリーズが言った。それから彼女は、あきれたように少し肩をすくめて見せる。
「見たいんじゃなくて、あなたと踊りたかったみたいだけど」
「二人とも、舞踏会がお嫌いじゃなかったんですか?」
七都が訊ねると二人の魔王は、いたずら好きな子供たちのように、ちらっと見詰め合って微笑んだ。
「好きじゃないわ。でも、あなたと舞踏会に出てみるのもいいかなって思ったわけ。それに、表向きはそういうことにしておかないと、舞踏会のお誘いが山ほど来るじゃない? ぞっとするわ」
アーデリーズが、笑う。
「きっと他の魔王たちだって、こっそりと舞踏会に出席してるに違いないわ」
「ここに来たのも、この舞踏会が親しい者たちだけで構成される、小さな規模のものだからだ。ジュネスの知り合いは、私の知り合いでもあるしね」
ジエルフォートが言った。
それから彼は、アーデリーズのほうに向き直る。
「ナナトとも踊りたかったが、きみとも踊りたかったのに。きみは男装なんかしてしまって。この背の高さでは、私が女性のドレスを着るわけにもいかないじゃないか」
「あら。あなたとは、きのう踊ったじゃない、ナナトの部屋で。とても素敵だったわ。ねえ、ナナト?」
アーデリーズは、にっこりと意味ありげに笑いながら、七都に同意を求めた。
う。まただ……。
七都は、思わずうつむいた。
エルフルドさま、なんでわたしに振ってくる!?
「あはは。相変わらず、かわいいね、ナナト」
ジエルフォートが、いつものように笑った。
またこの二人におちょくられた……。
七都は、溜め息をついた。
それから、ジエルフォートの隣に、控えめに立っているキディアスに近づく。
キディアスは、先程、出かける前に七都が見かけた服装ではなかった。
黒地に銀の縫い取りをした、丈の長い衣装を身に付けている。
ラーディアのドレスに負けず劣らずのきらびやかなものだったが、そのかっちりとした衣装は、スカートにも見えた。
頭には、宝石と羽のついた飾り。小脇に、まるで銀色のハンドバッグか何かのように、無造作にストーフィを抱えている。
アヌヴィムの輪を額にはめたストーフィは、白い毛皮のコートをまとっていた。
毛先が銀色の、白いグリアモスのときのカーラジルトによく似た毛で出来ている。首のところには、薄紫の透明な宝石が真ん中に納まった、見事な細工のブローチ。
「ストーフィも正装して、舞踏会に来たんだね」
「一緒に来たそうにしていたから、連れてきました。エルフルドさまが衣装も用意してくださいましたので」
キディアスが説明した。
「キディアス……」
七都は、しげしげと彼を眺める。
「えーと。もしかしてキディアス、女装してるの?」
七都が質問すると、彼はキッと七都を睨んだ。
「これは、女装ではありませんっ!」
「女装に見える……」
「魔貴族の少年の衣装です、舞踏会用の。男性、女性、どちらとも踊れるように。本当は、もっと若い姿のものの衣装なのですが、エルフルドさまのご命令で着ております」
「そうなんだ……。でも、妙に似合う……」
「それは、褒めておられるのですか?」
キディアスが、じろっと七都を見る。
「も、もちろん。素敵だよ、キディ」
「キディ?」
キディアスが眉を寄せた。
「あ、ごめんなさい。ナイジェルがそう呼んでるんでしょ? わたしも、たまに呼んでいい?」
「……まあ、よろしいでしょう。ナナトさまは、シルヴェリスさまのお妃になられる方なのですから」
彼は、しぶしぶという感じで認めてくれた。
「では、音楽を! 踊りましょう、皆さん」
ジュネスが合図をし、演奏が再び始まった。
七都は、アーデリーズの前に立つ。
「踊ってくださいますか、エルフルドさま?」
「アーデリーズだってば」
彼女は、訂正する。
「いいえ。その格好では、やっぱりエルフルドさまとお呼びしますよ」
アーデリーズは、差し出された七都の手を握った。
女性にしては背の高さがある彼女は、正体を隠したままならば、魔貴族の美しい若者として十分通用するだろう。メーベルルがそうであったように。
「ジュネス。あなたは、ラーディアと踊ってあげて」
アーデリーズがジュネスに言うと、ラーディアは、はにかんで頬を染めた。
「どうぞ、ラーディア」
ジュネスは、ラーディアの手を取って、やさしく引き寄せる。
「きょうのあなたは、素晴らしい。ラーディア、あなたは、女官をされているとはいえ、侯爵家の姫君だそうですね」
ラーディアは、こくりと頷いた。
「で、私はきみと踊るのか?」
ジエルフォートが、キディアスを見下ろした。
「おいやですか? この曲が終わったら、次はナナトさまかラーディアさんと踊られればよろしいですよ」
キディアスが、少し気を悪くしたように言った。
「まあ、いいだろう。きみも美しい少年なのだから。そうそう、あとでエディシルをいただこうかな。踊るとやはり疲れるから、たっぷりとね。きみのエディシルは、とても美味だった」
ジエルフォートが、キディアスの耳元でささやく。
キディアス、固まってる……。
ジエルフォートさまに何か言われたのかな。
七都は、ジエルフォートに手をひかれて、アンドロイドのようにぎこちなく広間の真ん中に進み出るキディアスを眺めた。
ストーフィは、楽器を演奏している人々のところに移動し、横笛担当の魔貴族の膝に、ちょこんと座る。
人々は、かわいらしいその仕草に歓声を上げ、笑い合った。
そして七都は、地の魔王エルフルド――アーデリーズと一緒に、リズムに合わせて、滑らかに足を踏み出す――。
ねえ、イデュアル、見て。
わたし、今、魔王さまと踊ってるの。
あなたが憧れていたエルフルドさまとだよ。
わたしと踊るために、わざわざ男装してくれたの。
見てるよ、ナナト。
だから、私、あなたに踊り方を教えたんだよ。
あなたはきっと、魔王さまと舞踏会で踊ることになるって思ったもの。
とても素敵。
あなたも、エルフルドさまも……。
七都は、踊る。
どこか遠いところから注がれる、イデュアルの眼差しを確かに感じながら。
そして、ふと思う。
もし、あのとき、ユードがあの遺跡にいなかったら――。
そうだったら、もちろん、メーベルルに会うことになっていただろう。あんな出会い方ではなく、もっと穏やかで平和な出会い方で。
そして自分は、何者にも邪魔されることなく、あの機械の馬に乗せられ、風の都に連れて行かれただろう。
もしそうなっていたら……。
メーベルルともどこかの舞踏会で、こんなふうに踊っていたのかもしれない。
「そんなにメーベルルに似てる?」
アーデリーズが、自分の顔をじっと見つめながら踊り続ける七都に、笑って訊ねた。
「うん。雰囲気が似てる」
「彼女、いつも男装していたものね」
「ねえ、エルフルドさま。メーベルルを知ってる?」
七都は、彼女に訊ねる。
もっと早くにこの質問はしておくべきだったかもしれない。そう思いながら。
考えてみれば、知っていて当然だ。イデュアルはメーベルルのことを話していたのだから。
なぜ今まで聞かなかったんだろう。
「何度か見かけたことはある。彼女、イデュアルの父親とは親しくしていたようね。でも、私の城にも屋敷にも、来ることはなかったわ。遠慮されていたのか、怖れられていたのか。こういう性格だから、避けてたのかもね。まあ、私も、彼女を呼ぶことはなかったけど。でも、いつか話をしてみようとは思ってた。思ってるだけじゃなくて、お話すればよかったね。まさか彼女がいなくなるなんて、考えてもみなかった」
アーデリーズが、ふっと寂しげに微笑んだ。
「メーベルルは、わたしのために死んでしまったようなものなの。私を守るために魔神狩人に殺されて……」
七都が言いかけると、アーデリーズは七都の唇に指を置く。そして、首を振った。
「だめよ。そうやって自分を責めては。それが彼女の運命だった。あなたのせいじゃないし、あなたが責めを負うことじゃない」
「……うん」
そしてアーデリーズは、軽やかに踊りながら、七都に訊ねる。白いマントが、ひらひらと舞った。
「ナナト。メーベルルに会いたい?」
「会いたいよ。でも、彼女にはもう会えない」
「会えるわ。屋敷に戻ったら、わたしの部屋においでなさい」
アーデリーズが言った。
「どういうこと? メーベルルは、もういないんだよ」
「そうね。彼女は亡くなった。でも彼女の生きた証は、いろんなところに刻まれている。残された私たちは、それをたどれるのよ」
それから彼女は、ジュネスとラーディアのほうをちらりと眺める。二人は、とても楽しそうに踊っていた。
相変わらずはにかんでいるラーディアを、ジュネスがうまくリードしている。彼らは時々見つめあい、微笑みあった。
「あの二人、いい雰囲気ね。くっつけちゃおうか。光の王族と、地の魔貴族の侯爵家の姫君。申し分のない組み合わせだわ」
アーデリーズが、いたずらっぽく笑ってみせた。




