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第1章 砂の中の猫 6

 焼き菓子のかけらを口の中に入れた途端、言いようのない吐き気が突き上げてくる。

 まずい? そんな……。

 それは、とても焼き菓子を食べているような感覚ではなかった。

 ぞっとするような舌触りの、妙に甘い腐りかけたスポンジ。その表面に細かく砕いた虫の羽根がたくさんくっついている――。そんな感じだ。

 それを食べてはいけない。すぐに体から出さなければならない。

 悪夢のようなその酷いまずさは、七都にそう告げているようだった。

 そのまずさは、似通ったところがあった。セージが試食用にくれた、あのプチトマトのような果物だか野菜だかの実と。

 あれはまだ水分を含んでいたので、何とか飲み込めた。

 だが、これは水分がない分、口の中にしつこく張り付いたままだ。

 これは……。

 これは、もしかして人間の食べ物? 魔神族の食べ物じゃない?

 アヌヴィムが焼いていたのは、アヌヴィム自身のためのお菓子……?

 七都が人間の血を引いているということで、気を利かせて、わざわざ人間の食べ物を出してくれたのかもしれなかった。

 意地悪やいやがらせなどではない、と信じたい。

 でも、わたしには食べられない……。

 七都は、口を押さえる。

 これをここで吐き出したりなんかしたら……。

 おそらく、彼らの礼儀に反する。それはきっと、魔貴族の前ではしてはいけないことだ。

 魔貴族じゃなくても、元の世界でだって、例えば七都が好意でお客に出したお菓子を目の前で吐き出されたりなんかしたら、悲しいに違いないし、腹立たしくなるかもしれないのだ。

 だが、飲み込むことも出来なかった。

 涙が目からじんわりと湧き出てくる。あまりのまずさと情けなさに。


 七都の前に、水の入ったガラスコップを持った銀の腕が伸びてきた。

 グリアモスだった。

 相変わらず無表情だったが、七都を心配してくれているようだ。

 七都は水を受け取り、それを口に含んだ。

 そして、違和感のある物質を水に混ぜて、無理やり飲み込む。

 七都は、むせてうずくまった。

 苦しい……。

 七都は、咳き込んだ。

 咳き込むごとに、涙が勝手に流れ出す。

 ストーフィと呼ばれた猫ロボットの一匹が、グリアモスの膝から降りて、七都のそばに来る。

 ストーフィは、七都の背中をやさしく撫でてくれた。丸い金属の手なので、撫でるというより、マッサージされているような感じだ。けれども七都は、そのやさしさが嬉しかった。


「食べられないの……? 人間の食べ物が? 父親が人間なのに……?」


 アーデリーズが、半ば愕然として言った。かなりショックを受けているようだ。

 白い顔がますます白く透き通るようになり、青ざめていく。


「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのに……」


 アーデリーズが、消え入るように呟いた。心からすまなく思っている。それが伝わってくる。

 じゃあ、やっぱり、この焼き菓子は人間の食べ物?

 少し落ち着いた七都は、顔を上げる。

 メンバーが全員、七都を心配げに見つめていた。


「だいじょうぶですか?」


 グランディール卿が訊ねる。


「だ、だいじょうぶです……」


 あまりだいじょうぶでもなかったが、七都は一応答えておく。

 口の中も焼き菓子が納まった胸も、吐き気で溢れそうだ。気を緩めると、きっと喉を駆け上がってくるに違いなかった。


「あきれた子ね。何で食べちゃうのよ? 人間の食べ物を受け付けないってこと、自分で知ってたんでしょう? 人間の物だってわかった時点で、食べちゃだめじゃない。しかも吐き出さずに飲み込んだりして。馬鹿じゃないの。当分体調悪いわよ」


 アーデリーズが、怒ったように七都に言った。

 誰かにこんなふうに怒られるなんて、ここんとこなかったかもしれない。

 吐き気を抑えながら、七都は思った。

 最近は優等生をやっているから、先生にはもちろん怒られることはないし、父や果林さんも七都をそんな感じで叱ることはなかった。

 もちろん、叱られるようなことは、のっけからやらないのだが。

 彼女は、悪い人ではないようだ。七都は直感的に感じ取る。

 ちょっと性格に問題あり、というところはあるかもしれないけど、本気でわたしのことを心配してくれている……。


「だって……おいしそうだったもの、見た目は。それに、毒も入ってなかった……。人間の食べ物だってことは、知りませんでした……」


 七都は、答えた。

 声がきれいに出ない。焼き菓子のかけらが、喉のどこかに引っかかっている。


「あなたを信用したから、口に入れたんですよ。飲み込んだのは、あなに対する礼儀でしょう」


 グランディール卿が、たしなめるようにアーデリーズに言った。


「そう……。でも、馬鹿な子だわ」


 アーデリーズが、短い溜め息をついた。


「しかし、人間の食べ物が食べられないとは。そこはエルフルドさまとは違うのですね」


 エクト卿が言う。


「エルフルドさまは……人間の食べ物を食べられるのですか?」


 七都は、思わず訊ねた。

 声のかすれが少し直ってきている。吐き気は、まだ胸のあたりにわだかまっていたが。


「そういうことね」


 アーデリーズが言った。少し冷たげに。


「じゃあ、人間からエディシルをもらわなくても生きていけるんですよね……」


「そうね」と、アーデリーズ。


「うらやましいです……。わたしもそうだったら……」


 七都は、呟いた。


「うらやましい、ですって?」


 アーデリーズが眉を寄せ、金色の目を七都に向ける。

 きみがうらやましい……。

 ナイジェルもそう言ったっけ。

 ナイジェルも人間の血を引いているのに、その体は魔神族。太陽の下では体を保てない。

 そして、エルフルドは、七都よりもさらに人間に近いらしい。七都が出来ないことを彼は出来るようだ。魔神族なのに、人間の食べ物を摂取出来る――。

 わたしもそういう体だったのなら……。

 人間を襲いたくなる衝動を感じることもなく、エディシルの少なさを抱えることもなく、この世界にいられるのに……。


「でも、ここは人間の世界じゃないの。魔の領域。魔神族の世界だわ。そこまで人間に似てしまったのは、あの人の不幸よ」


 アーデリーズが七都に言った。

 地の魔王エルフルドのことを『あの人』だなんて。

 アーデリーズは、いったい何者なのだろう。彼女はエルフルドの近しい存在なのだろうか。

 七都は、真正面に座っている美しい貴婦人を見つめた。


 アーデリーズは、突然、すっと立ち上がる。


「お茶会は、おしまい。あなたたちもご苦労だったわね。無理に付き合わせて悪かったわ。もう帰ってもいいわよ」


 アーデリーズが両隣の魔貴族たちに告げると、彼らは丁寧にお辞儀をした。

 七都は彼らに、どこか安堵したような表情を一瞬垣間見たような気がした。

 二人の姿は、席から同時に消え失せる。

 華やいだ魔貴族二人を失って、お茶会はたちまち寂しくなった。

 アーデリーズは、濃い金色の目で、七都を真っ直ぐ見つめた。


「ナナト、私の屋敷に来ない? あなたには悪いことをしてしまったから、お詫びをさせてもらいたいわ」

「い、いいです。お詫びなんて……」

「あら、遠慮しなくていいのよ」

「遠慮します。わたしも、このままお別れさせていただきます」


 七都が言った瞬間、アーデリーズが七都の隣にいた。不必要なくらいの至近距離だった。


「つれないこと言うのね。ますます屋敷に来てもらいたくなったわ。ぜひおいでなさい。あなたは少し休憩したほうがよくてよ。何か食べなきゃ。砂だらけのそのかわいそうな体も、休ませてあげないといけないわ」


 アーデリーズは、にっこり笑って、七都を見下ろした。

 メーベルル……。

 七都はその微笑に、忘れられない人の面影を重ねる。

 アーデリーズはメーベルルと見た目の年齢も同じくらいだし、背格好もよく似た感じだった。


「人間の血を引く、風の魔神族の強情なお姫さま。あなたの顔には、『私は無理してます』って言葉が書いてあるわよ」


 アーデリーズは、七都をやさしく、そっと抱きしめる。


「あ、あの……」


 その時、グリアモスとストーフィたちが、砂の中にゆっくりと吸い込まれた。

 相変わらずの無表情な顔のまま、身動きもせずに、彼らは白い砂の下に消えて行く。

 テーブルと椅子も、砂の中に沈みつつあった。

 そして七都とアーデリーズにも、砂が迫っていた。小さな竜巻のように砂が舞い上がり、七都たちを包み込む。

 七都は、悲鳴をあげた。


「だいじょうぶよ」


 アーデリーズがささやき、さらに強く七都を抱きしめる。

 ほのかな体温が、妙に懐かしかった。

 彼女に抱きしめられると、安心感がある。このまま彼女に包まれていたい。素直にそう思ってしまえるような、やすらぎ。

 お母さんもこんな感じなのかな……。

 七都は目を閉じ、彼女にしがみついた。

 砂が、アーデリーズと七都を覆い尽くす。


 やがて砂漠からは、お茶会が完全に消え去った。

 そのメンバーも、テーブルも椅子も。すべて砂の中に、痕跡もなく飲み込まれてしまう。

 後にはただ、白い砂の丘と、その表面を吹き渡る透明な風――。

 そしてラベンダー色の天のドームを、太陽がゆっくりと気だるげに廻って行くだけだった。

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