第5章 二人の使者 13
「一曲で十分ですよ。あなたは美しく着飾って、そこにいてくださるだけでいい」と、ジュネス。
「……ってか、その舞踏会、いつですか?」
そうだ。そっちのほうが重要だ。
「十日後です」
「十日……」
七都はその助数詞を、確認するように呟いた。
完璧に、アウト。
やっぱりね。縁がなかったんだ、舞踏会。
ほっとすると同時に、少し惜しい気もする。
「ごめんなさい、ジュネス。十日後なんて無理です。私、もう怪我が治ったので、間もなく風の都に出発します。そして、リュシフィンさまに会ったら、すぐに元の世界に帰らなければなりません。たぶん、あなたのお誕生会が開かれている頃には、元の世界にいると思います」
その頃は、きっと自分の部屋で机に向かって、夏休みの宿題を必死でやってる。
そして、もちろん、そうなってなきゃならない。
わたしの本来の世界はそこで、わたしの本当の生活はそこにあるのだもの。
でも、行ってみたかった、舞踏会……。
子供の頃から、そういうのに憧れていた。
きれいなドレスを着て、宝石を付けて。
当然アーデリーズのことだから、ナナトの衣装は私が用意するわよって、頼まなくても言ってくれそうなのに。
そしてもちろん、彼女の選ぶドレスと宝石は、すばらしいものに違いないだろうに。
「そうなのですか、それは残念です。非常に残念だ……」
ジュネスが、寂しそうにうなだれる。
「すればいい。十日後のきみの誕生会とは別のものを、ナナトが風の都に行ってしまう前に。たとえば明日の晩にでもね。ナナトの快気祝いでも、歓迎会でも送迎会でも、理由はいくらでもあるだろう」
背後から、よく通る、聞き慣れた声がした。
キディアスとジュネスが、はっとしてその声のほうを注視する。二人の顔に、ぴりりとした緊張感が走った。
ジエルフォートが、そこに――ガラスの木のオブジェの前に、白い仙人のように立っていた。
「ジエルフォートさま!」
キディアスもジュネスも、優雅に、そして完璧なポーズで、深く頭を下げていた。
七都も、ぎこちなく会釈する。
え。もう部屋から出てきちゃったの、ジエルフォートさま。
アーデリーズは?
ジエルフォートは七都の視線を無視して、ジュネスに引き続き言った。
「それとも、明日の晩では、準備が出来ないかな? どうせ魔貴族はヒマなやつが多いのだから、きみの親しい身内くらいは集まるだろう? ナナトも舞踏会は初めてみたいだから、あまり大規模なものでないほうがいいだろうしね」
七都は、彼をしげしげと眺めた。
まるで何事もなかったかのようだ、ジエルフォートさま。
いつもと同じように喋ってるし、表情だっていつもと変わらない。
アーデリーズと愛し合っていたなんて、これっぽちも想像出来ない。
これがオトナの演技力?
それとも、特にびっくりするようなことでもなく、まったくもって、当たり前のこと?
「ええ。その点はだいじょうぶです。みんな、そういう行事を好みますからね。すぐに集まるでしょう」
ジュネスが答えた。
それから彼は、少しためらうように、ジエルフォートに申し出る。
「ジエルフォートさま。あなたもおいでになりませんか?」
ジエルフォートは、笑って首を振った。
「誘うだけ無駄だ。私はそういうものに興味がないし、決して出ることはない。きみも知っているだろう」
ジュネスは、七都が彼の誕生会の誘いを断ったときよりも、さらに寂しそうな顔をした。
「私の誕生会も、毎年お誘いしているのに、来て下さったことがありませんね。子供のときはよく……」
「ジュネス。きみも、子供のときのように、私をもう本名では呼んでくれないじゃないか?」
ジュネスは、黙り込む。
ジエルフォートは、七都のほうを向いた。
「ああ、別に踊れないわけじゃないぞ」
「訊いてませんっ。ところで、ジエルフォートさま。アーデリーズは?」
七都は、先ほどから胸のあたりにつかえていた質問を彼にぶつけてみる。
ジエルフォートさま。もう少し、アーデリーズのそばにいてあげたらいいのに。
ほったらかして、出てきてしまったの?
「きみのベッドで眠っているよ。疲れたみたいだね」
それから彼は、七都に、にやりと笑ってみせた。
「それなりに、激しい運動をさせてしまったからね」
う……。
七都は、うつむきそうになる。
は、はずかしいからごまかしたって?
絶対にウソだ、キディアス。
わざとだ。カンペキにからかわれている。
でも、負けないっ。
けれども、魔王たちの下ネタおちょくり攻撃に対抗するには、年齢と経験が足りなさ過ぎる。
七都は、「はいはい」という感じでにっこりと微笑もうとしたが、明らかに顔は引きつっていた。
「ははっ、かわいいね、ナナト」
ジエルフォートが七都の反応を見て、満足そうに笑う。
やっぱり……。
全身から力が抜けた。
「で、でも、ジエルフォートさま。たとえ眠っていたとしても、アーデリーズのそばにもう少しいてあげても……」
七都が言うと、ジエルフォートは不思議そうに七都を見つめた。
「なぜ? アーデリーズには、これからも、いつでも会える。毎日でもね。だけどきみは違う。今度いつ会えるかもわからない。もう二度と会えないということもあり得る。きみは元の世界に帰ってしまって、こちらに来ることはないのかもしれない。だから、来た。ジュネスとの面会に立ち会いたい、というのもあったしね」
確かに。さすがに理系男子。
やはり、もっともで、筋の通ったことをジエルフォートは言う。
だが、アーデリーズは、ほったらかしにされて、寂しくないのだろうか。
七都は、思う。よけいなことかもしれないのだが。
目が覚めたとき、そばにジエルフォートさまがいなかったら。
なんか女の人って、そういうことすごく気にするって……ドラマとかでよくそんなシーンがあるし……。
「では、ナナトさま。明日の晩なら、出席していただけますか?」
ジュネスが七都に訊ねた。
「あ、はい……。正直、ちょっと不安なんですけど」
「だいじょうぶですよ、私がお守り致しますから」
ジュネス、やさしい。
なんて頼もしいことを言ってくれるんだろう。
ジュネスって、絶対に女の子を下ネタでからかったりしないタイプだよね。安心してお話が出来る。
それに比べて……。
七都に睨まれたジエルフォートは、七都の視線を無視し、涼しげな顔をして、そこに立っていた。
「では、明日の晩、お迎えに参ります、姫君」
ジュネスが言った。
「ありがとうございます」
七都はそれから、ジュネスに知らせておかなければならないことがあったのを思い出す。
それは、とても大切なことだ。
「ジュネス。あのう、わたし、あなたに知っておいてもらわなければならないことが……」
「シャルディンのことですね?」
ジュネスが言って、頷いた。
「ご存知なんですか? その、彼がわたしの……」
「やはり、あなたのアヌヴィムになったのですね? 彼の元気な姿を見かけたものがいるのです。ですから、また誰かのアヌヴィムになったのだと……。そしてあの時、そういうことが可能なのは、あなたしかいなかった。違いますか?」
ジュネスが確認するように、七都に訊ねた。
「はい。彼を助けたかったんです」
「ありがとう、ナナト。彼を助けて下さって。私も彼をあのまま死なせてしまうには忍びなかった。もっとも、私は彼を助けてやれなかったのですから、今さらそういうことを口にするのもおこがましいが」
「あなたにも、あなたの立場があったのですから。シャルディンも、あなたのことを恨んではいません。それどころか、今でも慕っていると思います」
ジュネスは、嬉しそうに微笑んだ。
「そう言ってくださると、心が軽くなります。しかし、ナナト。あの状態で彼をアヌヴィムにしたのですか? 相当きつかったのでは……」
「ええ。きつかったです。怪我がひどくなってしまいました」
ジュネスは、再び七都の手を取る。
「あなたは、とても強い姫君なのですね。別の世界から来られたというのに。たったひとりで人間たちの住む世界を通り、この魔の領域に無事に入って来られた。ひどい怪我を抱えながらも、アヌヴィムを作り、魔王さま方に口づけの印をいただいて……」
強いって……。
ジュネスにそう言われて、七都は悲しくなった。
違う。違うよ、ジュネス。
あなたはわかっていない。
強くなんかない。
気を張っているだけ。
崩れそうになる心をごまかして、なだめすかして、ここにこうして、かろうじて立っているだけ。
ちょっと振り向いたら……少し足元を見てしまったら、動けなくなってしまう。
もう、そろそろ限界なんだ。
風の城に着いてリュシフィンさまに会ったら、わたし、きっと倒れてしまう。
本当は、それくらい、参ってるのに……。
ジュネスは、七都の思いを知らぬげに、もう一度七都の手に唇をつけた。
「じゃあ、ジュネス。そろそろ帰ろうか。エルフルドは眠っているから、彼女との謁見は中止だ。この屋敷の外も散策してみたかったのだが、それはまた別の機会にしよう」
ジエルフォートが言った。
「ジエルフォートさま。またこちらに……アーデリーズに会いに来てくださいますか?」
七都が訊ねると、彼は機嫌よく頷く。
「そうしたいね。もちろん、また正体を隠してね」
もう正体をばらして、堂々と来ればいいのに。
七都は思ったが、黙っていた。
「では、ナナト。元気で。リュシフィンによろしく。いずれまた会いに行くと、伝えておいてくれたまえ」
キディアスがお辞儀をしたので、七都も再び会釈する。
二人の姿は、客間から、霧のように消え失せた。
そして、扉の向こう側に二人分の足音が響き、それは次第に遠ざかって行く。
彼らは、再びあの黒い扉を開けて、光の都に帰るのだろう。扉を隔てたところにある、ジエルフォートの白い研究室に。
「では、一曲は踊れるのですね、ナナトさまは」
客間が静かになると、キディアスが七都に言った。
「イデュアルに教えてもらったの。あなたはあの城の中に来て、見ていたのでは?」
七都が幾分冷ややかに言うと、キディアスは首を振る。
「あの城には、さすがに入れませんでした。黄色の花に阻まれて。あの公爵家の姫君は、恐ろしい魔力の持ち主でしたよ」
「そうだね……」
七都は、胸のあたりに溜まってきそうになる感情を押さえつけて、呟いた。
「では、もう一曲、私がお教えしましょう。一曲より二曲踊れるほうがいいに決まっています。ついでに、お辞儀の仕方も。明日の晩までに、覚えていただきますよ」
キディアスが、にっと笑う。
「えっ。今から?」
「もちろんです。時間はあまりありませんからね。ナナトさまは、もう怪我も完治されてますし、健康そのもの。私なんぞよりもお元気だ。容赦はしません。ああ、ラーディアさんにどこか練習できる場所を貸してもらえるよう、お願いしなければ」
『超ドS』のキディアス・デフィーエ伯爵は、ストーフィを抱きしめながら、弾むような声で、とても嬉しそうに言った。
七都は、うんざりして天井を見上げ、深い深い溜め息をつく――。




