第5章 二人の使者 8
「そうなったらそうなったで、覚悟を決められるというものだ。告白なんて生ぬるいことじゃなくてね。すべてが大きく変わるだろう。彼女との関係も、これからの生活も」
「それをきっかけにして、アーデリーズといきなり結婚するってことですか?」
「彼女が了承してくれればね」
「そ、そんなの……せこいですっ!!」
七都は、思わず叫んだ。
「せ、セコイ……?」
ジエルフォートがびっくり目で、七都のセリフを繰り返す。
しまった。魔王さまに向かって、『せこい』などと口走ってしまった。
七都は、両手で口を押さえた。
けれども、彼には言わなければならない。アーデリーズのために。
七都は口から手をはずして、ジエルフォートに向き直った。
「そんなの卑怯です。女性の発情に便乗しようなんて。自分では何もせずにっ!」
「そうかな。それはそれで、いいきっかけになると思うが。私の定まらない気持ちも、それで固まるだろうしね」
と、ジエルフォート。
子供っぽいんじゃない。オトナのズルさだ。
七都は、顔をしかめた。
「しかし、アーデリーズは発情しない。もう、長い付き合いになるんだがね。一切そういう兆候もない。人間の血が濃すぎたんだね、きっと。これからも発情はしないだろう」
「じゃあ、どうするんですか?」
「何もしないよ。今までと同じだ」
「そんなの、ひどいですっ!!!」
ジエルフォートは、苦笑した。
姫君、本日二度目の『ひどい』だね。そんな顔つきをしている。
「では、私にどうしろと?」
「その……。告白するのがお気に召さないのなら、態度で示すとか」
「態度?」
「さりげなく抱きしめてみるとか……」
「そんなことしたら、張り倒される」
「張り倒したりしませんよ。嬉しいはずです」
「いつもアーデリーズと顔を合わせたときは、軽く抱き合って、挨拶をしている。そのときにでも、押し倒したらいいのかな」
「だめですっ!!!」
七都は、くわっと口を開けて叫ぶ。
まったく。
このマッドサイエンティスト、なんてことを言うのだ。
「女性は、雰囲気を大切にするんです。いきなりそんなこと、だめですってば」
「めんどうくさいな」
ジエルフォートが、溜め息まじりに呟いた。
「やっぱり、何もせずに、いつものように仕事の話をしているほうが楽そうだ」
「そういうことじゃ、何も変わりません」
「別に変えなくてもいい。我々魔神族には、消化しきれないほどの時間が、たっぷりとあるのだから」
今度は、七都が溜め息をつく番だった。
人間とは比べ物にならないくらいの長い時間を生きる魔神族。しかも、若い体と心のままで。
感覚が違うのかもしれない。
特に何かにあせることも、差し迫って何かをしなければならない必然性も、人間ほどにはないのかもしれなかった。
「でも、まあ。きみがそう言ってくれるのなら。これも一つのきっかけかもしれないな」
ジエルフォートの姿が、目の前からかき消えた。
「え?」
ふと横を見ると、彼は七都の横に立っていた。しかも、かなりの至近距離で。
ジエルフォートは七都にやさしく腕を回し、七都を立たせた。
ストーフィが鏡をしっかりと持ったまま、オパール色の丸い目で二人を見上げる。
「こんな感じで抱きしめればいいのか?」
ジエルフォートは、七都の頭を包み込むようにして、抱き寄せる。
「ジエルフォートさま。抱きしめる相手が違ってますけど」
「きみは本当に、おもしろい子だね」
ジエルフォートが笑った。
「そんなふうに私に意見するなどと。アーデリーズくらいかな。いや、彼女でさえそこまで言ったりはしない。彼女は私の性格に関しては、一線を引いて、あきらめているところがあるからね。一緒にここに来た私の幼なじみは、子供の頃はよく私にくってかかったりしていたが、今はそういうことはしてくれない」
「それは、あなたが魔王さまだから……」
「そうだね……」
ジエルフォートは、七都の顔に両手を添える。そして、じっと七都を見下ろした。
瞳が大きくなっているのが、どこか不自然で無気味だった。
「きみは、実に美しい。そのドレスも宝石も、とてもよく似合っているよ。やはりアーデリーズの感覚と趣味は、すばらしいね」
「ジエルフォートさまっ!」
ジエルフォートの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
やっぱり、カツオブシか……。
もう、抵抗する気にもなれなかった。
七都は覚悟を決め、目を閉じる。
いいや。少しくらい魔王さまにエディシルを食べられても。
キディアスみたいにへろへろにされるのは、正直、やなんだけど。
だがジエルフォートは、七都の口ではなく額に、自分の唇を付けた。
彼の唇が押し付けられた七都の額には、白銀に輝く印が刻まれる。
「ジエルフォートさま?」
その時、寝室の扉が勢いよく開いた。
波打つ鮮やかな赤い髪が、扉の周囲の空間をきりりと引き締める。
アーデリーズだった。
はかり知れない存在感で、彼女はそこに立っていた。
彼女は、抱き合っているジエルフォートと七都を見て、金色の目を大きく開ける。
ストーフィが、抱えていた鏡をぽろりと落とした。
鏡は甲高い場違いな音をたてて、床の上で回転した。
鏡が静止して音が消えると、気まずい沈黙が降りて来る――。
部屋全体が――居間の空気も、調度品も、そこにあるものはすべてアーデリーズを見つめ、息をひそめていた。
まずい。
誤解される――!
なんて言い訳しよう。
ええっと。落ち着け。
アーデリーズ、これは練習なの。
ジエルフォートさまが、あなたの代わりに、わたしを抱きしめてるだけなの。
本当は、ジエルフォートさまが抱きしめたいのは、あなたなんだよ。
七都はあせったが、アーデリーズは、七都が心配した誤解はしていないようだった。
彼女の注意は、別のところに向けられていた。あるいは、自分で無意識にそうしたのかもしれなかったが。
彼女は眉をしかめ、ジエルフォートを睨んだ。そして、彼に言う。
「なんであなたまで、ナナトの額に印を付けるのよ? どういう意味を持つか、わかってそうされたんでしょうねえ、ジエルフォートさま?」
七都は、額に手を触れた。
今のキスって……。
じゃあ、ナイジェルやアーデリーズがしてくれたキスと同じってこと?
ジエルフォートさまの口づけの印が、わたしの額に?
「きみが付けていたから。そして、リュシフィンも、シルヴェリスもね。だったら、私も付けるまでさ。私もナナトのことが、とても気に入ったからね」
アーデリーズは肩をすくめる。そして、七都に微笑みかけた。
「四人目ね、ナナト。あなたの額には、四人の魔王の印がある。これは、とんでもないことよ」
「そうだね。全くとんでもないことだよ」
ジエルフォートが同意した。
四つの口づけのあと。
四人の魔王。リュシフィン、シルヴェリス、エルフルド、そしてジエルフォート。
七人の魔王のうちの四人の口づけの印が、自分の額にある。
考えただけで、沈んで行きそうだ。
四人の魔王さまに、マーキングされてしまった……。
でも、これは、自分の力になる。
この先またこの世界に来て、ここで動くときには、きっと助けてくれる。
だって、なんせ魔王さまのキスの印なんだもの。
愛されているという印。大切に思われているという紋章。これは、宝物だ。
アーデリーズは、ジエルフォートから引き剥がすようにして、七都を抱きしめた。
「ナナト。本当によかった。元気になって」
「エルフルドさま……」
「アーデリーズだってば! ほんとにもう、何回言わせるのよっ」
アーデリーズが、七都を睨んだ。
「あんなにひどい怪我をしていたなんて、信じられないくらい。もう傷のあともないしね。きれいな体だわ。うっとりするくらいよ」
きれいな体って……。
アーデリーズもやっぱり、シャルディンみたいに、鑑賞しながらドレスを着せてくれたわけか。
七都は、はずかしくなる。
だが、すぐれた美的センスを持っているアーデリーズに褒められると、嬉しかった。
「アーデリーズ。ありがとう。わたしが眠っている間、ずっとそばにいてくれたんでしょう? あなたも疲れているのに。それに、このドレスも……」
「あなたのお母さまに言われたってこともあるからね。この子をお願いねって。だから、地の都にあなたがいるうちは、私はあなたを気にかける」
「お母さんが……」
「ナナト。あなたのお母さまって何者なのよ? 幽霊?」
七都は、アーデリーズの質問に首を振った。
「知らない。わたしも知りたい。でも、幽霊じゃないことは確かだよ。なんで幽体離脱してるのかわからないけど……」
「でも、まあ、我々に関係のある方だということは、ほぼ間違いないね。私も会ってみたかったな」
ジエルフォートが言った。「ところで、エルフルドさま。私も抱きしめてほしいんだけどね」
「は?」
アーデリーズが、じろりとジエルフォートを眺める。
う。突然何を言い出すんだ、ジエルフォートさま。
女性は雰囲気が大事だって言ったのに……。
七都は、頭を抱えたくなる。




