第5章 二人の使者 7
二人は寝室から出て、静かに扉を閉めた。
眠っているアーデリーズの姿が、扉の向こうに隠れてしまう。
ジエルフォートは、扉がぴったりと閉まるまで、彼女をいとおしげに見つめていた。
七都は、彼のその整った横顔を黙って見上げる。
ジエルフォートは、七都をゆっくりと誘導して、椅子に座らせてくれた。
テーブルの上には、カトゥースのお茶のセットが置いてあった。
虹色に光る陶器のポットと、何種類かのカップ。博物館か美術館に並んでいそうな、見事な食器だ。
ラーディア、あるいはアーデリーズが用意しておいてくれたのだろう。
七都は、ポットの蓋を取ってみた。
熱いカトゥースの香りがそこから漂う。
さすが魔神族のものだけあって、保温機能付きのポットのようだ。
「ジエルフォートさま。カトゥース、飲まれます?」
七都は、ジエルフォートに訊ねてみる。
「いいよ。気を使ってくれなくても」
ジエルフォートが笑った。
「でも、せっかくだから、いただこうかな」
七都は、真っ白い陶器のカップを選んで、カトゥースのお茶を注いだ。
ただ注ぐだけなのに、手が震える。
やはり、魔王さまにお茶を入れている、などと考えてしまうと、必要以上に緊張してしまう。
「ありがとう」
ジエルフォートが七都にお礼を言って、カトゥースの入ったカップに口をつける。
七都は、嬉しかった。
なんとなく、心が穏やかになる。
こんなにきれいで素敵な魔王さまにお茶を入れてあげて、それをおいしそうに飲んでもらっている。
もちろん、用意してくれたのはラーディアかアーデリーズで、七都は単に注いだだけなのだが。
そういえば、わたし、この世界に来てからは、みんながすっかりお姫様扱いしてくれるから、やってもらうばかりで、誰かに何かをしてあげるってこと、あまりなかったかもしれない。
七都は思う。反省をこめて。
たとえお茶を注ぐだけでも、とてもいい気分だった。浮き浮きしてしまう。
「で? 会ってみる?」
ジエルフォートが、カトゥースを飲みながら、七都に訊ねた。
「ジエルフォートさまの幼なじみ……。興味はありますね。会ってみます」
「そう。よかった。彼も喜ぶよ。この部屋の並びにある客間にいる。待ちくたびれてるんじゃないかな。一緒に来た私からも、ほったらかしにされてしまっているわけだから」
それからジエルフォートは、いつのまにか七都にくっついて寝室を出てきていたストーフィを見つける。
ストーフィは、七都の隣に座っていた。両手には、七都が放り出した鏡を持っている。
「今度は鏡か?」
ジエルフォートが、あきれたように呟いた。
「やはり、中を開けて覗いて見る価値はありそうだ。ばらばらに分解してしまおうかな」
ストーフィは、ジエルフォートの恐ろしいセリフを聞いて、七都と椅子の背もたれの間に、頭だけ突っ込んだ。
「ジエルフォートさま。なんでストーフィを際限なくアーデリーズに送るんですか?」
七都は、ストーフィの頭をクッションにして、ジエルフォートに訊ねた。
「賑やかになっていいだろ? 彼女が、この屋敷も城も殺風景で息が詰まるって言うから。こういうものがあっちこっちで動き回っていたら、気がなごむだろうしね。第一、楽しい」
理系男子っぽい答えかもしれない。
筋が通ってるし、もっともな理由……。
でも、ジエルフォートさま。
本当は、別のもっと単純な理由がおありでしょう?
「気がなごむし、楽しいかもしれませんが、それにしても多すぎませんか?」
「一度に沢山出来るからね。大量生産してるんだ。私の研究室に積んでおいても仕方がない。だったら、全部彼女に送るほうがいいだろ?」
「そりゃあ、そうかもしれませんが……」
「なんなら、風の城にも送ってあげようか?」
「け、結構ですっ!!」
七都は、ジエルフォートの申し出を慌てて断った。
『風の魔王リュシフィン様気付 阿由葉七都様』
そういうことで、ストーフィなんかをしこたま送られたら……。
七都は、無数のストーフィに囲まれて途方に暮れているリュシフィンの姿を、おもわず思い浮かべてしまう。
「またまた、拒否された……」
ジエルフォートが、ぼそりと呟いた。
「あのう、ジエルフォートさま」
七都は、ジエルフォートをじっと見上げた。
わたしには関係のないことだし、よけいなおせっかいになっちゃうかもしれないけど。
でも、訊いてみよう。
七都は、決心する。
「ん?」
ジエルフォートが、薄いブルーが溶けた乳白色の目で、七都を見つめ返した。
「ジエルフォートさま。エルフルドさまのこと……いえ、アーデリーズのこと、好きですよね?」
七都は単刀直入に訊いたつもりだったのだが、ジエルフォートは、わざとなのか、それとも天然なのか、別の角度から答えた。
「もちろん。彼女と一緒に仕事をしていると、楽しいよ。いろんな着想を提供してくれるし。彼女といると、さまざまなことがはかどる」
「そういう意味じゃなくて。異性として好きですかって聞いているんです」
ジエルフォートは、びっくりしたように七都を凝視する。
なんだ、天然か。
もしかしてジエルフォートさま、自分で気づいてないの?
七都はあきれて、軽く溜め息をつきたくなる。
だが、ジエルフォートは、とても真面目な表情をした。
そして、少し姿勢を正す。
「好きだよ」
彼が言った。はっきりと、強い口調で。
「やっぱり、そうなんですね」
七都は、嬉しくなった。
じゃあ、じゃあ、両思いなんだ。二人とも、お互いのこと好きなんじゃない。
なんだ。別にわたしがやきもきしなくても、二人の仲は自然に進んで行くよね。
「アーデリーズも、ジエルフォートさまのこと、好きですよ、たぶん」
「そうなのか?」
ジエルフォートは、再び驚いたような顔をする。
あ。それは知らなかったんだ。あらら。
「ジエルフォートさま。告白されたらいいのに」
七都が言うと、ジエルフォートは眉を寄せた。
「告白? 私がか?」
「そうですよ」
「そんなことをしたら、今までの彼女との生活が、壊れてしまうじゃないか」
ジエルフォートが、この上なく真剣な様子で言った。
「は?」
「研究室での彼女との楽しく有意義な時間が、そういうことをすることによって、よそよそしく気まずい、別なものになってしまう。もう今までのようには、彼女と過ごせなくなる」
「だけど、好きなんだったら、自分のお気持ちを伝えられたほうが……」
「告白はしないよ」
ジエルフォートは、七都の言葉を遮って、きっぱりと言った。
「これからも、ずっとね」
「そんなの、ひどい!!!」
七都が叫ぶと、ジエルフォートは目をぱちくりさせて、七都を眺めた。
彼の生涯において、誰かに「ひどい!」などと叫ばれたことが、なかったのかもしれない。
「アーデリーズも、そうかもしれません。あなたとの今の関係を壊したくないって思っているのかも。だけど、本当は、アーデリーズは待ってるんです。あなたが好きだって告白してくれるのを!」
「そんな、まさか……」
ジエルフォートは、くすっと微笑みを浮かべる。
「わ、笑わないでくださいっ!! わたしは、真面目に話してるんですっ! あなたはアーデリーズに告白しなきゃだめです! あなたのほうから言ってあげないと! アーデリーズは一見あんな感じだけど、本当は、とても素直で気弱でやさしい女の子なんですっ」
七都が言うと、彼は慌てて微笑みを消去した。
それから、咳払いをひとつして、七都に向き直る。
「ねえ、ナナト。風の姫君。きみはそんなに私を責め立てるが、では、きみはどうなんだ?」
「え?」
「今まで、誰かに告白したことがある? そういう経験は?」
「な、ないです……」
七都は、うつむいた。
告白したことも、されたこともない。それは事実だ。
「じゃあ、そんなにえらそうに、私に意見をしないでくれるかな」
ジエルフォートは、にやっと笑った。
そうだよね。
今のわたしって、きっとキディアスと同じなんだ。
ナイジェルとわたしの関係に気をもんでいる、キディアスと同じ……。
キディアスが七都に言いたいことは、今七都がジエルフォートに言ったこと、まるっきりそのものかもしれない。
<本当にナナトさまは、おかわいらしいですね……>
あれは、変にこだわりを持って、ナイジェルへの思いをはっきりと行動に移さない七都に対する、彼の嘆きの言葉……。
「きみは簡単に告白すればいい、なんて言うけどね。今まで長年普通に接してきた相手に対してそういうことをするのは、どれだけ勇気がいるか、わかる?」
ジエルフォートが言った。
「実際には、わかりません。推測するしか……」
「かなり必要だよ。そして、その勇気の代償として、失うものが多すぎる」
「だけど……ジエルフォートさまって……わたしよりかなり年上ですよねえ? わたしの父よりも、先生よりも、たぶんわたしが知っているどのお年寄りよりも、何百歳も……」
七都は、目の前に座っている、眩しいくらいの美青年に訊ねた。
「そういうことになるね。きみは別の世界から来たところらしいから、この世界での長命の知り合いも、そう多くはないだろうしね」
ジエルフォートが頷く。
「つまりきみは、実際の年齢に比べて、子供っぽいと言いたいのかな?」
「子供とまでは言いませんが。あなたの悩みは、たぶん、わたしたちの年代のものが遭遇しそうな悩みです。いわば、青少年がぶつかる悩みとういか……」
「やっぱり、子供っぽいと言いたいんじゃないか」
ジエルフォートは、カトゥースを飲み干した。七都は、二杯目を彼のカップに注ぐ。
「外見がこうだからね。中味もそれに応じてそのままだ。何百年たとうが。人間とは違うよ。ま、個人差はあるけどね」
「そういうことになっちゃうんですかね……」
「でも、私も待っているのだよ」
ジエルフォートが静かに呟いた。
「何をですか?」
「アーデリーズが発情するのを」
「はぁぁ!!???」
七都は、思わず椅子から体を起こす。
ストーフィが、七都の背中と椅子の背もたれに挟まれて、じたばたと暴れた。




