第5章 二人の使者 5
ラーディアは扉をたたき、一呼吸置いてから、客間に入った。
そこは、光の都に通じる黒い扉から現れた使者たちを案内した部屋だった。
「カトゥースをお持ちしました」
ラーディアと共に部屋に入った二人の侍女が、テーブルの上にカトゥースのお茶のセットを置く。
部屋の中に、芳しい香りが漂った。
「ありがとうございます」
使者が言う。
客間には、白いフード付きマントをまとったままの使者が一人しかいなかった。
背が高いほうの、よく通る声を持った使者の姿がない。
侍女たちは一礼をして、部屋から下がる。
ラーディアと使者は、客間に二人きりで残される形となった。
「あの……。もう一人の方は……?」
ラーディアが訊ねると、彼は困ったように肩をすくめた。
フードを深く下ろしているので顔は見えないが、かなり恐縮しているような様子だった。
「申し訳ありません。散策に出てしまいました」
「散策……ですか?」
ラーディアは驚いて、金色の目で彼を見つめる。
もちろん、こういう状況で使者の片方が散策に出て行くなど、考えられないことだからだ。
「彼は、子供の頃からそういう性格なのです。興味を持つものを見つけたら、すぐに確かめなくては気が済まないという……」
使者が言った。
「まあ。幼なじみでいらっしゃるの?」
ラーディアが微笑む。
「ええ。彼とはいろんなところで、いろんなことをして遊びましたよ。大人になってからは、あまり会うこともなくなりましたが」
「そうですか。私にも幼なじみはおりましたが……」
ラーディアは、深い紫色の髪をした、美しい少女を思い出す。
「一緒に大人になることは、もう出来なくなりました。だから、ちょっとうらやましいです」
彼は、ラーディアに興味を示したようだった。
フードの奥の目が、たぶんラーディアを真っ直ぐ見つめている。
ラーディアはその視線に緊張したが、それがやさしく穏やかなものであることを感じ取る。
「亡くなられたのですね……」
彼が言った。溜め息混じりに。
彼の言葉と溜め息には、彼が知らないはずの娘の死に対する、深い哀悼がこもっていた。
ラーディアは、嬉しく思う。
「不幸な亡くなり方でした。彼女の最後に立ち会ってくださったのは、ナナトさまです」
「ナナトさまが……」
使者が呟く。
「そういえば、ナナトさまのご様子は? とてもひどい怪我をされているようでしたが、治られたのですよね?」
「ナナトさまをご存知なのですね。ええ。ジエルフォートさまが治してくださったとか。血止めの薬が切れて、大量出血なさったそうですが、本当によかったです。もう私、いつまでもあの方が戻られないから、心配で心配で……。エルフルドさまたちが扉を開けて帰って来られたとき、気が遠くなるくらい安堵致しました……」
ラーディアは、ふと我に返って言葉を切る。
「あ、ごめんなさい。初めて会った方にこんな話を……」
あまりにもやさしい眼差しを感じたので、つい長々と私的なことを話してしまった。
ラーディアは、後悔する。失礼なことをしてしまった。
けれども、彼はラーディアに言った。
「いえ。もしよろしかったら、このまま私に付き合ってくださいませんか? あなたとお話がしたい」
「え……」
「彼もまだ当分帰って来ないようです。ナナトさまはお休みになっておられるということですし、エルフルドさまはお食事のあと、お湯浴みをされておられるのでしょう? ここで長い時間一人で残されるのも、結構つらいですよ」
「あ……。はい。この屋敷に来られるお客様の応対は私の仕事ですので、喜んで……」
ラーディアはそう言ったものの、少し不安げに、フードの奥を見つめる。
彼は、その視線に気づいたようだった。
「ああ、そうですね。あなたには、まだ顔もお見せしていなかった。あなたは気丈に応対してくださったが、もしかして、とても怖い思いをされたのでは? 幽霊のような、見知らぬ白い姿のものが二人、突然扉を開けて現れたのですから」
使者が言う。
「ええ。とても怖かったです」
ラーディアは、素直に答えた。
「それは、申し訳なかったです」
使者は、両手をフードにかけ、それをゆっくりと下ろす。
ラーディアは、白いフードの下から現れた、赤銅色の髪と紫がかった青い目を持つ美しい若者の顔を、頬を染めて眺めた。
七都は、目を開けた。
気分がとてもいい。
今まで枷のように体を縛っていた鈍いだるさは、完全に消えていた。
大きく呼吸をしても、もう妙な圧迫感もない。
息をするのもスムーズだった。何の不安もなく、息が静かに穏やかに呼吸が出来る。
そして、体は羽根のように軽かった。ベッドを少し押しただけで、ふわりと浮き上がりそうだ。
この感覚、どれくらいぶりだろう。
たぶん、いちばん最初にこの世界に来たとき以来だ。
二回目に来てすぐ、グリアモスに襲われたのだから。
七都はそっと、傷があったあたりをさわってみる。
そこには何もなかった。切れ目もくぼみも盛り上がりも。
そういうざわついた不快な違和感は、いっさい感じられない。
なめらかですべすべの肌が、どこまでも続いている。
七都の指は、自分の肌の上を弾むように、そしていとおしむように、滑って行く。
指が、首に近い胸のあたりで何かに触れた。
丸い粒の連なり。それが七都の首に、幾重にもなって巻きついている。
七都は、それをつまみあげた。
「ネックレス……?」
七都は、起き上がった。
やわらかい光を放つ宝石が、首にかけられている。
それは真珠だった。ごく淡いピンクの見事な真珠のネックレスが、胸を飾っている。
そして七都は、自分が、リビングの扉の色によく似たアイスグリーンのドレスを身にまとっていることに気づいた。
レースのような花の透かし模様がある、ふわりとしたドレスだった。胸が大きく開いている。
ドレスの上には、赤紫の光る糸で刺繍がされた透明な銀色のショールがかけられ、七都の上半身をゆったりと覆っていた。
もう傷を気にして、ドレスのデザインを選ばなくてもよくなったんだ。
七都は嬉しかった。
ゼフィーアもアーデリーズも七都のために、傷を隠してくれるようなデザインのドレスを用意してくれていた。
けれども、もうそうしてもらう必要もない。
これからは、どんなデザインのドレスだって着られる。
胸がどれだけ開いていようと、お腹が見えていようと、脇がすとんと開いていようと。
もちろん、あまりきわどいのは、七都の性格上、やはり遠慮はするだろうが。
「これ、エルフルドさま……アーデリーズが着せてくれたのかな」
七都は周囲を見渡して、にっこりと微笑む。
そこに、当のアーデリーズが座っているのを見つけたのだ。
アーデリーズは、眠っていた。
七都のベッドのそばに置いた椅子の背もたれによりかかり、少しうつむいて、目を閉じている。
彼女は、美しかった。
入浴直後で、髪もまだ濡れている状態。
アクセサリーは、冠が形を変えた金の細い輪を額にはめているだけだった。
着ている服も、キャミソールのような簡単で質素なもの。
それでも彼女の肌は、輝く白い陶器のようだった。
赤い髪も、水を含んでいることによって動きのある曲線をたくさん描き、それ自体が衣装か装飾であるかのように、彼女の背中を覆っていた。
金の瞳は、瞼の奥に仕舞われてはいたが、その代わり印象的な赤い睫毛が、彼女の唇とともに、この上なく美しい三角の配分で、艶やかな顔の中にはめ込まれていた。
(エルフルドさま、やっぱりきれい……)
七都は、しばし彼女に見惚れる。
(お風呂上りだから、なんとなく色っぽいし。イデュアルやここの女の子たちが心酔するのも、納得……だな)
七都は、アーデリーズのそばにあったサイドテーブルに、鏡が置かれているのを見つけた。
銀色の丸い鏡で、花の中で戯れる猫の図案が彫刻されている。
七都はそれを両手で持ち、再びベッドに寝転んで、覗き込んでみる。
深い緑がかった黒髪と透明なワインレッドの目の少女が、鏡の中から七都を見つめ返していた。
額には、ネックレスとおそろいの真珠の飾り。エメラルドのような緑の宝石が一粒、中心に垂らされている。
それは、七都の目をより美しく引き立てる役目を果たしていた。
「うん。わたしもきれいだもんね。エルフルドさまには負けるけど」
七都は微笑んで、傷があったところを映してみた。
そして、改めて、それが完璧に治っていることを確認する。
それから七都は真珠のネックレスを鏡に映し、身にまとっているドレスを上から順番に映してみた。
七都のウエストあたりにもたれかかっているストーフィが、たぶんあきれ顔で、その様子を見つめている。
「こういう格好をしてベッドに寝ていたら、眠り姫みたい」
七都は、呟いた。
「でも、王子さまも、今はベッドの中。リハビリ中だものね。眠り姫は自分で起きて動かなきゃ、王子さまには決して会えないんだよね」
七都は鏡をかざして、その中に映る姫君を仰ぎ見る。
「風の城から元の世界に戻る途中、水の都に寄れるかな。もし時間があったらナイジェルに会いに行こう。でも、キディアスに足止めされちゃうかなあ。待ってましたって感じで……。だけど、夏休みに会えなくても、秋には連休もあるんだし。また改めて来ればいいよね」
傷も治ったのだ。風の都までは、今までよりも楽に行けるはずだった。
再び砂漠に出て、真っ直ぐに風の都を目指す。
もう妙なものが出現する心配もない。何の問題もなく、砂漠は渡れる。
瞬間移動を繰り返せば、風の都の入り口には、すぐに到着出来るだろう。
その時、部屋の扉が、ゆらりと動いたような気がした。
七都はベッドに横たわったまま、顔だけ向きを変えて、扉を眺める。
扉を通り抜けて、白い影が七都の寝室にふわりと降り立った。
思わず七都は、鏡を割れるくらいに強く握りしめた。
あせって乱れそうになる呼吸を整える。
落ち着こう。
扉を通り抜けて入ってきたものが何かわからないけど、とにかく少し様子を見よう。
この部屋には魔王さまがいるんだもの。
滅多なことは出来ないよ。
七都は鏡を胸に抱きしめたまま、軽く目を閉じる。
おそらく、鏡を抱きしめたまま眠ってしまった、という構図になっている。
少し不自然だったかもしれない。
いったい何が入ってきたのだろう。
生霊? 幽霊?
わたしにはもう、そういうものは見えないはずなのに。
白い影は、床を滑るように、部屋の真ん中に移動する。
七都は薄く目を開け、影を観察した。
軽い衣擦れの音。
ということは、幽霊でも生霊でもない。生きている人物だ。
白い影は、七都のベッドの横で立ち止まった。
七都は思わず、固く目を閉じる。
くすっと、ごく軽い溜め息のような笑いが、影から聞こえた。
どうやら、『鏡をしっかりと抱きしめたまま眠ってしまった七都』を見て、笑ったらしい。
七都は、目をぱちりと開ける。
白い影は、アーデリーズを覗き込んでいた。




