第5章 二人の使者 4
七都は、キディアスの手の内側を凝視する。
彼の白い手の中に、鈍色の痣のようなものがあった。それは、そのような色の砂を手のひらに塗りつけたようにも見えた。
だが、七都が眺めているうちに、それは次第に変化する。
鈍色は暗さを深め、完全に黒くなってしまう。
手のひらに、暗黒の空間が出来たようだった。
七都の怪我も傷口の中は暗黒だったが、キディアスの痣の中には、細かい粉のようなものが見える。
それは、暗黒の宇宙にぶちまかれた、無数の星々――。
七都は透明な葡萄酒色の目を見開き、キディアスの手のひらを覗き込む。
そのうち暗黒の宇宙の中で、宇宙よりも黒い影が、ゆらりと動いた。
七都は、きゃっと叫んで、後ろに飛びのく。
キディアスの手のひらから、暗黒色の何かが這い出ようとしていた。
キディアスは両手を広げ、硬直したように、立ち尽くしている。そして、自分の手の中から出てこようとしているものを、絶望のこもったような青黒い目で、ただ見下ろしていた。
キディアスの手のひらの暗黒から這い出てきたのは、大きな、真っ黒い虫だった。背中にぐしゃぐしゃの、濡れたような黒い羽根を背負っている。
それは、あっという間に乾いて広がり、蝶の二枚の羽根になった。
黒い蝶が、キディアスの手がさなぎの殻ででもあるかのように、そこから抜け出て現れたのだ。
七都が食料にしている、あの透明な蝶とは似てもにつかぬ、真っ黒の蝶。
それは汚らわしいくらいの生命力に満ち、禍々しさも持ち合わせていた。存在自体に厭わしささえ感じる、不吉な蝶だった。
蝶はキディアスの手のひらから飛び上がり、七都をめがけて突進した。
七都は、悲鳴をあげる。
元の世界で、蝶が苦手だった――。そのことを無理やり思い出させるような、いやらしさだった。
蝶は、七都の額にぴたりと止まる。
七都は、蝶の禍々しい気配、そして、その黒い羽根の中に閉じ込められた悪意を感じ取る。
「やめて、やめてっ!!」
七都は、叫んだ。
「ナナトさま。それは現実のものではありません」
キディアスが、呟いた。憔悴しきったように。
「その蝶は、あなたご自身が作り出したもの。おそらく、あなたが常食にしておられる蝶たちに対する罪悪感が形になったもの」
「わたしが作り出したもの……?」
では、この蝶は、カーラジルトに剣を教えてもらったときに出現した、あのカボチャと同じたぐいのものなのだろうか?
七都はぎゅっと目を閉じ、額に止まっている黒々とした蝶を、おもいっきりはたいた。
手ごたえはない。はたいた手は、確かに何にも触れなかった。
おそるおそる目を開けると、蝶はどこにもいなかった。
だが、キディアスの手のひらからは、また新たなものが這い出ようとしていた。
今度は蝶ではない。
手のひらの暗黒の縁に、細い触角がちらりと見えた。それはゆらゆらと動き、やがて本体を現す。
七都がよく知っている、こげ茶色の虫だった。
果林さんが台所でそれを見つけて固まってしまう、そして猫の姿のナチグロ=ロビンが、それが隙間から出てくるのをただひたすら待ち伏せしている、あの虫――。
七都が大嫌いな虫だった。
その虫が、キディアスの手の中から、ぞろぞろと這い出てくる。
七都は、再び叫び声をあげた。
「いや、助けてっ!」
キディアスは微動だにせず、自分の手のひらから、まるでこげ茶色の液体のように溢れ出す虫をじっと見下ろした。
「あなたが私の手を見ることを望まれたのですよ。あなたが何とかしてくださるべきでしょう」
彼が冷静に呟いた。
キディアスの手のひらから溢れた虫は、ベッドの上をびっしりと埋め尽くした。怖気を震う光景だった。
虫たちにたかられて黒っぽい人形のようになったストーフィは、そこにいるという存在感さえも消されかけていた。
「これも……これも、わたしが作り出したものなの……?」
キディアスは、頷いた。
「この手のひらの痣を覗いた者には、自身の心の闇が見えるらしいです。その者の苦手なもの、嫌いなもの、罪悪感が形を変えたもの。ですが、それを他人にも見えるように具体的な形にして、この中から出したのは、あなたが初めてです。しかも、こんなに大量に……」
キディアスはそう言って、あきれたように、てらてらと光るこげ茶色の虫の大群に取り囲まれている七都を見下ろした。
「あ……」
七都は枕をひっつかみ、目を閉じて、ベッドをはたいた。
手に、虫がぶつかる。
複数の足。薄い羽根。果てがないかのように、手に当たってくる、気絶しそうになるくらいの、その感触。
蝶のときは、そんな感触なんかなかったのに。
違う。違う!
これは全部、自分が作り出したもの。存在しないものだ。
「消えて、消えてえっ!!」
七都は、狂ったようにベッドをはたき続ける。
ふと目を開けると、虫たちは、きれいに消えていた。
七都の下には、元通りの清潔なベッドがあった。
ストーフィも、銀色の体の表面に、縮小された部屋の光景をクリアに映して、ほっとしたように、ベッドの上に寝転んでいる。
キディアスは、溜め息をつく。気の遠くなるような、悲しげな溜め息だった。
自分の手のひらからそういう禍々しいものが溢れ出たのだ。決していい気持ちであるはずがない。
この上もなく不気味な蝶と、ぞっとするようなゴキブリの大群を彼の手から出してしまった。
だが彼は怒りもせず、パニックにもならず、冷静に対応してくれている。
「キディアス……」
七都は彼に近寄って、その手を取った。手のひらには、まだ暗黒の宇宙のかけらが口を開けていた。
キディアスは七都に手を握られて、一瞬体をこわばらせる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
七都は、キディアスの手のひらに唇をつけた。
そこには宇宙の空間など全く感じられなかった。
そこにあったのは、魔神族の少し冷えてはいるが、確かな肌の感触とぬくもり。
キディアスは、七都の口づけを受けた自分の手のひらを見下ろした。それは、元の通りの鈍色の痣に戻っていた。
「ごめんなさい、キディアス……。不愉快な思いをさせて……」
七都は、呟く。
キディアスは七都をやさしく抱き寄せ、その手のひらで七都の頭を撫でた。
「いいんですよ。ナナトさまは、嫌がらせや悪意でされたわけではありませんから。気にしないでください」
とてもやさしい手……。
ナイジェルや、お母さんや、アーデリーズと同じの、心地のいい魔神族の手の感触……。
あやまらなければならないのはわたしのほうなのに。キディアスは、わたしを慰めるように、髪を撫でてくれる……。
「キディアス……。やっぱり、手袋をはめて撫でられるより、こっちのほうが断然いいと思うよ」
七都が言うと、キディアスは微笑んだ。
「魔王さまの冠に触れるとこうなるって……。あなたは、つまり、ナイジェルの冠に触れてしまったってこと?」
「そういうことです。魔神族は人間のように痛みは感じませんが、そのときは感じましたね。生まれて始めて」
「なんでまた、素手でさわっちゃったの?」
「さわらざるを得ない状況でしたので」
キディアスが答えた。どこか遠くを見るような表情をして。
「そうか。きっとナイジェルのためなんだね。彼を助けるためとか、守るためとか……。あなたにとって、それしか理由があり得ないもの」
「そうですね……。それしか理由はありませんでしたね」
「この手は、治らないの?」
「治るどころか、今でも私を蝕み続けていますよ。この暗黒は徐々に私の体の中に広がり、やがて私のすべてが飲み込まれ、ある日突然、私は姿を消すでしょう。もしかしたら、人間よりも短命かもしれません」
「そんな……。キディアス……」
キディアスは、七都を見下ろして、くすっと笑った。
「私を哀れんで、そのような悲しげな顔をなさっておられますけどね、ナナトさま。いつ誰がどうやって逝くかなんて、誰にもわからないことなのです。あなただって、ここから元の世界に戻る途中、魔神狩人に殺されるかもしれない。またグリアモスに襲われるかもしれない。元の世界に戻ったあと、何かの事故に巻き込まれるかもしれません。もしかしたら、私よりもずっと短い寿命なのかもしれないのですよ」
「そりゃあまあ、絶対にそうならない、とは言い切れないけど……」
「ですから、哀れみとか同情とかのややこしい感情は、お持ちになりませんように」
「うん。じゃあ、そう心がける……。それがあなたの希望なら」
キディアスは、頷いた。
それから彼は、七都の髪を撫でながら、ささやくように言う。
「ナナトさま。あなたはね、シルヴェリスさまにとって、とても大切な方なのですよ」
「それは、正妃候補だから? 額に口づけの印をもらったから?」
「いいえ。他にも理由があります。ですので、私はどうしてもあなたに水の都に来ていただきたいのです。そして、シルヴェリスさまの隣の玉座に座っていただきたい」
「そうなる運命ならね。でも、わたし、まだ決められない」
「相変わらず、強情ですね」
「性格だから、仕方ない」
「まあ、そういうところも好きですけどね」
う。キディアスに、好きって言われた……。
喜んでいいのだろうか。
七都は、複雑な気持ちになる。
「では、少しお休みください、ナナトさま。ジエルフォートさまもエルフルドさまも、そうおしゃられたでしょう? あなたには休息が必要ですよ」
キディアスが言った。
「うん……。そうだ、キディアス。あとでお辞儀の仕方を教えて」
「お辞儀……ですか?」
キディアスが、不思議そうに首をかしげる。
「ナイジェルに会う前に、魔王さまらしき方と会ったの。その人にお辞儀をしたんだけど、なぜか笑われた。お辞儀の仕方が、どこかおかしかったんだと思う」
キディアスは、眉をひそめる。
「魔王さまらしき方……ですか。ナナトさまの場合は、軽く腰をかがめる程度でも構わないと思いますよ。どんなお辞儀をされたのですか?」
「どんなって。あなたの真似をして、こうやって……」
七都は手を交差させ、それから横に広げて、キディアスがアーデリーズに対してよく行っているお辞儀を真似してみせる。
「それはね。男性が、女性のかなり位の上の方に対して行う挨拶です。そりゃあ、笑われますよ」
キディアスが言った。笑いを噛み殺している。
「そうなの……」
七都は、憮然として呟いた。
「ナナトさまには、お辞儀や琴の演奏だけでなく、他にもいろんなことを教えてさしあげたいのですがねえ。風の都に行ってしまわれるんですね」
「うん。ごめんなさい。またいつか機会があったら、教えて」
キディアスは、七都を抱えたまま、静かにベッドに横たえる。
だが、その姿勢のまま動かなかった。
じっと至近距離から七都を見下ろしている。
「キディアス?」
七都は、目を見開いた。
「キディアス……!!」
キディアスは、七都の肩をつかみ、ぐっと七都をベッドに押し付けた。
「何するのっ!!」
「私を挑発したのなら、最後まで気を抜いてはいけませんよ」
彼が言った。
「な、何を言って……!!」
「無防備な状態で異性と二人きりでいるときは、それなりの緊張感をお持ちなさい。特に、あまり親しくない男の場合はね。何が起こっても対処できるように、感覚も魔力も、常に研ぎ澄ませておかなければいけません」
キディアスは、七都の頬に触れた。そして、七都の顎に手をかける。
「本当にナナトさまは、おかわいらしい。まるっきり、子猫ですよね」
「キディアスっ!!!」
七都は抵抗しようとしたが、さらにキディアスに押さえつけられてしまった。当然、魔力も封じられている。
キディアスの、いつもより荒い息遣いが、耳のそばに近づいた。
やはり猫は、ずっとカツオブシを狙っていたということなのか。
七都は、ぎゅうっと目を閉じた。
だが、キディアスは七都の手を取り、その手の甲に軽く自分の唇を押し付けた。そして、素早くベッドから立ち上がる。
「キディアス……?」
彼は、笑っていた。
「額に三人の魔王さまの口づけの印がある姫君に、無体なことができるはずもないでしょう? しかもあなたは、私が敬愛するシルヴェリスさまの正妃になられるお方なのですよ。申し上げたでしょう? あなたはシルヴェリスさまにとって、とても大切なお方だと。冗談に決まっているでしょうに」
「キディアス!!!」
七都は、キディアスを睨んだ。
「おやおや。顔を真っ赤にされて。本当にかわいらしい」
キディアスが、ククッと笑う。
「あなたが私をおちょくられたので、そのお返しですよ。ああ、それから、最後まで抵抗するのをやめてはいけませんね。途中であきらめられたでしょう? 私をぶん殴るのではなかったのですか? 私に対する不必要な同情と罪悪感から、エディシルを与えてもいい、などと思われたのかな。全く、相変わらず甘いですね。では、おやすみなさい、ナナトさま。お辞儀の仕方は、あとでちゃんとお教えしますよ」
言い終えるとキディアスは、七都に向かって丁寧に挨拶をした。
先ほど七都が真似をした、その本家本元のお辞儀の仕方だった。
キディアスが出て行ったあと、七都は、深い深い溜め息をつく。
ストーフィが、いつのまにか七都のそばにくっついていた。
七都はストーフィに手を回して、引き寄せる。
「あー、びっくりした。まじで、ちょっと怖かった」
ストーフィが、軽く、こくんと頷いたような気がした。
「きみもびっくりした? そうだよね。真に迫ってたもの」
七都はストーフィを抱きしめて、ベッドに体をゆったりと横たえた。
「でも、考えてみれば、キディアスがわたしに何かするはずもない。何かしたら、それはナイジェルに対する裏切りになるんだもの。そういう点では、却って信頼できる人なのかもしれない」
七都は呟いた。
「だけど、キディアスって、やっぱり、『ドS』だよね。シャルディンは、単にいたずらでおちょくるだけだから、かわいげがあるけど、キディアスは、ほんっとリアルで、怖いもん」
ストーフィが、深く頷いたように見えた。
あれ?
言葉の意味、わかって頷いたの?
「……超ドS」
七都がストーフィに向かって呟くと、ストーフィは、オパール色のまんまるい目で、七都をじとっと見つめ返した。
「ところで、やっぱりきみって、抱き心地が悪いよね。なんせ金属だものね。エルフルドさま……もといアーデリーズに、毛皮のコートとか作ってもらえるよう、頼んでみようか? それか着ぐるみもいいね。ネコ耳付きの。きっとかわいいよ」
ストーフィは、気を悪くしたのか、あきれたのか、それとも、毛皮のコートやネコ耳付きの着ぐるみを身につけている自分を想像したのか、真っ直ぐ天井に視線を止めつけた。
「わたし、しばらく寝るね。休息が必要なんだって。キディアスのおかげで、よく眠れそうだ。おやすみ……」
七都は、目を閉じる。
ストーフィは顔の向きを変え、いとおしげに七都を眺めた。
それから、七都を守るかのように、ぴったりと寄り添った。




