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第5章 二人の使者 3

「私は妹に、シルヴェリスさまのお世話をするよう、申し付けております」


 キディアスが言った。


「ですから、妹があの方の寝室にいても、それは当たり前のこと」

「じゃあ、ナイジェルのベッドの上にいたのも、当たり前のこと?」


 七都は、彼に訊ねた。


 明らかに皮肉が混じっていることが、自分でもわかる。

 本当は、もっと皮肉のパーセンテージを上げて、さらにきつめの質問を浴びせたい衝動にかられた。

『じゃあ、ナイジェルのベッドの上で寝ていたのも当然のことで、あなたの申しつけってことなんだね?』とか何とか。

 けれども、言ってしまってから、七都は少し後悔する。

 だめだ、だめだ、嫉妬しちゃ。

 嫉妬なんてする必要ないのに。

 ナイジェルは、アルセネイアには興味なんかないんだもの。

 なんてわたし、意地の悪い性格なんだろ。

 キディアスは、なんだかんだ言っても、アルセネイアのお兄さんなんだもの。妹がそんなことをしていたなんて、あまり知りたくないかもしれないのに。

 キディアスは、七都の言葉を聞いて、はっとしたようだった。

 呆然としている。というより、固まっている。

 やはり、言ってはいけないことだったのだろうか。

 七都は、反省する。


「アルセネイアが、シルヴェリスさまと……?」


 キディアスは、ベッドの上ではなく、ベッドの中、と受け取ってしまったようだ。

 七都は、慌てて言い直した。


「そ、そういう意味じゃなくてっ。ナイジェルの足元あたりで寝てたの。疲れて眠ってしまったらしいよ」


 そんなわけないと思いながらも、七都はキディアスのために、ナイジェルがかなりノーテンキに解釈した理由を付け加える。

 まったく。またまた何でわたしが、彼女の言い訳をしなきゃなんないんだか。

 七都は、溜め息を飲み込んだ。


「そうですか……」


 キディアスは、安堵したようだった。やはり妹のことは心配なのだ。


「あなたの妹さんって、ナイジェルのこと……」


 七都は、キディアスをじっと見上げた。

 特に彼の表情に変化はない。やぶへびでもなさそうだ。そう判断して、七都は続けた。


「ナイジェルのこと、好きなんじゃない?」


 キディアスは、頷いた。


「お慕いしているようです。ですので、妹にシルヴェリスさまのことを任せるのは少し心配だったのですが、シルヴェリスさまは、あなたのことがお好きなようですしね。妹は相手にはされないでしょう。妹も、まだ発情期ではないので、それでお世話を申し付けたのです」

「発情期って……」


 七都は、握っていたキディアスの手首を、思わず離した。


「もしアルセネイアが発情したら……。ナイジェルが彼女に迫られたら……。そしたら、どうなるの?」


 カーラジルトの言葉が、頭に浮かんでくる。

 発情した女性に迫られたら、応じるしかなくなってしまう。

 それが礼儀というか、義務。慣わしであり、本能……。

 彼は、そう言ったのだ。


「もちろん、妹はその後、シルヴェリスさまの側室ということになるでしょうね。そして月が満ちれば、シルヴェリスさまのお子様を生むことになります」


 キディアスは、無表情に淡々と話した。


「ナイジェルは、抵抗できないってこと?」

「シルヴェリスさまは、たぐいまれなる強い意志と心をお持ちの方ですが、魔神族の男性です。やはり本能には逆らえないでしょう」


 七都はキディアスから離れ、枕を抱えた。ストーフィが、たぶん枕になりたそうな視線で、七都をじっと見る。

 ショックだ。

 やっぱりナイジェルでも、そういうことになっちゃうんだ。


「だから私は、あなたを水の都にすぐにでもお連れしたかったのですよ。シルヴェリスさまと仲良くなっていただきたいと。お二人がたとえ淡い恋にしろ、とにかく思い合っておいでなら、ご婚約されるべきです。悲しい別れを避けるためにも。ナナトさまが、シルヴェリスさまに側室とお子様がいることをご承知で、正妃になられるというなら、別ですけれどね」


 キディアスが言った。


「でも。でも……。そんなの、まだ無理だよ。いきなり婚約だなんて。わたし、まだ高校生になったばかりなんだよ。ナイジェルを好きだってことは認めるけど、だからって、そんなことなんて、まだ早いよ……」


 七都は、枕の中に顔をうずめた。


「コウコウセイ。それが元の世界での、あなたのお立場なのですね。ですが、ここではその常識は通用しません。あなたはこの世界では魔神族であり、風の姫君です。ご婚約でもご結婚でも、何の問題も支障もありません」


 キディアスが言った。


「……」


 七都は、しばらく枕に顔を突っ伏した。それから一つの疑問を思い出して、キディアスに向き直る。


「あなたは、アルセネイアを正妃にしようとは思わなかったの? 彼女がナイジェルのことを好きだって、知っているのに。最初から妹さんを彼のお妃にしたほうが、あなたにとっても何かと……」


 キディアスは、静かに首を振った。


「妹の身分では、正妃にはなれません。王族のどなたかの養女にでもならぬ限りは」

「でも、側室にはなれるでしょう?」

「私は妹には、魔王さまのお妃になるよりも、普通の魔貴族と結婚してもらいたいと思っています。そのほうが妹に合っていますから。侯爵夫人でも、伯爵夫人でもいい。魔貴族の奥方として、平和で穏やかな日々を送ってほしいのです。たった一人の伴侶と、たった一人の妻として。魔王さまの側室になるなど、いらぬ争いに巻き込まれる元です。妹には、そういうものに立ち向かって行く才覚も技量も、さらには度胸もありません」

「じゃあ、わたしには、そういう才覚とか技量とか度胸があるって、あなたは買ってくれているわけ?」


 キディアスは、大きく頷く。


「しかもあなたは、風の王族の姫君。正妃になる資格をお持ちです。立場的にも、お強い。あなたの、したたかで頑固で負けん気の強い性格も、わたしはたいへん頼もしく思っておりますよ」

「それ、褒められてるのかな」


 七都は、眉をしかめた。


「もちろんですとも。ただ、あなたはまだ未熟で、行動も考え方も甘いです。もっと、よりしたたかになっていただかなければ」

「やだ。あなたに指図はされない」


 キディアスは、嬉しそうに笑った。


「シルヴェリスさまと同じことをおっしゃる」

「ナイジェル……。そうだ、ナイジェルは、わたしの姿が見えたの。アルセネイアには見えてなかったけど」


 七都が呟くと、キディアスはますます嬉しそうな顔をする。


「それは、よかったですね。では、シルヴェリスさまとお話されたのですね?」

「うん……。ナイジェル、わたしを抱きしめて、髪を撫でてくれたの。もちろん、わたしには触れられないから、そういう真似をしてくれただけなんだけど」

「そうですか。おやさしいお方ですからね」

「そうだね。魔王さまだなんて、信じられない」

「では、お互いのお気持ちは、確認できたということですね?」


 キディアスが訊ねる。期待がこもった言い方だった。


「確認? 確認って言えるのかな……」

「つまりあなたは、シルヴェリスさまのベッドで、シルヴェリスさまに寄り添って、髪を撫でていただいたのでしょう?」

「まあ、そういうことになるね」

「普通、好きでもない娘と、そういうことはなさいませんよ」

「うん。わたしもそう思う」

「ということは、確認出来たということでしょう。何をご不満に思われているのか」

「だって、ナイジェル、好きだって言ってくれないんだもの」

「は?」


 キディアスが、あんぐりと口を開ける。


「意味がわかりませんね。シルヴェリスさまがおっしゃられなくても、態度でおわかりでしょう?」


 七都は、キディアスを睨んだ。


「態度でわかれなんて、そんなのひどい。ほったらかしだよ。ちゃんと言ってほしい。好きなら好きだって」


 キディアスの顔が崩れ、唇が両側に大きく広がった。

 やがてその唇から、ははははという笑い声がはじける。


「キディアス。殴るよ!」


 七都は拳を握りしめた。


「女の子はね、現実的なの。ちゃんと言葉にして、言ってほしいの。そして、確認したいの。不安を取り除いてほしいの。たった一言、言ってくれたら、それで安心できるの!」

「ナナトさま。なんとかわいらしい」


 キディアスが、笑いを抑えながら、苦しそうに呟いた。


「ではね。今度シルヴェリスさまにお会いしたとき、ちゃんとそう言っておもらいなさい。そして、ベッドでシルヴェリスさまに寄り添って、髪を撫でていただきなさい」

「それは、無理だよ……」


 七都は、力なく呟いた。


「は? なぜですか? またおかしなことをおっしゃる」

「今度会ったときなんて……。あなたが今言ったようなことになるには、もっと段階を踏まなきゃ。いきなりは無理だよ」

「段階?」


 キディアスが首をかしげて、不思議そうな顔をする。


「そういうことって、よっぽど親密にならない限り、出来ることじゃないでしょ? わたしは体から抜け出して、実体のない生霊状態だったから、変に大胆になっちゃって出来ただけで、生身でそういうことなんて、とても出来ない。今度会ったときなんて、たぶん、話をするだけで終わってしまう。その次会ったときも、またその次もね。そんな、髪を撫でてもらえるような状況には、当分ならない」

「…本当におかわいらしいですね、ナナトさまは」


 キディアスが七都の枕元で頬杖をつくようにして、七都をしみじみと見つめた。


「ナナトさまのおっしゃるような状況にならなくても、たとえば今の私だって、あなたの髪は十分撫でられますよ。ほら、こうやって」


 キディアスが手を伸ばし、七都の髪にそっと手の甲で触れる真似をした。


「それに、ナナトさまが身構えなければ、その段階とやらも、かなり省略されると思いますがね」

「無理。身構えるし、省略なんてされたくない」


 キディアスは、あきれたように溜め息をついた。

 七都は、キディアスの手袋をはめた手を間近から見つめる。


「楽器を演奏してたとき、その手袋は、はずしていたよね?」


 キディアスは、宙に浮かせた手をそのままのポーズで、ぴたりと止めた。


「手袋をしていては、琴は弾けませんからね。琴に対しても礼儀を欠きますし」

「わたしに対しては、礼儀は欠かないんだ?」


 キディアスは、にっと笑った。


「よろしいですね、その返し方。誇り高い姫君という感じで。多少、傲慢っぽいですが」

「ごめんなさい……」

「いえ。わたしは、ナナトさまは、もっと傲慢で強い態度を取られるべきだと、常に思っておりますので」


 それから彼は、真面目な表情をする。


「ナナトさまは、シルヴェリスさまの冠に触れられるのですよね」


 キディアスが、確認するように言った。


「うん。前に会ったとき、さわったよ。素手で冠を額にはめてあげたの。彼、びっくりしてた。わたしが平気だったから」

「そりゃあ、びっくりされるでしょうね」


 キディアスが呟く。

 それから彼は、何かの覚悟を決めたように、七都に訊ねた。


「私の手をご覧になりたいですか?」

「うん……。あなたが見せてくれるなら」


 キディアスは、おもむろに、はめていた手袋をはずした。

 左右の黒い手袋が、七都の枕元に置かれる。

 七都は、手袋の下から現れたキディアスの手を見つめた。

 けれども彼の手は、水槽の中から見たのと同じだった。

 琴の弦の上でこまやかに踊っていた、あの白くて細い指。そして、滑らかなラインの手の甲。

 見惚れるくらいの美しい手だった。


「キディアス。やっぱり、きれいな手をしてるよ」


 七都は、彼に言った。

 キディアスは、あらわになった両手を固く握りしめた。


「手袋なんて、する必要ないじゃない。なんで手袋なんてしているの?」

「あなたがご覧になっているのは、手の外側だけです」


 キディアスが言った。


「琴を演奏していたときも、そして今も、ナナトさまからは、手の甲しか見えないでしょう?」

「じゃあ、手のひらが……?」


「御覧なさい。普通の魔神族が魔王さまの冠に触れると、こうなるのです」


 キディアスは言って、自らの手のひらを七都に向かってかざして見せた。

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