第5章 二人の使者 1
地の魔王の一行は、来たときと同じメンバーで、地の都へと通じる黒い扉を通り抜けた。
先頭にグリアモスにエスコートされたアーデリーズ、その後ろに、キディアスに抱えられた七都。ストーフィが最後尾で、ちょこちょことついて行く。
七都は、キディアスの腕の上で、移動していく天井を見上げた。
肌の表面を微かに撫でて行く空気を感じる。
まだ風になっていない、空気の淡い流れ。
それは、とても軽やかだった。
幾分しめっていて、土の匂いが混じっているとはいえ、空気に包まれ、それを体で認識するのは、懐かしい感覚だった。
水の中に浮かんでいるのとは違う、そして、幽体離脱してふわふわと漂っているのとは違う、確実な感覚。
五感が無事に戻ってきている。研ぎ澄まされるくらいに。
七都は、キディアスの腕をつかんでみた。
七都を支えて歩く彼の筋肉の動きと、服を通して伝わってくる低い体温を感じる。
誰かに触れられる。もう通り抜けたりしない。幽霊みたいに。
七都は、そのことが嬉しかった。
「何か?」
キディアスが、至近距離から七都を見下ろした。
「ううん。自分の体に戻れて、それからあの水槽から出られて、よかったなって思って。あなたにもわたしがちゃんと見えるし、こうやってさわれるし……」
七都の唇は、少しずつ動くようになっていた。
自分の口から音が出るのも、何となく気恥ずかしいくらいに嬉しい。
「そうですね。本当によかったです」
にこりともしないで、キディアスが頷いた。
気のせいか、顔が少しこわばっているような感じがする。
七都は、大きなワインレッドの目で、キディアスを見上げた。
「キディアス。またあなたが運んでくれてるね……」
「おいやですか?」
キディアスが訊ねる。わずかに、七都を運んで移動するスピードが遅くなる。
「前ほどいやじゃない」
「それは、よろしゅうございました」
キディアスが前方を見据えて、アンドロイドのように呟いた。
やがて、キディアスは動きを止める。
彼は、七都を静かに横たえた。
七都の下には、ふかふかのベッドがあった。七都が水の中で恋焦がれていたものだ。
そこは、七都が使っていた客間の隣だった。
居間の隣には寝室が併設されていて、洗練された家具も置かれてあった。
窓は固く閉じられているが、部屋の中には閉塞感を覚えさせないくらいの光が溢れている。
香でも炊いたのか、甘く芳しい香りが微かに漂っている。眠りに誘ってくれるような、心地のよい香りだった。
なんていい香りのする、落ち着く部屋なのだろう。
客に対する細かい心遣いがさりげなく感じられるような、素敵な部屋。
おそらく、ラーディアが用意してくれていたに違いない。いつまでたっても帰って来ないアーデリーズと七都を心配して。
「少しお眠りなさいね、ナナト」
アーデリーズが言った。
「あなたは、今までになかったくらいに元気になれるわ。怪我もきれいに治ったのだしね。体もだるくないでしょうし、疲れやすくもならないわ。もう空腹感もないでしょう」
七都は、頷く。
人間のエディシルを摂取することを拒否してきたがために、常に感じていた、乾くような感覚。それは、今の七都の体からは完璧に消えていた。
「ナナト。あなたは今、どれくらい美しく魅力的なのか、全然自覚はないんでしょうね」
アーデリーズが、溜め息まじりに言った。
七都は、みたび体を固くする。
彼女は、何もしないわよ、というふうに七都に微笑んでみせた。
「キディアス。ナナトに悪さをしちゃだめよ。あとで、また来るわね」
アーデリーズはキディアスを一瞥し、グリアモスと共に部屋から出て行った。
キディアスは礼儀正しく頭を垂れ、彼女を見送る。
ストーフィが七都のベッドの上によじのぼり、七都の隣に添い寝をするように、ごろんと横になった。
七都は、ベッドの横に立っているキディアスを眺めた。
水の壁で遮られていない彼は、クリアで存在感があった。
キディアスは振り返り、冬の海の青黒い色の目で七都を見つめ返す。
相変わらずこわばっている、彼の顔。
七都を見つめるのに苦痛を感じているように、そして、罪悪感でも持っているかのように――。
だが、それを端正で無表情なマスクで、覆い隠している。
(この人……。わたしのエディシルを欲しがっている……?)
大好物を目の前に置かれてじっと我慢していたのは、アーデリーズだけではないのだ。
「やっぱり、猫の前に置かれたカツオブシか……」
七都は、少し情けなく思いながら、呟いた。
けれどもキディアスは、自分の立場をわきまえて、我慢をしている。
主人の妃にしようとしている娘からエディシルを無理やり奪い取るなどと、そんなことは彼のプライドが許すはずもない。
従って、そういう点は安心してもいいかもしれない。アーデリーズからも釘をさされたことだし。
「カツオブシとは、何ですか?」
キディアスが、相変わらずの無表情で言った。
「えーと……」
七都はしばらく考え込んだが、すぐに説明するのを放棄する。
異世界の人にカツオブシを説明するどころか、元の世界で「カツオブシとは何か? 詳しく答えよ」などという質問を出されても、お手上げ状態だ。
おそらく、カツオブシのあの形を思い浮かべたまま、「えーと」の連発になってしまう。カツオブシの製造工程も知らないし、だしの取り方だって、あまり知らない。たぶん家庭科で習ったに違いないのだけれど、全く記憶がない。
元の世界に戻ったら、カツオブシのこと調べてみようか。
とはいえ、たぶんその頃には、異世界でそんな質問をされたこと自体、忘れているかもしれない。
「ごめんなさい。説明できません」
七都はキディアスに言った。
それから、彼をじっと見上げる。
彼は、七都から視線をはずさない。おそらく、はずさないのではなく、はずせないのだ。
七都の目から何か光線でも出て、それが彼の目を強制的に留めつけているかのようだった。
七都は、さらに目の奥に入り込むように、彼を見つめた。
静かな暗い海のかけらのような彼の目は、内部では荒れているようだ。
波のようにのたうつ欲望を、彼の理性とプライドが静かに抑え込もうとしている。炎と氷が戦っているかのように。
顔の角度を変えると、彼の手がすぐそばにあるのが見えた。
七都は、キディアスの手袋をはめたその手をつかんでみる。
七都が手に触れた途端、キディアスは、びくりと体を震わせた。
だが彼は、こわばらせた顔を無理やり笑顔にして、七都を見下ろした。そして、やんわりと七都に訊ねる。
「ナナトさま。私を挑発しておられるのですか?」
キディアスは、お辞儀をするような感じで、ベッドにかがみこんだ。
途端に彼の笑顔が消滅する。七都が彼の唇に指を乗せたからだ。
「挑発というより、やっぱり、おちょくってるっていうのが、近いかな」
キディアスは七都の手をやさしくつかみ、彼の唇から指を引き剥がした。
「エルフルドさまは私に、あなたに悪さをしないようにとおっしゃられましたが。あなたが私に悪さをしようとしていらっしゃるわけですか」
キディアスは、眉をしかめて七都を覗き込む。叱る準備をしている顔だった。
どういう小言を口に出すか、言葉を選んでいる最中。そんな感じだ。
「そんなつもりも趣味も、毛の先ほどもないんだけどね」
七都は、引き剥がされた左手を、今度はキディアスの首の後ろに回した。
そして広げた右手を彼の頬に向けて、猫パンチのようにさりげなくやわらかく、それでいて素早くお見舞いしたのだが――。
七都の手は、あっさりとキディアスの手に、ぱしんとつかまれてしまった。彼の頬に到達する、かなり前に。
キディアスは、七都の細い手首をつかんだまま、にやっと笑う。
「甘いですね、ナナトさま。こういう場合は、もっと相手に油断をさせて、引きつけないと。もう少しかわいげに、誘惑するふりをされるとか。まあ、ナナトさまにはまだ無理かと思われますが」
「悔しい……。まだあなたをぶん殴ってなかったのに」
七都が呟くと、キディアスは声を出して笑った。
「そうでしたね。頬はつねられましたけれどね。しかし、今はまだお力が足りないですよ。いかにも弱々しいです。もっとお元気になられてから、おやりなさい」
「じゃあ、そうする……」
戦闘意欲をなくした七都は、キディアスの手を包み込むように、両手で握った。
「あなたの手……。ちゃんとつかめる。もう体に戻ったんだから、それは当たり前なんだけどね。ナイジェルの手、つかめなかった。通り抜けちゃったの。それも当たり前だったんだけど、でもやっぱり、悲しかった……」
「シルヴェリスさまに、会われたのですね?」
キディアスが、驚いたように訊ねた。
どうやら彼は、七都がちゃんとナイジェルのところにたどり着けるかどうか、かなり疑わしく思っていたらしい。
もっともナイジェルのところに行けたのは、たぶん自分の力ではないのだから、彼の推測は正しかったのだ。
「ついでに、あなたの妹さんにも会ったよ。ナイジェルの部屋にいたの」
七都が言うと、キディアスは、さらに驚いた表情をする。
「妹が……?」
彼は黙り込んで、七都を見下ろした。
その目はもちろんアルセネイアの目と同じ、黒曜石のような輝きを持つ、極地の海の暗い青色だった。




