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第4章 光の回廊 18

<時間ダヨ……>


 誰かが、ささやいたような気がした。

 ナイジェルの顔がぼやけ、七都はどこかに引っ張られる。とても強い力で。


(あ、待って……。ナイジェル……)


<お取り込み中のところ申し訳ないんだけど。邪魔なんかしたくないのよ。でも、あなたはもう帰らなきゃいけないわ……>


(お母さん?)


 天蓋のブルーの重なりが視界いっぱいにひろがり、ナイジェルが遠ざかる。

 七都の周囲には、灰色の雲が渦巻いた。

 雲は七都を覆い、ものすごいスピードで流れて行く。

 やがて雲の流れが止まり、その灰色を掻き分けるようにして現れたのは、立体図形でデフォルメされた猫の顔だった。

 アヌヴィムの輪を額にはめた、銀色に輝く機械の猫の顔――。


(ストーフィ?)


 七都は、目を見開く。

 幽体離脱した、漂う意識の目ではなく、生身の目を。

 七都のワインレッドの透明な目に、ストーフィの顔が映る。かなりの大写しで。

 アップになったストーフィが、水槽の壁の外から、七都を見つめていた。

 ストーフィの隣には、アーデリーズがいる。

 彼女はストーフィをかざして、七都に見せるように水槽の壁にくっつけていた。まるでそうやって、銀色の猫のパペットを持っているみたいに。


(エルフルドさま!!)


 アーデリーズは、金色の目で七都を睨んだ。


「ナナト、やっと帰ってきたのね。もう、どこに行ってたのよ。二度と戻って来ないんじゃないかと思ったわ」


(あ……。ごめんなさい、心配かけて。少し長いこと出歩きすぎたかな)


 七都は、素直にあやまる。

 もしかしたら、二度と帰って来られないかもしれなかった。

 そういう恐れは確かにあったのだ。あの銀の扉の中に、うっかり入っていたりなんかしたら。

 アーデリーズは眉をしかめていたが、明らかに安堵しているようだった。

 七都は、嬉しくなる。

 わたしを心配してくれる人がいる。ここにも。

 わたしの帰りを、やきもきしながら待っていてくれた人が……。


「それに、わたしはアーデリーズだからね。何度同じことを言わせるのよ」


 アーデリーズが、ストーフィを水槽の壁に、がしっと押しつける。

 ストーフィは、じたばたと手足を動かした。

 だが、七都に間近から見つめられると、ばつが悪かったのか、すぐにおとなしくなって、手と足をだらりと垂らしてしまった。


「この子、なんとなくあなたに何か言いたそうだったから。あなたが気になってたようだしね。ま、あなたがこうなったのはこの子のせいなんだから、罪悪感でも持ってるんじゃない?」


(ストーフィって、喋るんですか?)


「そういう設定はしていないよ」


 アーデリーズの後ろから、ジエルフォートが現れた。キディアスも一緒にいる。

 あ。キディだ……。

 キディアスは、自分を見て笑いを噛みころしている七都に、怪訝そうな視線をちらりと投げかけた。


「きみが出かけている間、アーデリーズにどれだけ責められたか。私は、そもそもなぜきみを散歩になど行かせてしまったのかと責められ、キディアスは、いったんきみが帰ってきたのに、なぜまた行かせたのかと責められたよ」


 ジエルフォートが言った。


「だって、心配だったのよ。ナナトったら、本物の死体のように水の中を漂っているのだもの。そのまま朽ち果ててしまいそうで、ぞっとしたわ」


 アーデリーズが、むくれる。


(ごめんなさい、皆さん……。わたし、もう、治るまでどこにも行きません。この体から抜け出したりしませんから……)


 七都は恐縮して、再びあやまった。

 となると、変なところに迷い込みそうになったなんて、アーデリーズの前では口が裂けても言っちゃだめってことだね。

 またジエルフォートさまとキディアスが、怒られそうだもの。もちろん、わたしも怒られる……。

 水槽の壁に押し付けられているストーフィが、七都に同意して、深く頷いたような気がする。


「ナナト。今きみがいるこの部屋は、水の壁で囲まれている。きみがここを抜けてしまうまでには、まだ時間がかかるから、ちょっと気晴らしになるものを提供しよう。きみがちゃんとここに帰って来られたお祝いも兼ねてね」


 ジエルフォートが言った。


 七都は、三人が立っている水槽の向こうの景色を眺めた。

 そこは水の壁で囲まれた、こじんまりとした広間のような一室だった。

 装飾が施された柱が何本か並び、七都が浮かんでいる水槽は、柱の間を繋ぐような形で部屋を取り囲んでいた。

 天井は高く、ドーム形になっていて、明るい光がその見事な装飾の間から射し込んでいる。

 降り注ぐ光は部屋全体を淡い銀色に染め、床には、天井の装飾が薄い影となって写った陽だまりを作っていた。

 部屋の真ん中には、ここの雰囲気に合った座り心地のよさそうな椅子が、幾つか置かれている。


「本当に、趣味悪いわよね」


 アーデリーズが、溜め息をつく。


「こんな部屋まで作っちゃって。全く」


 ジエルフォートの先祖は、おそらくこの部屋の真ん中でゆったりとくつろぎながら、あるいは客人と会話をしたりしながら、水の壁の中を漂っていく少年少女を眺め、楽しんでいたのだろう。


 キディアスは、抱えていた蜂蜜色のギターのようなものをジエルフォートとアーデリーズに恭しく差し出した。

 美しい彫刻の入った滑らかな曲線の板に、弦を張ったもの。楽器のようだ。

 和琴をもう少し賑やかなデザインにして、縮めたみたいな形状だった。

 キディアスは、それの一回り大きいサイズのものを自分用に抱え上げる。

 三人は椅子に腰を下ろし、長く伸び上がった猫を抱くような姿勢で、楽器を構えた。

 どうやら七都のために、演奏会を始めてくれるようだ。

 三人から少し離れた椅子に、チョコレート色のグリアモスが膝にストーフィを乗せ、控えめに座っていた。


(皆さん、それ、弾けるんですね。すごい……)


 七都は、呟いた。


「おや、魔貴族なら、たいがい弾けるよ。楽器の二つや三つ、誰だって演奏できるからね」


 ジエルフォートが言った。

 光の魔王さま、当たり前のようにおっしゃるけど……。

 それって、わたしにとっては、すごいことだよ。


「魔神族は、人間よりもはるかに長い時間を生きるからね。しかも若さを保ったまま。つまり暇なのよ。時間をもてあましてる。だから、楽器だって習得できちゃうわけ」


 アーデリーズが説明した。


(わたしも、練習すれば弾けるようになれる?)


「もちろんですとも」


 キディアスが言った。


「リュシフィンさまでも、側近の方でも、どなたにでも習われればよろしいのです。何でしたら、私がお教えしても構いませんが……」


(ありがとう……)


 七都は、にっこりと微笑む。そして、思わず「キディ」と言いそうになるのを押さえ込んだ。

 

 三人は、七都にとっては少々風変わりな琴を弾き始める。

 アーデリーズとジエルフォートの琴は曲のメロディーを奏で、キディアスの琴は控えめに、そして低い音で、二人の伴奏を受け持っていた。

 あるときは唸る風のように激しく。あるときは穏やかな午後の海のように、ゆったりと。

 二人の魔王が奏でる音は、親しげに寄り添い、あるいは遠く離れ、あるいは追いかけっこをするかのように絡み合い、溢れる音を紡いで行く。

 キディアスの冷静な音に先導されながら、高く低く、波のように。

 七都は水の中にたゆたいながら、その音を聞く。

 抑揚のある、元気が出てきそうな曲だった。けれども全体的に穏やかで、うるさくはない。

 七都のためにその曲を選んでくれたのかもしれなかった。


 三人とも、とても素敵。

 七都は、琴を演奏している二人の魔王と一人の魔貴族を眺めた。

 エルフルドさま。ジエルフォートさま。やっぱり尊敬してしまう。

 二人は魔王さまで、さらにデザイナーさんとマッドサイエンティストさんで、おまけに楽器も弾けちゃうなんて。

 あ、もちろん、キディアスも、ちょっとだけ見直したけど。

 七都は、琴を演奏しながら、時々微笑み合っている二人の魔王を見つめた。

 この世界の魔王さまって、わたしが元の世界で持っていた魔王の概念とは、ちょっと違う。

 それは、わたしが人間の側じゃなくて、魔物の側にいるからかもしれないのだけど。

 わたしが会った魔王さまは、みんなやさしい。感情が豊かで、毅然としていて、確かな常識も、みんな持っている。

 ナイジェルだって、エルフルドさまだって、ジエルフォートさまだって、それから、あの番人の魔王さまだって。

 リュシフィンさまとは、まだお話はしていないけど、きっとやさしい人に違いないよ……。


 魔神族は魔力は使えるが、それを悪いことには使っていない。そんな欲もないような感じがする。

 七都は、改めて思う。

 そういう力を使って、この世界や別の世界を征服しようともしない。その気になれば、簡単に出来てしまえるだろうに。央人が言っていたように。

 ただ、食べる物が問題なんだよねー。それから、食べ方も。それの手に入れ方も。

 でも、そういう問題を解決しようとして、アヌヴィムという存在を作ったんだもの。

 基本的に、きっといい人たちなんだ……。

 魔力を使うし、食べ物がとんでもないものだし、お日様に当たったら溶けちゃうから、人間たちから嫌われているだけ。恐ろしい魔物って。

 王様たちは、一族からも<魔王さま>なんて呼ばれてるけど、それって、たぶん、よけいに恐れられる要因になってる……。

 魔王さまたちだって、普通の魔神族と同じなのに。少しレベルアップして、ちょっと進化してしまってるってだけ。

 だけど、そういうふうに思ってしまうのって、やっぱり身内びいきなのかな。


 七都は、二人の魔王から、今度はキディアスに視線を移す。

 やはり琴を弾いているキディアスは、魔王たちの伴奏をしているとはいえ、絵になっていた。

 琴をどこか気だるげに抱えている全体のポーズも、少しかしげた首のラインに髪がふわりとかぶさっているところも、文句なく美しい。

 真剣でひたむきな表情も、魅力的だ。

 キディアス、きっと水の都では、もてるんだろうな。

 あんな感じで琴なんか弾いてたら、絶対に女の子たちが、頬を染めて騒いでるに決まってる。私、あの琴になりたあい、なんてね……。


 七都は、のんびりとキディアスを観察していたが、そのうち彼が琴を弾いている手元を見て、違和感を覚える。

 弦の上を踊るように動いている彼の指は、白くなめらかだった。

 繊細で、長い指。その指の動きに見とれているうちに、七都は気づく。

 そうだ。キディアス、手袋をはめていない!

 キディアスの白い指は、弦をはじき、時には激しくかき鳴らす。

 魔王たちの伴奏をしているせいか、少し緊張しているようだ。

 だが、演奏をすることに慣れた様子のその指は、決して躊躇したり、戸惑ったりすることなく、二つのメロディーをしっかりと導いて行く。

 さすがにあの手袋をはめたままでは、楽器の演奏は出来ない。

 だから、はずしているのだろう。

 だが、そもそも、彼は手袋をする必要があるのだろうか。

 七都は、眉をしかめた。

 なんだ、キディアス。まったく普通の手をしてるんじゃない。

 とてもきれいな手だよ。

 醜いなんて言ってたけど、とんでもない。痣とか傷とか、そんなの全然ないのに。

 何でいつも手袋をはめてるんだろう?


 心地のよいメロディーが、水の中を伝わって流れて行く。

 見えない音符のシャワーを浴びているようだった。

 こんなにきれいに音が聞こえるなんて。

 この水、本当に不思議。魔法の水だものね。当たり前か……。

 しばらく、この水の中にいることを楽しもう。

 七都は思う。

 ここにいられるのも、あと少し。

 酸素ボンベも付けないで、こんなに長い間水の中にいるなんて、そうそう出来ることじゃない。


 七都は、音楽に合わせて体を動かしてみた。

 手を蝶のようにひらひらとさせてみたり、大きくぐるりと回ったり、体をゆっくりと回転させてみたり。

 人魚になった気分だ。

 アーデリーズがそれを見て、少女のように明るく笑う。

 ジエルフォートも琴を演奏しながら、七都の動きを遠慮がちに、だが楽しげに眺めていた。

 キディアスは伴奏に集中していたので、たまたま七都のほうを見ても、全く無表情だった。七都の姿が、その暗いブルーの目にきちんと認識されているのかどうかさえ、怪しい。

 二人の魔王と一緒に演奏しているのだ。しかも音を先導し、まとめる役目を負っている。

 そのことで頭がいっぱいになっていたとしても、それは無理のないことなのかもしれない。

 でも、そのほうがいい。彼の視線を気にせずに、リラックスできる。


(やっぱりキディアスに見られるのは、抵抗があるものね。変な趣味があるし、第一、サドだもん)


 七都は、水の中で大きく手を広げてみる。そして、水槽の外のすばらしい演奏を聴きながら、自分の体にも、しばし耳を澄ませてみる。


 ゆっくりと怪我が治って行く。

 傷口が修復され、塞がって行く。

 現在進行形で、確実に――。

 七都は、はっきりとそう感じた。

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