第4章 光の回廊 16
うわ。ナイジェル、起きてる……。
七都は、あせりまくる。軽くパニックになっている。
まさかナイジェルが、いきなり目を覚ますとは。
予想外だ。心の準備も出来ていない。
えーっと。
取りあえず、挨拶。にっこり笑って。
ナイジェル、久し振り。
あ、でも、久し振りってほど、久しくもないかな。数ヶ月ぶりで再会したわけでもないし。
それか、お辞儀。
やっぱりナイジェルは魔王さまなのだから、当然、お辞儀。
でも、さっきの番人の魔王さまみたいに、笑われたらどうしよう。何かきっと変なお辞儀しちゃったに違いないもの。
どうでもいいことが、頭に渦巻く。
違う違う違う。
それより何より、ナイジェルは、わたしを見てる。
視線の先は、わたしだ。リュシフィンさまみたいに、後ろの何かを見てるわけじゃない。わたしが見えてるんだ。
「ナイジェル。わたしが見えるの? 声が聞こえる?」
七都は、彼に訊ねてみた。
そう。それだ。その質問だ。
挨拶よりも、今いちばんしなければならないことは。
「見えるよ。声も聞こえる」
ナイジェルが言った。ずっと七都に視線を止めつけたまま。
その眼差しは、ジエルフォートやあの番人の若者のように、恐れを感じるほど鋭いものではなかったが、それでも七都は居心地が悪くなってくる。
そんなに見つめられると、戸惑ってしまう。はずかしくなってくるよ、ナイジェル……。
だけど、正直、嬉しい。ナイジェルには、わたしが見えるんだ。
シャルディンにも、ゼフィーアにも、セレウスにも、カーラジルトにも見えなかったのに。
「ナナト、きみ、だいじょうぶなの?」
ナイジェルが訊ねた。
あ。そのセリフ。
わたしが言わなきゃならない言葉なのに、先に言われてしまった。
「もちろん、だいじょうぶだよ。今ね、体は別のところにあるの。ここにいるわたしは、意識だけ。だから、幽霊みたいに見えてるかもしれないけど、気にしないで。ナイジェル、あなたはだいじょうぶ? 腕の具合はどう?」
ナイジェルは、七都から全く視線をそらさなかった。
「ぼくは、だいじょうぶ。この状態にも随分慣れた。ゆっくり自分の生活を取り戻すつもりだ。だけど、きみの体は別のところで、ちゃんと生きてる?」
「え? 生きてるけど……」
「それにしては、かなり悲惨なことになってるようだけど?」
しまった。怪我のことだ。
七都は、自分の胸を見下ろして、慌てて顔をそむけた。
意識だけの状態のはずなのに。
だったら、実際の体の傷なんて、引きずってこなければいいのに。
胸から下には、しっかりと、あの酷い傷が刻まれている。生身の体の状態をそのまま映しこんで。
すっかりそのことを忘れていた。
だから彼は、じっと見ていたんだ。わたしというより、この怪我を。
ゼフィーアにもキディアスにも、ナイジェルにはこの怪我を見せないようにって言われたのに。
きっちり、まともに見られてしまっている。
そして、怪我を見られているということは、当然、体の他の部分も、まるごとついでに見られているということだ。
恥ずかしさが全身を包むように、ものすごい勢いで駆け上がってくる。
取りあえず七都は、手で胸を覆った。今さらそういうことをしても、遅いような気もしたが。
「だ、だいじょうぶだってば。今、治してもらってるの。きれいに治るらしいから」
七都は、恥ずかしさをごまかすように、説明する。
「本当に治るのかい?」
ナイジェルが、疑り深く七都の傷を眺めた。
たとえ七都がどんなに工夫して手で覆っても、それを全部隠すことは不可能だった。
「人間だったら、生きていない怪我だよ」
うん。わたしもそう思う。やっぱり歩くゾンビだ。
女の子が気を失うくらいの、とてもひどい醜い怪我……。
「でも、わたしは魔神族だもの。生きてるし、怪我も治せるよ」
七都は微笑もうとしたが、顔はひきつっていた。
わたしは魔神族……。
そう口には出したものの、自分は素直にそう思ってはいない。そのことに気づいて、ちょっと落ち込んでしまう。
「その怪我は? 誰かに?」
ナイジェルが、険しい表情をする。
「グリアモスに襲われた」
「……そうか」
ナイジェルが、ますます険しい顔つきをして、深い溜め息をつく。グリアモスに襲われている七都を想像したのかもしれない。
「わたしのエディシルを食べようとしたの。でも、魔神狩人の女の子に助けてもらった。そのグリアモスを退治してくれたの」
「魔神狩人に助けてもらったのかい?」
ナイジェルが、あきれたように七都を見つめる。
「うん。ユードの知り合いみたい。たまたま出会えたの」
「たとえ偶然にしても……。それを呼び寄せられるきみは、本当にすばらしいね」
ナイジェルは、笑った。
そう。その笑顔が見たかったの、ナイジェル。
あなたの笑顔……。
この世界に帰ってきてから、ずっと見たかったかもしれない。
「それほどでも……」
七都も少しはにかんで、笑ってみせる。
そこでふと七都の視界に、眠っている赤いドレスの少女が入る。
七都は、彼女を指差した。
「ナイジェル。この子、誰?」
露骨に聞いてしまった。
でも、はっきり聞かなければ。そして、納得出来る答えをもらわなきゃ。
さりげなく、回りくどく聞き出す芸当なんて、わたしには出来ない。
「ぼくの世話をしてくれている。ついでに、監視もね。女官だよ、若いけど。疲れて眠ってしまったんだろう」
ナイジェルが事務的に答えた。そして、くすっと笑う。
「もしかして、妬いてるの?」
「そそ、そういうわけでは……」
七都は、思わず床を見つめた。そこにもまた、藍色に金の星が並んでいた。
うん、たぶん嫉妬してるんだよね。ジェラシーってやつを感じてる。
だから、あなたにもっと質問を浴びせたくなる。
だって、ここ、あなたの寝室でしょ? あなたのベッドでしょ?
疲れて眠ってしまったって……?
あなたはやっぱり、ノーテンキなこと言ってるけどね。
水の都の女官は、そういうことしちゃうの?
魔王さまのベッドの上で寝ちゃうの?
そんなわけないよ。
絶対に確信犯だ。ナイジェル、そのこと、気づいてる?
「おいで」
ナイジェルが微笑んで、七都に手を伸ばす。
その笑顔で<おいで>なんて言われたら。
元気よく<はいっ>って返事して、何も考えずにそばに行きたくなるよ、ナイジェル。
真っ直ぐに七都に向かって差し出された、彼の左手。
前に会ったときは、この手をつかんで正気に返って、地面に降りた。
その手にまた触れたい。つかみたい。でも……。
「あなたに触れられない……」
「いいからここにおいで、ナナト。ぼくのそばに」
七都は宙を漂うようにして、ナイジェルのそばに移動した。
ナイジェルの手を取ろうとしたが、当然その手は彼の手を通り抜けてしまう。
「ほら、実体がないから、こういうことになっちゃう……」
それでもナイジェルは、七都を抱き寄せるように左手を回した。
真っ直ぐに注がれる、彼の透明な水色の目。
その目に七都の姿は映ってはいないが、彼の頭の中には七都がしっかりと像を結んでいる。
七都も彼を見つめ返した。とても間近な位置から。
すぐ真下に彼が横たわっている。
なんて大胆なシチュエーションなんだろ。
生身だったら、恥ずかしくて、こんなこと出来ない。
今、自分はナイジェルに寄り添っている。
重なり合うくらいに。
きっと光の都の水槽に残してきた自分の体は、どきどきしているだろう。顔も赤くなっているかもしれない。
そしてキディアスたちに、首を傾げられているかもしれない。
ナイジェル。
キディアスの言ってたことは本当?
わたしを慕ってくれてるって、本当?
七都は、彼の目を覗き込む。
「ナナト、また来たんだね、この世界に……」
ナイジェルが言った。
「うん。来たよ。また扉を通り抜けて……」
とても近い。
あなたの顔。耳。髪。
この前あなたにカトゥースを飲ませたときも、もちろん、とても近かったけど……。
あのときあなたは、今みたいに起きていられる状態じゃなかったもの。
「最初見たとき、きみは幽霊かと思った。そんなひどい怪我をしているから……」
「魔神族は幽霊にならないんでしょ。肉体の死と魂の死が一緒らしいから。ゼフィーアがそう言ってた。ユードもそんなこと言ってたよ」
「確かに、人間たちにはそう言われてるみたいだけどね。単に、そう思っておきたいからじゃないのかな。魔神族が幽霊になるなんて、とんでもなく恐ろしいことだろうから。人間が死んだら幽霊になるってことも、ぼくはあやしいと思ってるよ」
「でも、魔神族の生霊は、いっぱいいるみたい。体から抜け出した意識だけの人たち。今のわたしも含めてね。わたしのお母さんもそうなの」
「きみのお母さん? お母さんに会えたの?」
「会えたよ。魔の領域のどこかにいるの。どこかわからない」
「でも、よかったね。ずっと会っていなかったわけだから」
「うん、ありがとう。それからね、冠をかぶっていない魔王さまにも会ったの。その人も意識だけで、体は別のところにある……」
「冠をかぶっていない魔王さま?」
「冠のあとはあるんだけど、今はかぶっていないの。あなたによく似てた。同じ髪と同じ目の色だったよ。きっとあなたに関係のある人だと思う。その人の体は、お母さんがいる場所の近くにあるの」
「ぼくの身内は、だいたい死んでしまっているんだけどな。誰だろう?」
「時々ここに来て、あなたを見てるって言ってた。ナイジェル、わたしが見えるんだから、その人も見えるかもしれないよ」
「じゃあ、今度から気をつけて、あたりを見回してみるよ」
七都は、ナイジェルの胸の上に頭を乗せてみる。
もちろん、気を抜くとそのままめりこんでしまうから、慎重に距離を取って、そんな感じになるように。
こうして寄り添っていると、あの二人みたいだ。あの番人の魔王さまと恋人の少女……。
わたしたち、あの二人によく似ているもの。まるで分身みたいに。
でも、わたしたちは、あの閉じた緑の空間の中で、時間を止められたみたいに凍り付いてはいない。
こうやって、ちゃんと会えている。見つめ合って話も出来てる。
これからもいっぱい会えるよね。
「ナナト、きみは今どこにいる?」
ナイジェルが訊ねた。
「わたしの体は光の都にある。水の中を漂ってるの。そうやって、ジエルフォートさまのところで治してもらってる」
「ジエルフォート? 光の魔王の?」
「地の魔王のエルフルドさまも、一緒にいるよ」
「ナナト。ぼくでさえその二人に会ったことないのに、まったく、きみって人は……。それも、たまたまだっていうの?」
「うん。そう。偶然。あ、そうだ、キディアスもいるよ。あなたの側近の」
「キディが?」
ナイジェルが目を見開いて、七都を見上げた。
「え……。キディって呼んでるの? 彼のこと?」
「うん。呼んでるよ、いつも」
き、キディ?
うわ。絶対に、似合わね……。
七都は、思わずキディアスのクールな顔を思い出す。
帰ったら呼んでみようか、キディって。
どんな感じで返事するのか見たいかも。
「はい? 何か?」って、無表情に首を傾げるだけかもしれないけど。
「彼は……きみに何もしなかった?」
ナイジェルが眉を寄せて、七都に訊ねた。
「きみを見たとき、一瞬彼がきみをそんなふうにしたんじゃないかって疑った」
知ってるんだ、ナイジェル。キディアスが最初、わたしにしようとしたことを……。
「キディアスじゃないからね。安心して。今は彼、わたしを守ろうとしてくれてる……」
わたし、キディアスを弁護してる。
七都は自分にあきれる。
我ながら、なんてお人好しなんだろう。
「今は? じゃあやっぱり、きみに危害を加えようとしてたってことだね」
ナイジェルは、ふうっと溜め息をつく。
お見通しだ、ナイジェル。さすが魔王さま。
だけど、キディアスがわたしをあなたの愛人にしようとしたこととか、今は正妃にしようとしていることは、知らないよね。
わたしもそれは言えない。
言ってしまって、それはキディアスのひとりよがり、仕方のない側近だねってことで、笑って済まされたくないもの。
「光の都か。ここからは簡単に行ける。きみに会いに行くよ、ナナト。本物のきみに会いたい」
ナイジェルが言う。
「会いにって……でも、あなたは、ここに閉じ込められてるんじゃないの?」
ナイジェルは、笑った。
「ぼくを閉じ込めることなんて、誰にも出来はしない。ここにいるのは、ぼくの意思。周りがうるさいから、ただおとなしくここにいるだけってこと」
「なんだ、そうなんだ」
そうだよね。あなたは魔王さまなんだもの。
誰もあなたの行動を制限するなんてこと、出来ないよね。
閉じ込められているふりをしているのは、たぶんあなたのやさしさで、礼儀なんだ。側近たちへの。
「だから、今から、きみに会いに行く……」
ナイジェルが、もう一度言った。ささやくように。
ナイジェルが会いに来てくれる。光の都のあの水槽のところへ。わたしに会うために。
とても嬉しい。
だけど、あなたが来たら……。
七都は、水槽の中に漂う自分をじっと眺めているナイジェルを想像する。
「ナイジェル。来ないでほしい……」
七都は呟く。
その言葉を口にするには、勇気がいった。




