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第4章 光の回廊 15

 七都は、緑の中を落ちて行った。

 さまざまな緑。青磁色、ダークグリーン、エメラルドグリーン、草色、若葉色、白緑……。

 緑の大洪水が、七都をどこまでも包み込む。

 きらきらと輝く雲のように。あるいは揺らめく暗い影のように。


 流れて行く緑の中に、七都は人影を見つけた。

 白い二つの人影。一組の男女だった。

 二人は固く抱き合い、その背景のベルベットのような暗緑色の中に、留め付けられていた。まるでガーデンクォーツの中に閉じ込められた、一対の妖精のように。

 凍りついたように彼らは動かない。眠っているようにも見える。

 男性の髪は、淡い銀色だった。

 その固く目を閉じた整った横顔を見て、七都は声をあげる。


(番人の魔王さま……!?)


 ナイジェルによく似た、あの水色の目、銀の髪の若者。

 七都に、扉の中に入らぬよう注意してくれた、あの魔王らしき人。七都と同じ、幽体離脱して生霊状態の……。

 その額に金の冠はやはりなかったが、冠の幽霊のような残像が、額を覆っている。

 間違いなく彼だ。


(魔王さま……。あなたの体はここにあるの?)


 そして、彼がしっかりと抱きしめている女性。

 若い娘――少女だった。

 その長い髪は、黒味がかった深い緑色。そして、目を閉じているその顔は――。


(わたし……? お母さん……?)


 七都は、少女の顔が、自分の顔か母の顔であるかのような錯覚を起こし、愕然とする。

 違う。似ているけれど、わたしじゃない。似すぎているけれど……。

 お母さんでもない。

 だが、おそらくあの少女の目は、自分と同じワインレッドだ。色味は微妙に違うのだろうけれど。七都は思う。

 彼が言っていた。


<きみの目は、彼女よりも少し明るい色かな……>


 少女の目も、固く閉ざされていた。

 何千年もその目が開かれたことがないかのように。そして、これからも永久に開くことがないかのように。

 二人の姿は瞬く間に七都を通り越し、はるか頭上の緑の中へと取り込まれてしまう。


(番人の魔王さま。あなたが抱きしめているあの女の子が、あなたの待っている人? あなたが、もう決して離さないって心に誓ったみたいに、大切そうに抱いているあの少女が……)


 彼らはあんなにしっかりと抱き合っているというのに、魂のレベルでは会えていない。

 二人とも意識は体から抜け出て、離れ離れの別なところに存在している。

 若者は銀の扉の前で、番人をしながら少女を待っている。そして少女の意識は、どこかをさまよっている。若者を探して……。おそらく何百年も。

 二人はあんなにくっついているのに、実際はとてもとても遠くにいるのだ。

 七都はそのことが悲しく、せつなかった。


 でも、あの夢の中の女の子……。

 金の冠を額に戴き、胸をエヴァンレットの剣で刺し貫かれた、あの玉座の少女――。

 ぼやけたその顔に、あの少女の顔がぴったりと重なり合う。

 今度夢に出てきたら、その顔は、銀の髪の若者に抱きしめられていたあの少女の顔になっているような気さえする。七都にそっくりなあの少女の顔に……。

 あの子、やっぱり、わたしの夢に出てきた女の子なの?

 違う、違う、違う……。

 わたしと似た人って、きっと多いんだ、魔神族の女性には。

 お母さんだって、お母さんと一緒にいた金の髪のお友達だって。みんな似てる。きっと他にもたくさんいるんだ。

 みんな親戚同士で、どこかで血が繋がってる。だから、似てるんだよね。

 だから、違うよ。絶対に違う……。

 だけど、何なのだろう。

 あの女の子が自分の一部かもしれない、あるいは反対に、自分があの子の一部なのかもしれないという、妙な感覚……。

 あそこで抱きしめられているのは、自分であるかのように感じた。

 あの人に抱きしめられているのが嬉しい……。そんな感情というか、感覚さえも、瞬間的に走った……。

 七都は、自分の中のどこかから湧き上がって来る、わけのわからない不安に無理やり蓋をして、押し込めた。

 そして、流れて行く緑の洪水の中に身を任せる――。



 七都の視界からは、いつの間にか、緑は消え去っていた。

 代わりに、今七都を包んでいるのは、一面の青――。

 戻って来たのだろうか。光の都のあの水槽に。でも、色が違う……。

 水の中を照らす機械の光の淡い青でもないし、水槽の向こうに見える、光の都のラベンダーの空の色でもない……。

 やがて七都は、その青が布の重なりであることに気づく。

 何枚もの青い布がグラデーションのドレープになって下がり、視界を覆っていた。

 高い天井には星空の絵。藍色の中に金色の星たち。丁寧に手描きで施された、幾何学模様の装飾だ。

 どこか建物の部屋の中だった。城とか、大きな屋敷っぽい。

 その青い布の重なりは、どうやら天蓋のようだ。

 七都は、その何かを大切に守っているかのような、たくさんの青い天蓋を通り抜けた。

 天蓋の中心には寝台があり、ひとりの人物がその奥で眠っていた。

 乱れた銀の髪が枕に埋まり、静かな寝息に合わせて、肩がゆっくりと上下している。

 まだ少年の面影を濃く残す、一人の若者だった。七都がよく知っている人物だ。


(ナイジェル……)


 七都は、眠っているナイジェル――水の魔王シルヴェリスを見下ろした。

 彼の右腕には、布が丁寧に巻かれている。

 けれども、その布から下は、断ち切られたように何も存在しなかった。そこにあったはずのものは、七都の目の前で、太陽に焼かれて消滅してしまったのだ。

 巻かれた布を見て七都の胸は、やはり、ずきりと痛む。


(ナイジェル、眠ってる……)


 安らかな寝顔。

 緑の空間の中に閉じ込められていた、番人の若者の顔とは違う。

 あのどこか造られた人形のようにも見える、凍りついた冷たい白い顔とは……。

 そして、決して目覚めることのない眠りについているかのような、あの気の遠くなりそうな静けさも、ナイジェルの顔には微塵も見られない。

 ナイジェルの意識は、彼の体の中にきちんと入っている。

 今閉じられていえる瞼もやがて開かれる。

 唇も言葉を紡ぐだろう。

 七都は、ナイジェルの寝顔を眺めて、微笑んだ。勝手に笑みがこぼれてしまう。


(ナイジェル。残念だな。あなたの透明なきれいな目が見たかったのに……)


 もし彼に七都が見えないのだとしたら、当然声も聞こえないわけだろうから、呼びかけて起こすこともできない。

 ただ彼の顔をしばらく眺めて、立ち去るしかないのだ。


(まあ、いいや。あなたに会えたんだものね。顔を見られただけでも嬉しい。でも、わたし、どうやってここに来たんだろう……)


 ここは、たぶんナイジェルの寝室。

 キディアスが彼を閉じ込めているという部屋だ。

 つまり、水の都の中。王族の城、もしくは宮殿の内部。

 あの番人の魔王さま……。

 もしかしたら、彼がここに連れて来てくれたのかもしれない。

 七都は、思う。

 それに、さっきお母さんのところに連れて行ってくれたのも、あの人かもしれない。

 ここは本来、あなたの来られるところじゃない。お母さん、そう言ってたもの。

 ありがとう、魔王さま。もしそうなら。

 ううん、きっとそうだよね。


 七都は、ナイジェルの頭をやわらかく支えている枕の表面を見て、さらに嬉しくなってしまう。

 そこには花の模様があった。

 いや、それは花の模様ではなく、花そのもの。

 チョコレート色の枯れた花。セレウスが七都のために地下の畑で摘んでくれた、魔神族の花。そして、ナイジェルが機械の馬に乗せて持って帰った花。カトゥース――。

 それが枕の薄い布を通して、模様のように透けて見えるのだ。


(ナイジェル。ちゃんとドライフラワーにして、枕に入れてくれたんだ……)


 今の七都にはわからないが、きっとコーヒーのいい香りが枕からしているに違いない。

 ナイジェルはいつもその香りに包まれて、眠っているのだ。


 けれども、七都の弾んだ気持ちは、その場でたちまち分解してしまった。冷たい水をかけられたように。

 ナイジェルの足元の近くに、一人の少女が倒れこむようにして眠っていた。

 真紅のドレスに、銀色に近い明るい金の髪。

 その長い髪は波打って、ナイジェルの横たわる寝台を覆うように広がっていた。


(女の子がいる……)


 またこのパターンか。ナイジェルが寝ているそばに、女の子がいるという――。

 七都は肩をすくめ、溜め息をつく。

 前は、ゼフィーアだった。

 ゼフィーアはナイジェルのそばに座って彼の顔を覗き込んでいたが、今回の少女は彼の足元で眠っている。今度は誰だろう。

 七都は複雑な心境を押さえつけて、取りあえず彼女を眺めた。

 魔貴族の令嬢のようだ。そしてやはり御多分に漏れず、美少女だった。


「猫みたい……」


 七都は、率直な感想を口に出してみた。

 ナイジェルのベッドに寄りかかって、そのまま寝てしまった、という形式を取っているこの少女。

 けれども、とどのつまり、ナイジェルのベッドの上に完璧に乗っかってしまっている。猫のように、丸くなって。

 足元で眠っていた猫は、気がつくといつの間にかするりと忍び寄り、枕を占領して隣で寝ていたりする。

 そのしたたかさというか、ずるさというか、そういうものが、この少女にも感じられてしまう。

 いや、猫のそういう狡猾さをもっと増幅させて凝縮したようなものを、彼女は持っている。


(なんか、やな感じ……)


 七都は、眉を寄せる。

 これ、嫉妬かな。わたし、この子に嫉妬してる?

 だけど、何となくわかる。

 ここでこうしているのは、何というか、そう、彼女のアピールだってこと。

 ここはわたしの場所よ。

 わたしのそばで眠っているこの人は、わたしのもの。誰にも渡さないわ。

 まるでそう主張しているかのような、彼女の姿勢。

 眠っているというのに、確実にそうアピールしている。

 もしかしたら、ゼフィーアよりも、たちが悪い。

 ゼフィーアは、自分をしっかりと持っている。

 ナイジェルに迫ろうとしていたけれど、それは彼女の思う目的を果たすために、彼を一時的に利用しようとしただけ。

 だけどこの女の子は、誰かにずっとよりかかることで自分を生かしていく。そんな子のような気がする。

 だから、よりかかるために必要なもの、目標として定めたものを、必死になって捕まえようとしている。

 そしてそれをいったん捕まえたら、決して離さない。自分が手に入れた生活を、ずっと守り続けて行く。それを守るためには、手段も選ばない。

 そういう危なっかしいパワーを持っている。

 この子、なんだか、こわい……。

 ゼフィーアもこわいけど、この子も別の意味でこわいかも……。

 七都は、少し気後れしてしまう。

 でも、ゼフィーアのときみたいに、びっくりしない。あせったりしない。

 ナイジェルは言ったもの。自分には妃も恋人もいないって。

 それにキディアスも言ってた。ナイジェルはわたしのこと、慕ってくれてるって。

 この女の子、誰だか知らないけど、絶対にナイジェルの恋人なんかじゃない。

 どういう経緯で、ナイジェルのベッドの上に寝ているのかは知らないけれど。


 七都は、眠っている少女をいろんな角度から観察してみた。

 見た目の年齢は、七都と同じくらいだ。

 口を少し開いて眠っているその顔は、童女のようにも見える。

 長い睫毛。整えられた眉。

 目を開けると、どんな色の目が現れるのか。だが、その目はきっと美しいに違いない。

 彼女が身にまとっている赤いドレスのせいもあって、まるで大輪の花がベッドの上に無造作に置かれているような、そんな印象があった。


(この子……。どこかで見たような……。んーと、誰かに似てるんだ……)


「ナナト!!」


 突然自分の名前を呼ばれて、七都は反射的に顔を上げる。

 上半身を少し起こした姿勢のナイジェルが、水色の目を大きく見開いて、七都を真っ直ぐ見つめていた。

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