第4章 光の回廊 13
七都は、鏡のような、つるりとした床の上に立っていた。
足元には、緑色が渦巻いている。
表面に近いところは青磁色。そこから様々な色調、彩度の緑が、はるか底へと層をなして繋がって行く。その厚みのある緑を透明な氷で蓋をしたというイメージ。
まるで、深い緑色の湖をそのまま凍らせたような床だった。
「ここ、どこだろう。もうそろそろ自分の体に帰るつもりだったのに。また変なところに来ちゃった……?」
七都は、頭上を眺めた。
(星……?)
そこには星空が広がっていた。
だが、七都がよく知っている、地上から眺める星空ではない。
星は瞬いてはいなかった。それは宇宙の景色。暗黒の空間に浮かぶ紫のガス星雲。気が遠くなるくらいに重なり合う、那由他の星々――。
「すごい。巨大望遠鏡? もしかして、プラネタリウムだったりする?」
七都は、天井の星空から、ひとまず目を逸らせた。
暗黒の空間をじっと見上げていると、不安になってくる。あまりの壮大さ、心がざわつくような畏怖、そして、身の置き所のない孤独に気が付いて。
七都は、自分のいる周辺を注意深く眺めた。
凍った湖の床は円形だった。その縁には、ぐるりと黒いシルエットになった柱がめぐらされている。その向こうは、明るいラベンダーの空。
七都は、その見慣れた空の色に安堵する。
どうやら魔の領域の中のどこからしい。七都の体がある魔の領域からは、出ていないということだ。
七都は、床の真ん中あたりに、闇色の盛り上がりが幾つかあるのに気づいた。そして、それらに近づいてみる。
盛り上がりに見えたのは、球を半分に切ってそこに配置したような、奇妙な固まりだった。
金属のようなもので出来ていて、表面には美しい紋様が刻まれている。
中には狭いスペースが空けられていた。
棚のような段があり、その前には少し斜めに角度がついた、机のような台。台の上には薄いガラスのようなパネルがはめ込まれている。
それは全部で七つあった。
七つの半球は、中央に一つを配置し、残りの六つが等間隔で円を描いて並んでいた。
表面に刻まれた紋様は、それぞれ全部異なっている。幾何学模様、文字を刻んだようなもの、植物、竜の紋章を並べたようなもの……。
「これ、たぶん椅子だ。変わった形してるけど。えーと。やっぱり座るとなると、ここかな」
七都は、その中からひとつを選び、中に入って座ってみる。といっても、生身でない七都の腰は、椅子の中に半分以上めりこんでしまったのだが。
正面の台に貼られたパネルは、七都の両手を受け止める位置にちょうどあった。そこに手を乗せると、楽な感じで収まってしまう。
「ここ、きっと何かが映るんだ……」
七都は、今は閉じられた闇しか映していないそのパネルの上で、指を広げてみた。
頭上の星空。氷のような床。柱で囲まれた、不思議な丸い部屋。
「これ、きっと、あれだね。天井がプラネタリウムになった、室内スケートリンク。中央にゲーム機付き。つまり、魔神族の遊園地」
遊園地にしては暗く、あまりにも静かだった。
何の音も聞こえない。天井は黙り込んだまま、ただ紫のガス星雲を映し出し、氷の床もまた、緑色を閉じ込めたまま沈黙を守っている。
「ここって、なんか遠い昔、来たことがあるような気がする。そういうの、デジャブって言うんだっけ……」
じっとそうやってそこにいると、他の六つの椅子全部に誰かが座っているような気がしてくる。
全部の席がきちんと埋まっていて、席についている人々の気配と息遣いが間近に感じられるような……。
一緒にいると、安心出来て居心地のいい人たち。だって、彼らは……。
けれども、はっとして他の椅子を眺めても、それはすべて空っぽなのだった。
ここは、どういう設備なのかはわからないが、とにかく長い間使われていないことは確かだ。見えない時間の埃が、椅子やパネルの上に厚く降り積もっている。
七都は、その円形の部屋の端に、銅像のような装飾品が置かれていることに気づいた。
それは、少女と巨大な猫の像だった。
少女の額には冠がはめられ、巨大な猫――グリアモスらしき猫もまた、猫にしては仰々しいくらいにアクセサリーを付けている。
少女と猫は、ぴったりと寄り添っていた。お互いをパートーナーと認め、信頼している関係。七都にはそう思えた。
半透明の白い石に彫刻されたその像は、七つの椅子を見守るような感じでそこに配置されていた。
「あの二人、何だかカーラジルトとわたしみたい……。どことなくわたしたちに似てるし……」
七都は、微笑んで呟く。
その時、七都は足音を聞いた。
それは次第に近づいてくる。
一人分の軽い足音だ。衣擦れの音もくっついていた。
七都は、足音の主のほうに顔を向けた。
この足音の持ち主は、わたしが見えるのだろうか。
ちょっと期待してみよう。
金色と銀色の髪が、ふわりとなびく。
少女が二人、ラベンダーの空と柱の影の間に現れた。そこは、回廊、もしくはベランダになっているようだ。
(あれ。二人? 足音は一人だったような気がしたのに?)
少女のひとりが、七都のほうを眺めた。七都がそこに座っていることに気づいたらしい。それはもちろん、彼女には七都が見える、ということを意味している。
金色の長い髪にオレンジ色の目。七都は、固まる。
その少女は、七都にとてもよく似ていた。ただ、髪の色と目の色が違うだけ――。
自分と似た姿形の人物を目の前でいきなり見るのは、あまり気持ちのよいものではなかった。しかも、その当の本人に見据えられるのは。
「あら。誰か来てるわ」
彼女が呟く。
「あの席に座っているということは……。あなたの身内なんじゃないの?」
彼女は、隣の銀の髪の少女に言った。
銀の髪の少女は、振り返る。彼女の銀色の目が大きく見開かれ、七都を凝視した。
七都は、ますます固まった。彼女は、その隣の少女にとてもよく似ていた。つまり、もちろん七都にも似ていることになる。
(双子? 姉妹?)
だが、それくらい二人は似ている。金色と銀色。まるで二人の同じ少女を別の色で塗り分けたように。
七都自身も彼女たちに加えれば、三つ子ともまではいかなくとも、三姉妹ということで通るかもしれない。
「ナナト! ああ、ナナト!! 夢みたい。なぜここにいるの!?」
銀の髪の少女が、嬉しそうに叫んだ。
誰? なぜわたしの名前を知ってるの?
七都は、その少女を見つめ返す。
銀の髪の少女は、滑るように氷の床を移動した。
足音はしない。七都の前に立った彼女には、背後の柱と空が重なっている。少女の体は、銀色の影のように透き通っていた。
「ナナト……。大きくなったね。会いたかった……」
彼女の真珠色がかった銀の目から、涙がこぼれ落ちる。
泣いてる? 魔神族は、泣かないはずなのに……?
七都は、その透明な涙が流れ落ちて行くのを目で追った。そして、思い出す。
彼女の声は、地の都の砂漠で聞いた声。
七都をやさしく撫でてくれた、あの声の人――。
わたしは、いつもあなたを見守ってるわ……。
七都にそうささやいた声。あの声の主だということを。
さらに、七都が大量出血をしたとき、手を握りしめて励ましてくれた、あの声の主であることも――。
「あなたは……お母さん?」
七都が遠慮がちに呟くと、少女の顔は、ぱっと明るくなった。
「お母さんなの?」
少女は頷く。何度も何度も。
さらにたくさんの涙が溢れて、彼女の頬を伝った。
感動の再会……のはずなのだが、七都の元の世界の常識が、素直にその感情に浸りこむことを阻んでいた。
母は魔神族。美羽というのは仮の名前で、本名はミウゼリルというらしい。そして、風の王族の姫君。
それは、わかってはいる。
だけど……。
「なあに、ナナト。その不満そうな顔? 私に会えて、嬉しくない?」
彼女は涙をぬぐって、無理やり笑顔を作った。
嬉しいよ。とても嬉しい。でも……。
「お母さん。だって、その姿。わたしより若いじゃない。どう見ても中学生以下だ。おかしいよ」
七都が言うと、母が反応するよりも先に、七都たちの位置にゆっくりと近づいてきていた金の髪の少女が、口を歪めた。
彼女は慌てて口を押さえて笑いをこらえ、柱の向こうの空を眺めるふりをして、取り繕う。
「仕方ないじゃない。私は魔神族なんだし、ここは魔神族の住んでいるところよ。当然、自分のなりたい年齢の姿でいるわよ」
母が言った。さすがに七都の母親だけあって、娘の感覚に応じてくれるらしい。
「わたしの常識とはかけ離れてるよ。お父さんとも年齢的にギャップがありすぎるし」
七都が指摘すると、彼女は溜め息をついた。
「しょうがない子ね……」
彼女の姿が、変化する。
十代半ば以下だったその少女は、七都の目の前で、あっという間に成長した。
華やかな若さを持つ二十代の娘になり、さらに落ち着いた三十代の女性になる。
そこに現れたのは、果林さんと同じくらいの年齢の女性だった。
銀の髪と目はそのままだが、それは今の彼女をどこか女神のような存在に思わせる、神秘的な色にほかならない。
彼女は、あたたかい眼差しで七都を見下ろした。
私、年を取ったらこんな感じになるのかな。七都は思う。うん。悪くない。
「これでいいかしら?」
彼女が首をかしげる。七都は頷いた。
「うん。ありがとう、お母さん」
だけど、お母さん、私みたいに緑がかった黒髪にワインレッドの目じゃないんだ?
「ナナト。……私のこと、覚えてる?」
彼女が訊ねた。
覚えてるって言いたい。とても明るく、覚えてるよって。
そうしたら、きっとあなたは、もっと笑顔になるのだろう。だけど、嘘はつけない。
「ごめんなさい……。あまり覚えていないの」
七都は、うつむいた。
「そうよね。小さかったものね、ナナトは」
彼女は、おそらく彼女の予想通りの答えを受け止め、自分を納得させるようにそう呟いた。
<ナナト、ナナト。私を忘れないで>
泣きながら七都を抱きしめる、一人の女性。
<あなたはきっと忘れてしまう。私のことなんか記憶に残らない。あなたの記憶にこれから残って行くのは、すべて、私がここから去ってからのこと……。ナナト、私を覚えていて。私のこの手を、この胸を忘れないで……>
七都の頬に触れるその人の体温はあたたかく、涙もまた熱いくらいだった。
一瞬、そのぼやけた記憶とも想像ともつかぬものが、七都の脳裏に現れて、すぐに消えた。
お母さん……。
お母さんは、出て行きたくなかったんだ。
わたしと別れたくなかったんだ。
「ナナト。あなたを育てたかったわ。あの家で、ずっと……」
母が言った。
七都は、彼女のほうに両手を伸ばした。そして彼女に抱きつこうとしたのだが――。
七都はその姿勢のまま、彼女の体を通り抜けてしまった。その感覚は、シャルディンやキディアスを通り抜けたときとは違っている。
全く実体がない、映像のようなものだった。
(あ……。お母さんも生霊? 幽体離脱してるの? わたしやあの番人の魔王さまと同じように?)
「ナナト。あなたを抱きしめてあげたい。でも、出来ないの……」
母が、うなだれる。
「だけど、砂漠でわたしを撫でてくれたよね? わたしが大量出血して倒れたときも、わたしの手を握ってくれた。わたしが生身に戻ったら、そしたら……」
「あなたが元の体に戻っても、抱きしめてあげられないわ」
母が言う。悲しそうに。
「あなたが撫でられたり、手を握られたと思ったのは、そういう感覚をあなたに与えたから。本当にそうしたわけじゃない。私はあなたに触れられないの。私の体は別のところにあるから」
「やっぱり、お母さん、生霊なんだ……」
七都が呟くと、母は笑った。
「おもしろいこと言うのね。生霊ですって? 私は誰かに取り憑いたり、恨んだりはしていないわよ」
「ねえ。お母さんの体はどこにあるの? 私が抱きしめに行くよ」
母は首を振った。
「そうしてもらえたらとても嬉しいんだけれど。あなたが来られないところにあるの」
「そうなの……? ね。まさか、お母さんの体って、剣が突き刺されてたりなんかしないよね?」




