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第4章 光の回廊 12

 誰だったのだろう。

 残像の冠を頭に戴いた魔王さま……。

 あなたは誰? どの魔王さま?

 水でも地でも光でもない、他のどれかの魔王さま?

 それに、銀の扉の中に閉じ込められているという幽霊。

 幽霊って?

 それも質問に追加だ。

 リュシフィンに聞かなくちゃ……。


 重なり合った狭い空間は、やがて終わった。

 七都は、ラベンダー色の中に、勢いよく放り出される。


(空……?)


 それは、ジエルフォートの研究室の窓から見た空と同じもの。ただそれは、窓の向こうではなく、七都を取り巻くように広がっていた。

 ふと下を見ると、庭園があった。さまざまな形のアーチやテラスが組み合わされた、美しい庭園だった。

 手入れのされた木々が茂り、花々がこぼれるように咲き誇っている。

 七都は、ゆっくりと庭園に降り立った。

 花々の中には、見慣れたカトゥースの花も混じっている。

 カトゥースの花の一群は、地下室の青い光の下ではなく、昼間の太陽の下で、元気よく咲いていた。

 七都が常食にしている透明な蝶たちも、どの花に舞い降りるか迷っているかのように、庭園の中をふわふわと漂っている。

 闇の中で舞っているのとは、全く雰囲気が違う。

 太陽の光の中では蝶たちは、妖しさも禍々しさも感じさせることなく、ごく健康的でかわいらしかった。


「ここ、どこ?」


 七都は、あたりを見渡した。そして、庭園の向こうに城が聳えていることに気づく。

 ガラス細工のような城だった。だが、ラベンダーの空の下に、どっしりと建っている。何段重ねかのデコレーションケーキを思わせる形だ。


「風の城……?」


 七都はしばし、その城を眺めた。

 ずらりと並んだ、たくさんの窓。バルコニー。

 中にどんな人々が住んでいるのか。

 ずっと目指していた場所。それが今、目の前にある。

 ここがゴール地点だ。

 だが、今の七都は意識だけの存在。体は光の都に置いてきている。

 あのボランティアで番人をしている魔王らしき若者に言われたように、体もここに連れて来なければならない。それでなければ、ゴールなど出来ないのだ。


 そのとき、賑やかな笑い声が聞こえた。

 それは、木が四角く刈り込まれて出来た緑の壁の向こうを移動し、近づいてくる。

 七都は思わずどこかに隠れたくなったが、すぐに思い直した。

 わたしが見えない人のほうが多いみたいだもの。

 ここにいたってだいじょうぶだ。

 見えたら見えたで、その時は向こうの反応に合わせればいいことだし。

 七都はそこに佇んだまま、笑い声の主たちを待つ。

 やがて緑の壁の向こうから、着飾った若い女性たちの集団が現れた。

 きらびやかなドレスを身にまとい、胸や髪に輝く宝石や花の飾りを、見る者がうんざりするほどに飾っている。


(きれいな人たちだけど……。なんかセンス悪い……)


 七都は、彼女たちを観察した。

 魔貴族たちは、割と洗練された衣装を身につけているのに、彼女たちの衣装は、明らかにそれとは程遠かった。

 ただ、ごてごてと飾り立てているに過ぎない。色の対比とか組み合わせとかも、全く気にかけていないように思える。

 せっかくの高価そうな衣装や飾りが、互いに殺しあっているような感じになっている。

 けれども、もちろんそれが彼女たちの最新のファッションなのかもしれなかった。単に七都が知らないだけで。

 女性たちは、どうやら宝石のことを話題にしているようだった。七都には全然わからない単語が飛び交っている。おそらく宝石の名前とか産地なのだろう。

 一番年上で二十代半ば。七都と同年代くらいが、最も年下のようだ。

 だが、ここにいるということは、風の城の住人に違いない。いずれ七都と顔を合わすことになる人々なのだ。

 たとえセンスが悪かろうと、性格がどうであろうと、七都は笑って挨拶したり話をしたりしなければならなくなる。

 彼女たちには、やはり七都の姿は見えないようだった。

 七都には目もくれず、笑いさざめきながら、そのまま通り過ぎて行く。

 あの人たちは何者だろう?

 美しく着飾って、ふわふわと漂う、蝶のような人たち。

 魔貴族ではないようだ。

 人間……? 


「七都さん……」


「え?」


 七都は風の中に、聞き慣れた声を捉えた。

 絶対に忘れない、その生意気な、妙にかわいい声。

 あの声は――。


「ナチグロ=ロビン!!!」


 七都は、声が聞こえた方向――風の城に向かって、飛んだ。

 きらびやかな女性たちの集団がたちまち遠くなり、庭園がはるか眼下に降りていく。


(ここって、とても高いところにある? もしかして、空中に浮いてる?)


 七都は移動しながら、周囲を見渡した。

 庭園の向こうは、ぶつりと途切れていた。

 どの地点の端もそうだ。その向こうにはラベンダーの空しかない。

 雲がゆっくりと形を変えながら動いていく。その雲の位置は、異様に庭園に近い。


(やっぱり、きっと、城ごと空に浮いてるんだ……)


 七都は、開いた窓から中に入った。確かそのあたりから、ナチグロ=ロビンの声が聞こえたような気がする。

 そこは、明るく広い部屋だった。

 趣味のいい調度品に囲まれた、居心地のよさそうな空間。


「ビンゴだね……」


 七都は部屋の中に、当のナチグロ=ロビンをいきなり見つけて、呟いた。

 少年の姿をしたナチグロ=ロビンは、長椅子にゆったりと寝転がっていた。

 猫が体を長く伸ばし、平和に横たわっている。まさにそんな感じだった。

 七都は椅子のそばに立って、ナチグロ=ロビンをじっと見下ろした。


「寝ちゃってる……。ナチグロ。さっき、わたしを呼んだんじゃなかったの?」


 ナチグロ=ロビンが、突然目を開けた。七都は、どきっとして、後ずさる。

 だが、彼の緑を溶かした金色の目は、七都を見てはいなかった。

 視点の定まらぬ目つきで起き上がった彼は、両手を上に伸ばして、大きな伸びをした。

 それから再び長椅子に、体を折りたたむような感じで横たわる。さっきとは体の向きだけが変わっていた。

 ナチグロ=ロビンは何事もなかったように、そのまま眠ってしまう。

 七都はあきれて、彼の寝顔を覗き込んだ。


「やっぱり、猫だ……」


 七都の家のリビングのソファにいる時と、同じことをしている。

 眠っていたのに突然起き上がり、伸びをして、向きを変えて、また眠るという猫の仕草。


「七都さん……」


 彼が呟いた。眠ったまま。


「なんだ、寝言なんだ。さっきのもそうか……」


 七都は、溜め息をついた。

 だけど、寝言でわたしの名前を出すってことは、わたしのこと、気にしてくれてるってこと?

 少しは後悔してるの? 罪悪感、感じてる?

 気持ちよさそうに眠っている彼を眺めていると、無性に腹が立ってくる。

 もちろん、自分がこんなことになっているのは、彼に置き去りにされたせいだ。

 彼が行ってしまった後、どれだけつらく怖い目に遭わされたことか。

 自分に起こった数々の出来事の元凶は、この化け猫だ。


「あなたねえ。わたしがどういうことになっているか、わかってるのっ!?」


 七都は、声を荒げた。

 だが、ナチグロ=ロビンは、相変わらず気持ちよさそうに眠っている。まるで黒髪の天使のようだ。

 七都はナチグロ=ロビンの横にかがみこみ、指で輪を作って、彼の額に近づけた。

 それは七都が子供の頃、しばしば眠っている彼に試みて、果林さんに叱られた行為だった。

 彼のヒゲを引っこ抜いたことは覚えていないが、こちらはよく覚えている。


<ナナちゃん、めっ! 猫さんにそんなことしちゃだめでしょ?>


(猫さんじゃなかったんだよ、果林さん。フツーの猫さんじゃ。魔神族が化けた猫だ。魔猫だよ)


 七都は人差し指を親指に滑らせて、ナチグロ=ロビンのなめらかな額をはじいた。

 けれども、もちろんその指は、そのまま彼の額にめりこんでしまった。

 七都の指は何もはじかず、ナチグロ=ロビンの額も、何の音もたてない。

 彼は、生霊の七都にデコピンをされたことも知らずに、眠りこけている。


(んー。残念……。生身に戻ってここに来たら、絶対ちゃんとやってやるっ)


 七都は、心に誓った。


 やわらかい衣擦れの音が、背後でする。

 七都は、振り返った。

 そこには、銀色がかったチャコールグレーの髪の、美しい若者が立っていた。

 七都を見つめるその目は、七都と全く同じ色。透明なワインレッド。この部屋の中では、暗めの赤に見える、宝石のような目だった。

 見た目の年齢は、二十代後半くらいだろうか。

 トーガのような裾の長い衣装をまとい、額には細い金の飾り輪をはめている。

 銀色を帯びる暗い色の髪は豊かに波打ち、白い衣装を覆って、足元まで伸びていた。

 リュシフィン……? リュシフィンさま?

 ああ、そうに違いない。

 だって、わたしに似てるもの。目の色だけじゃなくて、顔のパーツなんかも。

 何か、別の自分が映る特殊な魔法の鏡を覗いているようだった。

 もし自分が男性で、こういう歳でこういう髪だったとしたら……。そんな自分の姿が、この人物かもしれない。

 七都は彼に、せつないくらいの懐かしさを覚えた。

 この人とは血が繋がっている。それを強く感じる。

 この人は自分にとって、とても近い存在だ。


「あなたが、風の魔王リュシフィンさま?」


 七都は若者に訪ねたが、彼は答えなかった。

 すぐに七都は、彼が自分を見てはいないことに気づく。

 彼の七都と同じ色の目は、七都ではなく、ナチグロ=ロビンに注がれていた。七都を通り越して。


(リュシフィンさま? わたしが見えないの?)


 彼は眠っているナチグロ=ロビンを眺め、あきれたような微笑みを浮かべた。それから、やれやれという感じで、別の椅子に腰を下ろす。

 ナチグロ=ロビンが占領している長椅子は、きっと彼がいつも定位置にして座っている場所なのだろう。

 彼の一連の動作は、七都の存在を全く無視して行われた。


(やっぱり、見えないんだ……)


 軽い失望と寂しさが、目の奥にじわりと湧き上がりそうになる。

 七都はそれを蹴散らして、彼の正面に移動した。

 この人が、風の魔王リュシフィン。

 わたしの額に口づけの印をくれた、最初の魔王さま。

 じゃあ、わたし、赤ちゃんの頃、きっとこの人に抱かれたことがある。あやしてもらったこともあるかもしれない。


「……誰か、そこにいるのか?」


 わずかに眉を寄せて、彼が呟いた。

 七都の姿は見えないとはいえ、何かがそこにいるという気配は感じるらしい。

 七都は椅子のそばにひざまずき、至近距離から彼を眺めた。

 彼は黙り込んだまま、宙に視線を止めている。


 リュシフィンさま。わたしが見えないんですね。

 やっぱり、それ、かなり悲しいです……。

 だって、エルフルドさまも、ジエルフォートさまも、わたしが見えるんだもの。

 でも、不満を言っても仕方ないですよね。いいんです、別に見えなくったって。

 七都は、聞こえないとわかってはいたが、彼に話しかけた。


「リュシフィンさま。わたしのイメージどおりの人なんだ。とても素敵です。すごくきれい。わたしが今まで会った魔王さまの中で、いちばん魔王さまっぽいです。なんというか、近寄りがたくて、ちょっと怖くて、でも、とても気高くて美しくて……。そんな雰囲気を一番持ってる……。身内びいきなんかじゃなくて、たぶん本当に、金の冠が最も似合うと思います」


 彼の額には、冠はなかった。

 今彼の額にはめられている金の輪は、魔貴族たちがよく付けている、ただの飾りに過ぎない。

 冠を他のアクセサリーに変えているのかもしれなかった。ナイジェルやアーデリーズ、ジエルフォートのように。それとも、身に付けずにどこかにしまっているのか。

 七都は、彼の手に自分の手を重ねてみる。彼の全部の指の付け根には、指輪が輝いていた。

 リュシフィンさま。指全部に指輪をしてる。指輪が好きなのかな。

 七都は、彼のはめている指輪をざっと観察したが、その中に冠が変化した指輪は混じってはいないようだった。

 でも、この指輪って……。

 もしかして、イデュアルがわたしにくれたのと同じもの?

 自分を見失わないためのお守り……? 全部?

 七都がはめているのは、赤い石を抱えた、銀の竜の指輪。

 それとはデザインは違う。石を抱えているのは、竜ではなく、猫であり、鳥であり、蛇でもあった。

 だが、それらはすべて、同じ雰囲気の銀の指輪だった。そしておそらく同じ力を持っている。

 『指輪が好き』という理由で、指を全部それらで埋めているわけでもなさそうだ。

 リュシフィンさま。発情期の女性でもないのに、こんなに指輪をしているの……?

 彼は、七都に触れられた自分の手をちらりと見下ろした。


「誰か知らぬが……。私に会いに来てくれたのか?」


 彼が呟いた。七都は、思わず手を引っ込める。

 はい。あなたに会いに来ました。

 でも、今はちょっと、理不尽な状態で会いに来てしまったので……。

 次回はきちんと、意識だけじゃなく、体も一緒にここに来ます。改めてあなたに会いに来ますね。

 だから、それまで待っていてください。

 今度はちゃんとお話しましょう。いっぱいお話したいです。

 あなたに訊きたいことが、たくさんあるんです。


「わたし、もう少しでここに来られると思います。それまでお別れです。リュシフィンさま、わたしがここに到着したら、よく来たねって、抱きしめてほしいな。本当は頭もなでなでしてほしいんですけど、子供っぽいし、わたしは猫じゃないので、それはいいです。絶対抱きしめて、やさしい言葉をかけてくださいね。わたし、それを励みに、あと少し頑張りますから」


 七都は、もう一度彼の手に自分の手を重ねた。それから、立ち上がる。


「わたし、もう行きますね。自分の体に戻らなきゃ。ごきげんよう、リュシフィンさま。…ナチグロ=ロビンもね。今度会ったら、デコピンだからっ!」


 七都は、平和そうに眠っているナチグロ=ロビンに顔をしかめて見せた。

 そしてバルコニーに出て、ふわりと飛び上がる。



 七都と同じ目をした若者は、七都が出て行った窓を眺めた。

 だがその赤い瞳には、最後まで七都の姿が映ることはなく、ラベンダーの空だけがその中に捉えられていた。


「うう……」


 ナチグロ=ロビンが、目を開ける。

 彼は、椅子に座って窓の外をじっと見上げている若者に気が付いた。そして、眠そうな顔をしたまま、彼に声をかける。


「どうしたの?」

「身近なものが、今、私に触れて、すぐに通り過ぎて行った……。ミウゼリル? いや、エヴァンレット……? もしかして、ナナトか……?」

「え?」


 ナチグロ=ロビンは、ぱちくりと金色の目を見開き、何もない空を仰ぎ続ける彼を、心配そうに眺めた。

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