第4章 光の回廊 11
「ある人を……待っている」
若者が答えた。
その言葉を口にしたとき、彼はとてもつらそうな表情をした。
彼を前にしている七都にも、そのつらさは伝わってきそうだった。
彼の悲しみが、彼の心の内面に向かって行く。周囲の空気を少しだけ巻き込みながら。
「その人……。女の人?」
彼は、頷いた。
「きみに似ているよ。初めてきみを見たとき、彼女が来たのかと思った」
「もしかして、こういう髪と目の色?」
七都は、自分の髪に手を当てた。もちろん髪も手も実体がないので、つかむことは出来ない。
「そう。色味は微妙に違うけどね。きみの目は、彼女よりも少し明るい色かな。でも、顔も姿もよく似てるよ」
その人って……。まさか。
七都は、あの夢の中の少女を思い浮かべた。
玉座に座り、胸にエヴァンレットの剣を突き刺されていた、あの少女。七都と同じ髪、同じ目、同じ姿の……。
あれは、母でも七都自身でもなく全く別の、この人が待っているというその相手ではないのか?
だとしても――夢のことは、彼には言えない。礼儀としても、常識としても。とても不吉な夢だからだ。
それに、あれはやはり、七都が勝手に見た単にわけのわからない『夢』に過ぎない。
七都が正夢を見る能力を持っているというのなら、伝えたほうがいいのかもしれない。だが、そういう力も持っているわけでもないのだ。
変なことを口走ってしまうと、この人を不快にさせて、さらに悲しみを深めてしまう。それは確実だ。
「どれくらい、彼女を待っているの?」
七都は、夢のことは記憶の底に押し込めて、彼に訊ねた。
「かなりになるね。もう数えるのも疲れてしまった」
若者は、本当に疲れたような表情をする。
「何十年? 何百年?」
「きみが生まれる、はるかな昔から……であることは確かだよ。時々ここから離れて、彼女を探しに行ったりしてるんだけどね。手がかりもない。結局いつもここに戻ってきてしまう。彼女はそのうち、この扉の中にいるものに誘われて、ここに来るんじゃないかと。そう思えてね。だから私は、ずっとここで彼女を待っている」
「その人、あなたの恋人?」
若者は、頷いた。しっかりと。
「そう。とても大切な人だ」
大切な人。
彼にそう言ってもらえるその恋人は、とても素敵な人なんだろうな。七都は、思う。
少しだけうらやましい。
わたしも、そんなふうに言ってもらえるといいな。わたしが大切に思っている人から。
「彼女が早く来ればいいね」
七都は、若者に言った。
それしか言葉が浮かんでこない。
もっと気の利いたことが言えたらいいのに。この人をさりげなく慰められるような……。
何て貧困なわたしの表現力。
「そうだね。そう思うしかないね」
彼が呟く。
どうかその人が、わたしの夢の中に出てきた、あの女の子ではありませんように。
七都は、心の中で願った。
「あなたは、あなたの会いたい人にわたしが似ているって言ったけど……。あなたも、わたしの会いたい人によく似てるよ」
七都が言うと、彼の顔が幾分穏やかになる。
「こういう髪と目の色?」
「雰囲気も似てる。笑った顔も」
「もしかして、水の魔王さま?」
くすっと若者が笑った。七都が覚えているナイジェルの微笑みをそのままそこに映したように。
「やっぱり知ってるの? あなたはナイジェルと関係があるの? あなたは彼のイトコ? ハトコ? 大おじさま? 彼もあなたのこと、知ってる?」
詰め寄りそうになる七都を、彼はまあまあという感じで、押しとどめる真似をする。
「魔王さまは、私のことは知らないよ。私のほうは、時々城を覗きに行くから、彼のことを知っているに過ぎない」
若者が言った。
「でも、血は繋がってるんでしょう。そんなに似てるんだもの。あなたも水の王族? だったら、わたしとも親戚ってことになるよ」
「うん。遠い親戚だね」
彼が笑って、七都を覗き込む。それこそ、まるで親戚の年上の男の子が親しみをこめてそうするように。
「では、遠い親戚のお姫さま。もうここからお帰り。ここは、そんな状態のきみが来てはいけないところだよ」
彼が、諭すように言った。
「うん。帰るけど……。でも、ここ、風の都なんでしょ? だとしたら、風の城もあるよね?」
七都が訊ねると、彼は真っ直ぐ天井を指差した。
「風の城は、この真上だよ」
「リュシフィンさまも、そこにいる?」
「行ってみるといい」
若者が言った。
七都は、天井を見上げる。
冷たい灰色の、つるんとした天井。この上に風の城がある――。
行こう。風の城に。
ここまで来たのなら、もちろん行かねばならない。
また改めて来ることになる場所なんだけど。
少し様子を見て行こう。
ナイジェルに似た若者は、再び階段に腰を下ろした。
銀色の扉を、彼を引き立たせる背景にして。
少しうなだれた感じでうつむく彼は、とても美しかったが、やはり悲しげだった。
「ここに番人、置いたほうがいいよね」
七都は彼に、遠慮がちに声をかける。
ここは風の都の中なのだ。
別の一族、しかも王族の人に、その人のボランティア精神をいいことに、幽霊が閉じ込められているという部屋の番をさせておくわけにはいかない。風の王族の一員として。
「リュシフィンさまにお願いして……」
七都が言いかけると、若者は遮った。
「無理だよ」
「なんでよ?」
自分の提案をまだ言い終わらないうちに、突然はさみか何かで、ぶつりと断ち切られたような感じだった。思わず声にトゲが入ってしまう。
だが彼は、七都の不満そうな声を気にする様子もなく続けた。
「番人のなり手がいない。扉の中のものを管理する能力を持つものもいないだろう。だから、結局誰も何も出来ない。風の魔王さま自らがここで番をしてくれるというのなら、話は違うけどね」
「魔王さまに、そういうことはさせられないと思う……」
七都は、言いよどむ。
「だから、私がここにいるよ、出来るだけ」
若者が言った。
「あなたの『ついで』と『暇つぶし』に頼るしかないのかな」
だけど、この人……。
つまり、それほど強い力を持った人なんだ。魔王さまと同じくらいのレベルの?
「でもね。ここに誘われて、扉の中に取り込まれる確率なんて、別の世界への入り口に迷い込む確率と同じくらいだからね。極めて低いよ。きみは、よっぽど運が悪かったってことだ。それにきみは、私がここにいなくても、途中で我に返って無事だったかもしれないし」
じゃあ、あなたの待っている人が、扉の中の幽霊に誘われてここに来る確率も、極めて低いってことになるよね……。
七都は、若者の淡い水色の目を見つめる。
「お行き、風の姫君。今度ここに来るときは、生身でおいで」
若者が言った。
「うん……。生身でまたここに来たら、あなたに会える?」
「会えない。なぜなら、きみにはもう、私が見えないから」
彼が静かに答える。
「え……? 見えないって……。何で?」
自分で質問をしている間に、七都は理解した。
「つ、つまり、あなたもわたしと同じ状態? 意識だけ? 生霊!?」
「今頃気づいたの」
若者が笑った。
そうか。だからこの人、わたしの姿が見えたんだ。
あまりにも唐突に声をかけられたから、すっかり忘れていたけれど。
この人、最初からわたしが見えていた……。
生霊どうしは、姿が見えるんだ……。
「きみは、もしかしたら、生身でも私が見えるかもしれない」
若者が言った。
「だが、そのときは、きみとは永遠にお別れするときだ」
「また、意味がわからないことを言うっ!」
七都が睨むと、若者は明るく、声をたてて笑った。
「さよなら、風の姫君。きみは、きみの会いたい人と何度でも会えるよ。きみが望むなら、その人とずっといられるだろう。私はきみの恋を応援するよ」
「ありがとう……。さようなら」
七都は最後に若者の顔をまじまじと、遠慮なく見つめる。
この人のことを覚えていよう。顔を記憶に焼き付けておこう。もう会えなくなる……というか、見えなくなっちゃうんだもの。
彼の額を覆うように、金色の、何かぼうっとしたものがあることに、七都は気づく。
あれは……わたしがよく知っているものの残像。今まで頻繁に見かけてきたものの……。
あれは……。冠の幽霊……!?
七都は、無意識に大きく一歩下がった。そして、改めて彼の全身を眺めた。
そこに座っている若者を取り巻いているのは、高貴な威厳。
それは、機械の馬に乗って手を振ってくれたナイジェルや、七都に自分の正体を明かしたときのアーデリーズ、そして、七都をじっと見据えたジエルフォートに共通する、オーラのようなもの。
「魔王さま……?」
七都が呟くと、若者は顔を上げた。
彼の顔つきが、仮面のように表情のないものになる。
七都に注ぐ視線は、ジエルフォートよりも強烈だった。水色の透明な目が、凍りついた炎のようだ。
「あなたは……七人の魔王さまのうちの、誰か?」
自分でもよくわからなかったが、七都は彼にそう訊ねていた。
なぜかそんなふうに思えた。彼の正体がそうだと。
彼の額には、確かに冠があった。今は、はめられてはいないとはいえ。
おそらくとても長い間、金の冠はそこにはめられていたのだ。それは確かなような気がした。
「そう思うか?」
彼が猫のように目を細めて、七都に訊ねる。相変わらず、七都を射すくめるような視線のまま。
顔つきだけではなく、声のトーンも変化していた。
今までの、どこか少年っぽい親しみのある声ではなくなっている。近寄りがたいくらい厳かで、すくんでしまうような声――。
七都は少しめまいを感じながら、それでも彼の目を見つめ返した。
目を逸らしたら、今自分の言ったことが、きっと冗談になってしまう。だが、彼の視線を受け止めていると、気が遠くなりそうだ。
だから、魔貴族は魔王と目を合わせたがらないのだろう。
こんなふうに見られたら、凍り付いてしまう。
何も言えないし、何も出来ない。圧倒されて、まともにものを考えることさえ困難になってくる。
ナイジェルも、こういう目つきをするのだろうか。
「は……はい。あなたの額に、冠のあとが見えます。それは魔王さまの冠です」
七都は答えた。自分の勘を確かめるため。そして、自分の発した言葉を本物にするために。
お辞儀しなくちゃ。
この人は間違いなく魔王さまだ。どの魔王さまかは知らないけれど。
七都はぎこちなく両手を重ねて、ゆっくりと頭を下げる。キディアスの真似をして。
うまく出来ただろうか。
だが、お辞儀には程遠く、ラジオ体操か何かのようになってしまった気がする。
彼は、七都のお辞儀を見て笑った。噴き出したのかもしれない。
途端に視線の圧力は消え、それまでの穏やかな表情に戻る。
七都は息苦しさから開放され、ほっとしたが、自己嫌悪も感じた。
そんなにお辞儀が変だったのだろうか。笑われるほど。
わたしは風の王族の姫君らしいのに。とても恥ずかしい……。
「そうか。そなたは、ミウゼリルの娘か……」
彼が呟いた。
ミウゼリル? ミウ? 美羽?
お母さんのこと?
「さすがというべきかな。冠のことには鋭い。そなたの言ったことは、だいたい当たっている。ただ正確には、少し違う」
ということは、やっぱり魔王さまなんだ?
おまけに、わたしのお母さんのこと、知ってる?
「わたしの母をご存知なのですか?」
七都は、彼に訊ねた。
「ミウゼリルには、気の毒なことをさせてしまったと思っている」
「え?」
「そなたにも寂しい思いをさせているね。非常に心苦しい」
「え……。待って下さい。…ってことは、わたしの母が家を出て行ったのは、あなたのせいなんですか!?」
「心外だな。彼女は自分でそうすることを選んだ」
彼は言ったが、それほど心外でもなさそうだった。あたたかい眼差しを七都は感じる。
「母は、どこにいるんですか? 何をしているんですか? 何でうちを出て行ったんですか?」
「本人に聞けばいい」
彼は手を大きく広げ、それをそのまま天井にかざした。
途端に七都は、浮き上がる。
「あ……。待って……」
「いずれそなたとは、また会うことになるのかもしれぬ。私はそれを望むが……。今はさらばだ。久しぶりに誰かと話が出来て、少し和めた。礼を言う」
やがて、彼の姿も銀の扉も、平たい灰色の中に閉ざされるように消えてしまう。
七都の意識は、さまざまな色が混ざり合う厚い空間を上昇し続けた。




