第4章 光の回廊 10
ジエルフォートの城の窓から出た七都は、再び光の都の上空を飛び、水の都を目指した――つもりだった。
けれども、突然何かに、ぐいと引き寄せられたような気がした。
途端に七都は、自分がどこにいるのかわからなくなる。
ずっと雲の中のような白い空間が続くので、少しでも感覚がずれると、もうお手上げだった。
どこを見回しても雲の白しかない。どちらに進めばいいのかもわからない。
やはり無理だったのだろうか。魔の領域の中を散歩するなんて。
よく考えてみれば、人間の住んでいるところとは違うよね。
ここは、魔力に満ちている。
何せ、住んでいる人全員が魔力を使えるんだもの。
七都は、安易に出てきたことを、少し反省する。
シャルディンのところに行けたのは、彼がわたしのアヌヴィムだから。わたしが分けた魔力を体の中に持っているから。
セレウスのところに行けたのは、遺跡の近くだし、彼がわたしの髪を持ってたから。
カーラジルトは、わたしの体の中に入ったことがあるので、その痕跡をたどって。
そう考えたら……?
道しるべになるものがあるところには、一瞬で行けることになる。
だとしたら、それ以外のところに行くのは無理なのだろうか。
だが、ナイジェルは、額に口づけの印をくれている。
それは道しるべにはならないのだろうか。
七都の真正面に、何かが現れた。
長方形の、銀色に輝くもの。
それは灰色の壁の中にはめこまれ、ぴったりと閉ざされていた。
(これは……。扉……?)
七都は、その扉の前に立つ。足の下には、灰色の冷たそうな床が広がっていた。
周囲には、同じ灰色の壁と天井がある。
壁には赤や青、オレンジ色の小さな光が、規則正しく並んで輝いていた。
モニターとキーボードを思わせるような四角いスクリーンやボタン、そしてドーム形の計器のようなものも、壁の中に埋め込まれているのが見える。
どこかの建物の中のようだ。いつの間にか迷い込んだらしい。
銀色の扉は、低い階段の上にあった。
七都は扉に近づいてみた。
扉の中から、呼ばれているような気がする。
誰かが自分を呼んでいる?
(おいで。こちらへ。長かったね。つらかったね。おいで。慰めてあげるから……)
誰かが、そうささやいている。
何か……。
何かが、この中にいる。
何だろう。
七都は、階段を上がった。
扉は、当然通り抜けられるだろう。
ちょっとのぞいてみよう。のぞくだけ。
この向こうに、何があるのか。
(おいで。おいで……。慰めてあげるよ。そっと抱きしめてあげるよ)
そんなこと言われたら……。そんなにやさしくささやかれたら……。
無理して保っている何かが、ぽきんと折れてしまいそうになる。
(おいで。ここは楽しいよ……。少し休んでお行きよ……)
七都は両手を伸ばし、それを扉に近づけた。
このまま真っ直ぐ進めば、簡単に通り抜けられる。
楽しいの?
じゃあ、わたしも、ちょっとだけ楽しんでいい?
少しだけ休ませてもらってもいい?
だが、七都のてのひらが銀の扉にめりこもうとした瞬間――穏やかな声がした。
「だめだよ、その扉の中に入ったら」
「え?」
七都は、ブレーキをかけられたように立ち止まった。そして、声のほうを振り返る。
七都が今上がってきた階段の一番下の段に、誰かが座っていた。七都に背を向けて。
「もし入ったら、中にいるものに取り込まれて、二度と出られなくなるよ」
「……」
その人物が、振り向く。
透明な水色の目が、七都を見つめた。
その人物の髪は、淡い銀色。
(ナイジェル――?)
一瞬そう錯覚したが、彼ではなかった。
ナイジェルと同じ色の髪、同じ色の目の若者――。
外見は、ナイジェルよりは年上のようだ。二十代前半くらいに見える。
若者は、にっこりと七都に微笑んだ。その笑い方も、どことなくナイジェルに似ている。
「あなたは……水の魔神族?」
若者は頷いた。そして、立ち上がる。そのすらりとしたシルエットも、ナイジェルを思わせた。
「じゃあ、ここは水の都?」
だとしたら、ちゃんと目的地に来たことになる。途中で迷って大きくはずれてしまったような気がしたのだが、結局たどり着けたのだ。
だが、ナイジェルに似た若者は答えた。
「ここは、風の都だよ」
「え……。風の都!? 本当!?」
七都は、あんぐりと口を開けた。
水の都とは、全く方向が違う。だが、もともとの七都の目的地だ。
あっけなく、いとも簡単に到着出来てしまったことに、七都はショックを受けた。
むろん体は光の都にあるので、意識だけということになるのだが。
風の都。ここが風の都だなんて……。
「そう。本来、きみがいるべきところだと思うけど……?」
若者はそう言って、七都をしげしげと眺めた。
「あなたは……わたしのこと、知ってるの?」
「知らないよ。だが、その髪と目の色は、風の王族か、もしくは火の王族に多いから」
「うん。当たり。風の王族なの」
「やっぱり、そうなんだ」
若者は、微笑んだ。
「わたし、ここに来たかったの。ずっとここを目指してた。でも、意識だけ風の都に来ても、あまり意味がない……」
「じゃあ、体も連れておいで」
「うん。たぶんもうすぐ、そう出来る。今、治療中だから」
「そう。よかった……」
若者は、本当に安堵したように呟く。七都のひどい怪我が、大層気になっていたようだ。
「あなたは誰? ここで何してるの? 水の魔神族なのでしょう?」
七都は、彼に訊ねた。
なぜ水の魔神族が、水の都ではなく、風の都にいるのだろう?
風の都には、風の魔神族しか入れないはずなのに?
「私は、番人。ここにいて、この扉の中のものが外に出ないように見張っている。そして、きみのように、この中にいるものの声に誘われて、ふらふらとここに来てしまった人たちに警告している」
若者が言った。
「番人……?」
七都は改めて、その番人だという若者を眺めた。
白いフード付きマントは、魔神族がよく羽織っているものだが、それを首のところでさりげなく留めているブローチは、一見シンプルに見えるとはいえ、宝石のはめられた見事な細工のものだ。
マントの下の服も、かなり上等のもののような感じがする。
この人、わたしが王族だということを知っても、態度が変わらない。
キディアスみたいに慇懃無礼にはならないし、地の魔貴族みたいに固まらない。
ということは、この人も、もしかして王族?
ナイジェルに似ているということは、水の王族で、ナイジェルにとても近い人なのかもしれない。
七都は、思った。
だけど、何で水の王族が風の都で番人なんかしてるの?
「ここで番人をすることが、あなたの仕事?」
七都が訊ねると、若者は首を振った。
「いいや。仕事じゃないよ。私が勝手に、ここでそういうことをしているだけ。ついでというか。暇つぶしというか」
「ついで? 暇つぶし!?」
七都は、若者の信じられない答えに、あっけにとられる。
「そ、そういう気軽さで番人やってるの? この中に、とても危険なものがいるんでしょう!?」
七都は、銀の扉を指差した。
「でも、もともとここには番人なんて置いてないからね。だから、私が自発的にそういうことをしているだけ。私も、いつもここにいるわけじゃないよ。私がここにいる目的は他にあるから、もちろんそちらを優先させる」
若者が言った。
ボランティアか……。
七都は、溜め息をつく。
「じゃあ、私があなたに助けてもらったのは、運がよかったんだね」
「そうだね」
若者は、微笑んだ。
「よかった。あなたに声をかけてもらって。もし注意されなければ、間違いなく扉の中に入ってた……」
そう考えると、ぞっとする。
中に取り込まれて、二度と外には出られない。
たとえ体の傷が治ってあの水槽から出られても、意識は戻らないことになる。
七都を囲んでパニック状態になっているアーデリーズたちの姿が浮かんだ。
「この扉の中に、いったい何がいるの?」
七都が訊ねると、若者の表情が固くなる。
「幽霊……」
彼が呟いた。
「幽霊……?」
<風の都は、幽霊たちの住む都市……>
見張り人が言った言葉が、七都の頭の中をぐるぐると回る。
その幽霊?
幽霊って、何?
「風の城にいる人たちに、何とかしてもらいたいんだけどね。それをするのは、彼らの役目だ」
若者が言った。少し真面目な顔をして。
「風の城にいる人たちって風の王族のことでしょ。それって、つまり、わたしのことも指してる?」
「たぶんね」
若者が、ナイジェルと同じ色の目で七都を見つめた。
「わたし……いつか、その幽霊と対決しなきゃならない?」
「大丈夫だよ。生身のものに対しては、何もできやしないから。むしろ対決しなきゃならないのは、どちらかというと幽霊ではなく、きみの心になるかもしれないね」
若者が言った。
「意味がわからないんですけど……」
「今はわからなくてもいいよ」
若者は、大人っぽい微笑みを浮かべる。
「あなたがここにいる本当の目的って何なの? 教えてもらってもいい?」
七都は、彼に訊ねた。




