第4章 光の回廊 9
七都は、避難所から出た。
何の抵抗も感慨もなく、重い扉をほぼ無意識に通り抜けて。
明るい太陽の光が、七都を包み込む。
刺すような痛みもなく、目のくらむような眩しさも感じなかった。
ただ明るいだけの、ぼんやりした光。
やがて光は霧に飲み込まれたかのように、白い空間の中に分散してしまう。
見えなかった。カーラジルトにも、わたしが。
やっぱり、見えないんだ。化け猫さんなのに……。
七都は、うなだれる。
猫たちには見えたみたいだから、もしかしたら彼には見えるかもって思ったのに。
やっぱり猫とグリアモスを一緒にしちゃいけないな。
カーラジルトにも自分が見えないことは、やはりショックだった。アヌヴィムのシャルディンに見えないことがわかった時ほどではないにしろ。
結局、誰にも見えないのだ。
シャルディンにも、セレウスにもゼフィーアにも、そしてカーラジルトにも。
彼らに会えたことは嬉しい。でも。
寂しい……。とても寂しい。
とはいえ、見えないことに、ほっとしてもいる。それは確かだった。
もし、カーラジルトにわたしが見えたりしたら?
カーラジルト、怒るに違いないよね。わたしが薬を飲むのを怠ったなんて知ったら。
彼、あまり怒んないから、きっと怒るとすごく怖いに違いないんだもの。
氷の炎って感じで、静かに怒るかな。ぶち切れて、グリアモスになって暴れちゃうかも。
それか、わたしに怒らないで、自分に怒ってしまうかな。
エディシルをわたしに与えなかったことを、とても悔やむかもしれない。
自分を責めて、とてつもなく落ち込んじゃうかもしれない。
ということは、見えなくてよかったんだ、彼も。
みんな、見えなくてよかったんだよね。
余計な心配をさせずに済んだから、これでよかったんだ、きっと。
七都の真正面に、黒味を帯びた、きらめく青い宝石が二つ現れた。
白くぼやけた空間の中に、その暗い青だけが浮かんでいる。
それは次第に、目だということがわかってきた。
黒味がかった、深い青の目。極地の海の色のような、今にも凍りつきそうな、黒に近い暗いブルー。
その二つの青い宝石は、七都をじっと見据えている。
それは、整った透き通るような白い顔の中に、きっちりとはめこまれていた。
(キディアス……?)
キディアスは、七都を見つめていた。
瞬きもせず、目と顔が固定されたかのように、ただ見上げている。
キディアス……。
……ってことは、戻ってきたんだ、あの水槽に。
光の都のジエルフォートさまの研究室に。
七都は、キディアスのほうに手を伸ばした。
キディアスに届く前に、滑らかな冷たい壁がその手を阻んだ。
透明な壁。水槽の壁だ。
やっぱり、あの水槽の中なんだ。
七都は、自分を包み込んでいる不思議な水の存在を――その生ぬるい温度と質感を、改めて体全体で感じた。
キディアスの後ろを、白い服を着た影が通る。
白い髪と赤い髪の二人。ジエルフォートとアーデリーズだった。
彼らもまた七都からは、白っぽく見えた。
美しい彼らは、雲の中を通って行く神話の中の神々のようだ。
二人は、両手にたくさんの書類や機械を抱えていた。
キディアスは振り向いて、丁寧に挨拶をする。
ジエルフォートは、キディアスに親しげに微笑みかけた。
「やあ、キディアス。ナナトに夢中だねえ。あまり眺めていると、魅入られるぞ。シルヴェリスの正妃になる子なんだろう?」
キディアスは黙ったまま、再び頭を下げる。
アーデリーズは、金色の目を七都にちらりと投げかけた。
心配そうな目。痛ましいものを見る視線だ。
彼女の表情から、まだ七都の怪我がひどい状態のままであることがわかる。
並んだ二人の魔王たちの姿は、七都の前を横切り、すぐに七都の視界から消えてしまった。
水の魔王の腕をつくるという彼らの仕事を、ずっと続けているのだろう。
七都は、キディアスの前の透明な壁をたたいた。
キディアスが、はっとして、七都を見上げる。
その目は、無表情な人形のような七都の赤い目を、確認するように覗き込んだ。
「戻られましたか?」
彼が、遠慮がちに呟く。
七都は首をかしげて、キディアスの目の前で手を広げてみせた。自分の手が、真っ白な細いヒトデのように見える。
キディアスは、その七都の手のひらに、黒い手袋をはめた自分の手を、水槽の壁の向こう側から合わせた。
「聞こえます、ナナトさま?」
(うん。聞こえるよ……)
一応七都は、心の中で返事をした。それがキディアスに伝わるかどうか自信がなかったので、彼に訊ねてみる。
(私の声は、聞こえる?)
「聞こえるというか、感じますよ。頭の中でね」
キディアスが答える。
(じゃあ、話は出来るね)
「今までどちらへ行っておられたのですか?」
(魔の領域の外。人間の暮らしているところ。シャルディンにもセレウスにもゼフィーアにもカーラジルトにも会ったよ。でも、みんな私が見えなかったの……)
「そうですか。では、私は特に気落ちする必要もないですね。皆さんと同じように、私もあなたが見えなかった。そういうことですから」
(そうだね。わたしが見える人のほうが少ないのかもしれない。……ところで、キディアス。ずっとわたしを見てたの? ジエルフォートさまのあの言い方だと、そんな感じがしたけど?)
七都は、キディアスを見下ろして、訊ねた。
「ええ。魔王さまお二人はとてもお忙しそうなのですが、私がお手伝いして差し上げることもできません。シルヴェリスさまの機械の義手が出来上がれば、お二人を水の都にご案内することになってはいるのですが、それまで取り立ててすることもありませんし……」
(それでわたしを見ていたの?)
「はい。ナナトさまはとてもお美しいので、見飽きることはありませんから」
キディアスが、にっこりと笑う。
(お美しいって? こんな醜い傷があるのに?)
「それもまた、妖艶というか、妙に退廃的で恐ろしげな魅力がありますよ。釘付けになってしまいます」
キディアスって、絶対Sだ。
七都は、ちらっと思う。
だが、キディアスに怪我を見られているということは、当然それ以外の体のすべても見られているということになる。
ドレスも水の中で羽衣のように漂って、その下の足も、おもいっきりあらわになってしまっているのだ。
いやだな。この人にじっと見られてるなんて。そうされていることに対して、どうすることも出来ない。
ジエルフォートさまだってエルフルドさまだって、わたしを見るときはかなり遠慮して、視線をはずしてくれてるみたいなのに。
不快感が、じんわりと駆け上がってくる。
今のわたしは、結構、エロいことになってるかもしれない。
魔神族って、ほとんど下着らしい下着をつけないみたいだもの。
軽すぎる衣装だって、体のラインがもろにわかるし。ラーディアや侍女たちが着ている服も、見ようによっては結構きわどい。
魔神族はきれいな人ばかりだから、見るなら見れば? とか、見てもいいよっていうのが、服装のデザインの前提になっていたりするのかな。
七都は、思う。
ゼフィーアは女性。シャルディンはわたしのアヌヴィム。カーラジルトは同族で、お母さんと親しかったみたいで、わたしの側近になるかもしれない人。
だけど、この人は異性で、まるっきりの他人だ。ナイジェルの側近ってだけ。おまけに、わたしに殺意を持ってたし……。
「ジエルフォートさまのご先祖さまのお気持ちも、何となく理解できますよ。この水槽に、傷つけた美少年美少女を放り込んで観賞したという、そのお気持ちがね」
キディアスが言った。七都を、それこそ頭のてっぺんから足の先まで、丁寧に眺め回しながら。
(ねえ、キディアス)
七都は、水槽の向こうに立つキディアスに顔を寄せる。
二人は透明な壁を隔てて、恋人同士の距離まで接近した。
「はい?」
(わたし、ここから出たら、まずあなたをぶん殴ってもいーい?)
「よろしいですけれど。ただ私は、黙ってぶん殴られてはいませんからね。防御はさせていただきますよ」
キディアスが、にやっと笑って答えた。
ほんと、ムカつく。
七都はキディアスを睨んだ。
だけど、この人は、二人の魔王さまにわたしを助けるように頼んでくれたんだ。
七都は、思い出す。
魔貴族が魔王に願い事をするなんて、許されないことだろうに。
しかも、常に冷静に見えるこの人が、あんなに取り乱した様子で……。
びっくりしたけど、ちょっと嬉しかった。
あれはきっと、普段のこの人らしくない言動だ。それを敢えてしてくれた。わたしのために。
本当のところは、わたしのためじゃなくて、ナイジェルの正妃候補だから、ナイジェルのためにそうしたのかもしれない……とはいえ。
なら、別に見られても許せるかな。
でも、やっぱり、どうしても拭い去れない抵抗感はあるんだけど……。
キディアスは、穏やかな、そして少し眩しげな眼差しで七都を見つめた。
「ナナトさま。あなたはね、大変なことをされたのですよ」
(え? なあに。わたし、何かした?)
「あなたは二人の魔王さまに、ご自分の願いをかなえさせたのです。シルヴェリスさまの機械の腕を二人の魔王さまにつくらせているのですよ。これは、とんでもないことです」
キディアスが言った。
(なんか成り行きで、そういうことになっちゃった。でも、キディアス。よかったね。あなたの立場からだと、これでナイジェルも人前に出せるってことでしょ。地の魔王さまと光の魔王さまがつくった義手なんだから、誰も文句のつけようがないもの。きっと素敵な腕が出来るよ。ナイジェルを外に出してあげてね。前と同じように)
「もちろんですよ。銀色の機械の腕を付けられたシルヴェリスさまは、どんなにお美しいことでしょう。腕が出来上がったら、ナナトさまもぜひご一緒に、水の都に来ていただかねばなりませんね。腕が出来るより、ナナトさまがお元気になられるほうが先のようですが、少し待っていただいて。シルヴェリスさまは、どれほどお喜びになられることか」
弾んだ声で話すキディアスを、七都は制した。
(キディアス。何度も言ったはずだけど。わたしは風の都に行く。水の都には行かないよ。それに、わたしが水の都に行ったら、あなたにナイジェルと一緒に閉じ込められそうだ)
七都が言うと、キディアスは真面目な顔をした。
「それはそうですね。そうすると思います。ナナトさまには、シルヴェリスさまと親密になっていただかねばなりませんし」
そうすると思いますって……。
あっさりというか、当然というか、もちろん認めちゃうわけね。
(じゃ、やっぱり遠慮しとく。あなたはジエルフォートさまとエルフルドさまを連れて、水の都のシルヴェリスさまのところへお行きなさい。わたしは風の都のリュシフィンさまのところへ行く。あなたとはここでお別れだよ。それでいいじゃない?)
「やはり、行かれるのですか……」
キディアスが、残念そうに呟いた。
(うん。早く風の都に行かないと、夏休みが終わっちゃう)
「ナツヤスミ? 何ですか、それは?」
キディアスが、セレウスと同じような表情で同じような質問をしたので、七都は思わず笑い出しそうになる。
(また機会があったら、説明する。キディアス、わたしがここから出られるまで、まだ当分かかりそう?)
「そうですね。ナナトさまは、この回廊のまだ半分までも来られていませんから。怪我も、ほとんどそのままの状態ですしね」
(じゃあ、もう一度散歩に行ってみる。こういうことってめったにないもの)
「確かに、そうかもしれません」
キディアスは、頷いて同意する。
(今度は魔の領域の中を見てくるね。ナイジェルを探してみようかな。彼にわたしの姿が見えるかどうかわかんないけど。こんなに近くにいるんだものね。この先、いつ会えるかもわからないから)
「シルヴェリスさまが、ナナトさまを認識されるとよろしいのですが」
キディアスは、心配そうに眉を寄せる。
(見えなくても、もうへこまない。またいつか、きちんと生身で会うから。キディアス、水の都はどっち?)
キディアスは、七都の真正面を指し示した。
「おそらく、真っ直ぐこの方向かと」
(わかりやすい。ありがとう。じゃ、行くね)
「行ってらっしゃいませ」
キディアスは手を胸の前で重ね、丁寧に、そして優雅に頭を下げる。
七都は自分の体から抜け出そうとしたが、ふと目の前のキディアスを眺めた。
人間のマーシィの体の中には、入れた。魔神族の中にも入れるのかな?
そういう疑問が頭をもたげてくる。
ちょっと通り抜けてみるような感覚で、やってみよう。長居は無用だ。
七都は手を前に伸ばし、前と同じ要領で、水槽の壁から抜け出た。
キディアスが、暗いブルーの目を大きく見開く。
彼は操り人形のように、ぎこちなく片手を上げた。そして、自分で自分の頬をぎゅうっとつねる。
「な、ナナトさま!?」
(ごめんね。ちょっとだけ試させてもらった)
キディアスの頭の中に、七都の笑い声が響いて、遠ざかった。
彼は呆然と、彼の意思を無視して勝手に動いた自分のその手を見つめた。そして、目の前に天女のように浮かんでいる七都に視線を移す。
七都の白すぎる顔に表情はなく、赤い眼はガラスのように空虚で、何も見てはいなかった。
キディアスは、低い声でククッと笑う。
「頼もしい方だ。ナナトさま。私もあなたが大変気に入りましたよ」
キディアスはゆったりと腕を組み、軽く微笑みを浮かべながら、透明な回廊を漂って行く七都を再び追いかけ始める。




