第4章 光の回廊 8
カーラジルトは、夢を見ていた。
彼にとっては、それほど遠い過去ではない、その記憶。
確かに一緒に過ごし、何度も同じ時を共有した、幼い少女の姿。
「カーラジルト、こっちよ、こっち!」
彼の前を笑いながら駆けて行く、小さな影。
ふわふわと風に流れる、緑がかった黒の、神秘的な長い髪。
その目は透明な濃い赤紫。昼間の太陽の光の下では、暗い赤に輝く。
ごく最近までその赤い目は、鮮やかな青色の膜に覆われていた。
ラベンダー色の空。その下に広がる、花で溢れた庭園。
少女は庭園を走り抜けて行く。
彼女の白い手に握られているのは、カトゥースの花びらを重ね、蝶に似せて作った玩具。
草の長い茎にくくりつけられた花びらの蝶は、カーラジルトのすぐ前で、彼を挑発するようにかわいらしく揺れていた。
「じゃれて、カーラジルト!!」
少女は笑いながら、ばさばさとそのカトゥースの蝶を細かく揺らした。
カーラジルトは、溜め息をつく。
全く、あなたは。
いつも私を猫扱いされる。
あきれながらも彼は、屈託のない少女の笑顔をまぶしげに見つめる。
その額には、金色に輝く冠。華奢で小さな彼女がつけるには、幾分重く荘厳すぎる装飾品だ。
それが似合うようになるには、彼女はもう少し成長しなければならないだろう。体も、もちろん心も。
明るい笑い声が、花々の間を通り抜けて行く。
カーラジルトは、仕方なく大きな猫の姿になり、彼女が操る蝶を追いかける。
ひとしきり遊んで疲れると、白い小さな花が敷き詰められた草の絨毯の上に、彼女は寝転がった。
カーラジルトは、彼女の手に自分の頬を押し付ける。
「くすぐったい、カーラジルト」
彼女は、カーラジルトの首を抱きしめた。
「ねえ。カーラジルト。お外に連れてって」
彼女が言う。
(ここから出るには、あなたはまだ小さすぎますよ)
彼が答えると、彼女は不満そうに口を尖らせる。
「じゃあ、大人の姿になる。あなたぐらいの歳になればいい? 猫じゃないときのあなたと同じくらいの」
(外側だけではだめです。中身も同じように大きくならなければね)
彼は翡翠色の不透明な目で、彼女を見下ろす。
グリアモスの姿にならないと、彼女の目を覗き込む勇気は、正直なところ持ち合わせてはいなかった。
それは、魔神族として生まれ育った彼の呪縛であり、やっかいな慣習でもある。
「あなたは別の世界に行ったことがある?」
彼女が訊ねた。
(ありません。行きたいとも思いませんね)
「後ろ向きな考え方するんだ、カーラジルト。行こうと思えば行けるのに。もったいないなあ」
(行く必要がないからです。私には、この世界だけで十分)
カーラジルトは、ぺろりと彼女の手の甲を舐めてみる。
「私は、別の世界に行ってみたいな。早く成長しなくちゃ。いつ行けるかな」
(きっとすぐに行けるようになりますよ)
彼女は、カーラジルトに笑いかける。
こぼれるような、やさしく、まぶしい笑顔。
彼女は、きっと美しい女性になるだろう。
カーラジルトは確信する。
誰もが心を奪われ、憧れる、すばらしい女性に。
あなたは恋をするのだろうか。
だが、ここであなたの相手を見つけるのは、少々難しいかもしれない。
たいがいの魔神族の男は、怖気づいてしまうだろう。あなたの身分と素性を知ってしまったら。
誰もあなたの目を見て、まともに話すことは出来ないだろう。
あなたのお相手は、異世界で探すしかなくなるのかもしれない。
けれども、果たしてそれは、あなたに幸福をもたらすものになるだろうか。
いつの日か、あなたのその笑顔が曇り、悲しみがあなたを支配してしまうかもしれない。
あなたは涙を流すのだろうか。
人間の血が混じっているあなたの目からは、人間のような美しい透き通った涙が、いつか溢れ出すのだろうか。
ふと視線を感じて、カーラジルトは振り向く。
花畑の向こうに聳える風の城。その窓のひとつに、彼らを見つめる目があった。
彼の前にいる少女と同じ、濃い赤紫の目。太陽の下では暗い赤に見える、透明なその目。
銀色がかった長いチャコールグレーの髪の若者が、窓から、庭園で遊ぶ彼らをじっと眺めていた。
若者の肩には、緑を溶かした金色の目の小柄な黒い猫が、毛皮で出来た装飾品のように、ふわりと乗っている。その猫は、グリアモスが化けた猫だった。
(そろそろ、私は退散します)
カーラジルトは、少女に言った。
「なんで? もっと遊ぼうよ」
彼女は不満そうにカーラジルトを見上げる。
(あなたの保護者どのが、ご立腹だ)
少女は窓のほうを振り返る。彼女の目が、窓の枠の中に影絵のようにはまった、チャコールグレーの髪の若者の姿を捉えた。
「あの人は、私には何も出来ない。平気だよ」
少女が呟く。
「あなたが平気でも、私はそうではありませんから」
カーラジルトは、魔神族の青年の姿に戻った。
「あの人は、何でいつも私たちを見張ってるの?」
少女は、窓の人物を睨む。
「心配しておいでなのですよ。こうして常に一緒にいて、私たちが親しくなりすぎてしまわないかと」
「なんで親しくなったらいけないの?」
「あなたが結婚相手に私を選ぶのではないかと、おそれておられるのです」
少女は、眉を寄せてカーラジルトを見つめる。カーラジルトは、彼女の透明なワインレッドの瞳から、無意識に目を逸らした。
もし時が来て、彼女が自分を選ぶようなことになれば、自分はそれに抗うことは出来ない。本能のままに受け入れるしかないのだ。発情期の女性に選ばれた魔神族の男性の、誰もがそうであるように。
だが、グリアモスと交わり子をなすことは、魔貴族には許されていても、王族には許されぬこと。王族の中にグリアモスの血を入れてはならない。
もし彼女が自分を選び、そういう結果になってしまえば、自分も彼女との間に生まれてくるはずの子供も、命を断たれてしまうだろう。
「おかしなこと言うのね、カーラジルトは。私があなたを選ぶわけないじゃない。カーラジルトには、婚約者のシイディアがいるんだから」
彼女が言った。カーラジルトの逸らした目を追いかけて。
「魔神族はね、恋をすると見境がなくなるんです。自分を見失ってしまう。相手に婚約者がいるかどうかなんて、関係なくなるんです。そんなこと、どこかに吹き飛んでしまうんですよ」
カーラジルトは、彼女に説明する。小さな子供に大人の事情を説明するのは、全く難しい。そう思いながら。
「私は、そんなひどいことなんてしないよ。シイディアからカーラジルトを取っちゃうなんて」
少女が真剣な表情で言った。
「そうですね。あなたには、そういう本能に惑わされた一時的な恋ではなく、本物の恋をしていただいて、そして、心から愛し愛された方と結婚していただきたいですね」
カーラジルトは、立ち上がった。
「とにかく、今回はこれで失礼させていただきますよ」
「つまんないの。また来てね、カーラジルト」
「ええ。もちろん」
「シイディアに会って行くの?」
「会いますよ。何なら、あなたも一緒に来られますか?」
カーラジルトは、彼女に訊ねた。
「行かない」
少女は、首を振る。
「だって、シイディア、とても怖いところにいるんだもん」
「怖いところ? 私はそんなふうには思えませんが?」
カーラジルトは、猫のように首を傾げてみせる。
「カーラジルトには、何も見えないからだよ。私には、カーラジルトの見えないものがたくさん見えるの」
彼女が言った。少しおびえているように、表情が曇る。
「では、私は、そういうものが見えなくてよかったということですね」
「たぶんね。でも……」
彼女は、カーラジルトをじっと見据えた。
「カーラジルトには、見えたほうがよかったのかもしれないよ」
「……それはまた、なぜですか?」
彼が問いかけると、彼女は空を眺め、それから溜め息をついて、首を振った。
「じゃあね。また遊ぼうね、カーラジルト」
彼女は明るくカーラジルトにそう言い残し、庭園の中に走って行ってしまう。
小さな彼女の姿は背の高い花々の中に隠れ、あっという間に見えなくなった。
カーラジルトは、しばらくそのまま風に吹かれていたが、やがて彼もそこから立ち去った。
彼らを見つめていた、赤紫の目と猫の金の目も窓からいなくなり、庭園には、風に揺れる木々と花々だけが残される――。
カーラジルトは、目を開けた。
何かを感じたような気がした。誰かが入って来たような……。
そこは、避難所の中だった。
地の魔神族が造った、石の床の小部屋。七都とカーラジルトが抱き合って眠った、地下の避難所――。
床には七都が引いた白い線が、まだそのまま残っている。
カーラジルトは、その線の上に横たわっていた。
「誰だ?」
カーラジルトは頭を少し上げて、あたりを見回す。
だが、彼には何も見えなかった。耳をそばだてても、何も聞こえない。
彼のすぐそばで彼を見つめている、将来彼の主君になるかもしれぬ風の王族の姫君の姿は、彼の翡翠色の目に映ることはなく、彼の名を呼ぶその声も、少し尖った彼の耳に届くことはなかった。
何度も部屋の中を見渡したあと、彼は、再び頭を元の位置に戻した。
納得のできない気持ちの悪さはあるが、とにかくここには誰もいないのだ。
自分には何も見えないし、聞こえない。
あの方がここにおられたら、何か見えるのやもしれぬが……。
懐かしい夢を見た。
ミウゼリルさま。
あなたは、今、どこにおられるのか――?
カーラジルトは、石の天井を見つめる。
眠ろう。再び、心地のよい夢の中に戻ろう。
まだ太陽は高い。闇が降りてくるまでには、たっぷりと時間がある。
カーラジルトは、目を閉じた。




