第4章 光の回廊 3
「あの水の中に入るとね、体と意識が分離するんだ。もちろん、そういうことを魔力を使ってやってのける魔神族も多いけど、あの水の中では魔力を使うことなく、楽に、ごく自然に出来てしまう。どこに行こうと自由だよ。好きなところに飛んで行けるし、いつでも自分の体に戻って来られる。扉だって岩だって、通り抜けられる」
幽体離脱……。
そういうことだ、きっと。
七都は、水槽の中の自分の体を眺める。自分の手のひらを透かして、その向こうに。
「ナナト……」
アーデリーズが七都に手を伸ばした。
だがその手は、七都に触れることなく、通り抜けてしまった。
「ここにいる彼女にさわることは出来ないよ。これは彼女の意識。体は水の壁の中で治療中だ」
ジエルフォートが言う。
「ナナト。あなた、だいじょうぶ? 苦しくない? あんな水の中に入れられて……」
アーデリーズが訊ねた。
「うん。だいじょうぶ。頭は何だかぼうっとしてるけど……。あの不思議な水が傷を治してくれてるのは、確かに感じるよ。ありがとう、アーデリーズ。ごめんなさい、皆さん。心配かけて」
七都が言うと、アーデリーズは、ほっとした表情を浮かべた。
そして、触れられないとわかっているはずなのに、手を差し出し、七都の頬の位置で指を止める。
アーデリーズは七都を撫でる素振りをし、七都も彼女に撫でられているかのように、軽く目を閉じた。
「ナナトさまは、そこにおられるのですか? 幽霊になって?」
キディアスが、相変わらず疑問符だらけの顔つきをして、七都が立っているあたりに視線を漂わせる。
だが彼の目は七都を突き抜けて、その向こうの機械たちの間をさまよった。
「私には見えません」
「どうも、見える者と見えない者に分かれるようだよ。私があの中に入れられたときもそうだった。見えない者は当然私を無視し、見える者は親しく話しかけてきた」
ジエルフォートが言う。
「それはどういう基準なの? 見える人と見えない人って?」
アーデリーズが訊ねた。
「わからないね。でも、ナナトが見えるのは、ナナトに慕われている者だけじゃないか?」
ジエルフォートはそう言って、くすっと笑う。
「そういうことなら、納得ですね。私はあの方には慕われていませんから」
キディアスが呟く。どことなく開き直った雰囲気で。
「それどころか、嫌われているようですし」
「ふうん。きみはナナトに嫌われているんだ? ナナトに何かしたんだろ?」
ジエルフォートが、さらにおかしそうに、くくっと笑った。
「それでか? 今ナナトはきみに、あーんなことしたり、こーんなことしたりしてるよ」
キディアスが、ものすごい形相をして、その場から飛びのいた。猫がジャンプするよりも素早かった。
「し……してませんけど」
七都は、大笑いしているジエルフォートをあきれて眺める。
あんなこととか、こんなこととかって、どんなことだよ?
「嘘よ、キディアス。彼はあなたをおちょくっただけ。ナナトはあなたに何もしていないからね」
アーデリーズが言った。そして彼女は、めんどうくさそうにジエルフォートに注意する。
「いい加減にしなさい、ジエルフォートさま」
「まあ、キディアス。ナナトもそのうち、許してくれるだろうから」
ジエルフォートが笑いを噛み殺しながら、キディアスを励ますように、明るく言った。
「ジエルフォートさま。わたしは自由にどこにでも行けるって、おっしゃいましたよね?」
七都は、彼に訊ねる。
「行けるよ。行っておいで。貴重な体験だ。きみがこの透明な回廊を一周してしまったら、そういうことはもう出来なくなるからね」
「じゃあ、わたし、ちょっと散歩してきます」
「だけど、遠くまで行ってはだめだよ。異世界なんかに行って迷ってしまったら、もう戻って来られない。本物の幽霊になって、その世界をさまようしかなくなるよ」
ジエルフォートが、真面目な顔つきをして言った。
「はい」
七都は、素直に頷く。
「ナナト、気をつけてね。早くきれいになったあなたを見たいわ」
アーデリーズが言った。
七都は彼女に微笑んで、飛び上がる。
七都の体はふわりと浮き、あっという間に研究室の窓を越えた。
しばらく窓の外に浮かんでいた七都は、突然上昇する。
アーデリーズとジエルフォートは、七都の幽体が機械の群れの中を影のように通り抜け、ラベンダー色の天のドームに吸い込まれて消えてしまうのを、じっと見つめていた。
「さっき……いたわ。彼女と同じような状態の女性が」
アーデリーズが呟いた。
「え?」
ジエルフォートが眉を上げる。
「あなたとキディアスが、ここから出て行っている間。ナナトによく似た女の人が現れたの」
「ナナトによく似た女の人?」
「少女だった。ナナトより少し年下くらいかしら。銀の髪と銀の目をしていたわ。今のナナトほどじゃないけど、彼女も透き通ってて、幽霊っぽかった。もっと存在感があって、はっきりと見えたけど。どうやらナナトのお母さまみたい。彼女のお母さまって、幽霊なのかしら」
「ナナトの母上が?」
ジエルフォートが驚いたように呟いた。
「ここに現れたのか? この研究室に?」
「そうよ。だけど、ここは……」
「そうだ。ここは幾重にも守られている。光の都における最高の機能を使って、外部から遮断している。誰かの意識や幽霊でさえ、入っては来られないはずだ」
「でも、彼女は入ってきたわ。そして、私、彼女に叱られたの。最初からあきらめて何もしようとせず、ナナトを死なせてしまうのかって」
「きみを叱った、だって?」
ジエルフォートは、首をかしげた。
「地の魔王エルフルドを叱るなんて、ナナトの母上は、いったい何者なんだ?」
「でも、私、あの人を知ってるような気がする。どこで会ったのかしら。あまりよく思い出せないけど。たぶん、私が魔王になったときに会ったのかもしれない。私を親しげにエルフルドって呼んだわ。前にもそう呼ばれたような、懐かしい感じがした。あの人になら、そう呼ばれてもいやじゃない……」
アーデリーズは呟き、穏やかな金色の目を、ガラスと機械で構成された光の都の景色の中にしばらく漂わせた。
それから、にっこりと笑って、ジエルフォートに言う。
「さ、私たちは仕事をしなくちゃね」




