第4章 光の回廊 1
一人の少女が、廊下を渡って行く。
床は磨き上げられた鏡のように澄み、柱は氷のように透明だった。
天井には、水晶の結晶が集まったようにも見える装飾が、ぎっしりと一面に施されている。
そこに届く光は、廊下のあちこちでさまざまな色を紡ぎ出していた。透き通った柱の中に閉じ込められ、あるいは結晶の角に止まって輝きながら。
その廊下全体が、巨大な氷をくりぬき、気の遠くなるくらいの時間をかけて、荘厳な芸術作品に仕上げたかのようだ。
少女のドレスが、赤い花びらが舞うように、ひらひらと移動して行く。
金色の波打つ長い髪に、血を思わせる真紅のドレス。
陶器のような顔には、冬の海に似た暗いブルーの目と、軽く結んだ紅い唇。
その目は少女の目的の場所に、真っ直ぐに見据えられている。
彼女は、一つの扉の前で立ち止まった。
扉には、魚をかたどったようなレリーフが刻まれている。
扉は静かに開き、少女を通した。
少女は、ゆっくりと部屋の中を進む。
薄手の青い濃淡の布が天井から幾重にも下がり、まるでそこが海の底であるかのようなイメージを作っていた。
少女は、その天蓋の下――部屋の真ん中に置かれているベッドの横に立つ。
「よく眠っていらっしゃる……」
少女は、やさしい微笑みを浮かべ、ベッドにかがみこんだ。
ベッドの中には、まだ少年の面影を濃く残した、銀の髪の若者が眠っていた。
シルヴェリス――。
彼女の主君である、水の魔王。
額には金色の冠が、まるで呼吸をしているかのように、妖しく輝く。
目は閉じられているが、その瞼の奥にあるのは、彼女とは対照的な淡い青の目。彼女が決して見つめることを許されぬ、高貴な宝石の目だった。
その美しい若者の右腕は、布で丁寧に巻かれていた。
だが、その布の先にあるはずのものは、異世界に切り取られて持っていかれたかのように、なくなっている。
(ああ。なんておいたわしい……)
彼女は唇を噛み、彼を見下ろす。
少しためらったあと、彼女は、そっと手を伸ばした。
震える白い手を、シルヴェリスの顔に近づける。
細い指が、彼の唇のすぐそばで止まった。
指が、そのやわらかい唇にそっと触れようとした瞬間――。
突然、シルヴェリスが目を開ける。
淡い青を溶かし込んだ透明な二つの目が、彼女をじっと見上げた。
「あ……」
彼女は、思わず彼から目を逸らし、手をひっこめる。
そして、その手を隠すように、慌てて両手を重ね合わせ、胸に抱いた。
「起きておられたのですか?」
少女は、ばつの悪さをごまかすように、呟いた。
「ここに閉じこもって、ずっと寝ていられるものじゃない。……キディアスは?」
彼が訊ねた。
「まだ戻っておりません」
彼女は、はっきりとした口調で、だが事務的に答える。
「長い留守だね。彼にしては珍しい。いったいどこに行ったんだ?」
「存じません。調べたいことがあると……」
「時間のかかる調べものだ。風の都の図書館にでも行ったのか?」
少女の表情が固まった。見えない氷で覆われたかのように。
「だいたい図星?」
シルヴェリスが、にっと笑って彼女を見つめる。
彼女はその視線を避けるように、顔ごと横を向いた。
「風の都は閉じられております。誰も入ることは出来ません」
彼女が言う。
「風の魔神族と一緒なら、入れるよ。それに、魔王なら、たぶん入ることは出来るだろう。行ってみようかな」
「なりません!!」
彼女が叫んだ。シルヴェリスが肩をすくめるくらい、ヒステリック気味に。
「ここから出られてはなりません、シルヴェリスさま!」
シルヴェリスは、微笑んだ。
「そうだね。ぼくがここから出て行ったら、きみが責めを負わねばならない。キディアスから、ぼくを見張るようにきつく言われているのだろう?」
少女はうつむいた。肯定の印として。
「キディアスは何をしに行った? もちろん風の都に行ったなんて思ってないよ」
彼が言った。
「存じません」
彼女が、うつむいたまま呟く。
シルヴェリスの視線を痛いほどに感じる。
彼が今、自分をじっと見つめている。その事実が、消えてしまいたいくらいにはずかしく、けれども嬉しくもあった。
「……ナナトか?」
彼が呟いた。
「キディアスは、彼女のことを調べに行った。いや、探しに行ったのかな。違う?」
少女は答えなかった。シルヴェリスは、ふっと溜め息をつく。
「無駄なことを。彼女は生まれ育った異世界に帰ってしまったのだから。調べようがないだろうに」
「いえ。きっと戻ってこられます、あの方は」
少女が言った。
「なぜそうだと?」
「そんな気がするのです」
そう。きっとあなたに会うために……。
彼女はせつなげに、長い睫毛を伏せる。
「キディアスは、ナナトのことを調べてどうする気だ?」
キディアスが、七都を自分の愛人にしようとしていたこと、断ったら殺してしまおうとしていたこと、そして今は、正妃にしようともくろんでいることなど、まるっきり想像もせず、彼は訊ねた。
「存じません。ただ……」
「ただ?」
「あの方は、あなたの弱みになると。キディアスは、そう申しておりました」
シルヴェリス――ナイジェルは少し眉をひそめ、キディアスとそっくりの、暗い極地の海色の目をした少女を眺めた。
「だから? 始末でもしに行ったのか?」
少女は答えなかった。それもまた肯定の態度だった。
「だが、それは無理だよ。いくらキディアスでも、異世界には行けまい? ナナトがいつこちらに来るかなんて、誰にもわからないことだしね。それとも、ずっとどこかに潜んで、彼女がこちらに来るのを待ち伏せでもするのかな」
彼なら、やりかねない……。
一度思い込んだら、あとは突っ走ってしまうという彼の性格なら――。
そのときおそらく、ナイジェルと少女は、同時にそう思ったかもしれなかった。
「ナナトに、こちらに来ないよう願うしかないか」
ナイジェルは、再び溜め息をつく。
「あの、シルヴェリスさま……」
少女が、おずおずと声をかけた。
「お食事は……」
「ああ。まだいいよ。じっとしていたら、食欲も出ない」
「あの……。もしわたくしでよろしければ、キディアスの代わりに……」
少女が言った。両手をきつく握り合わせている。かなり勇気を出してそう申し出たに違いなかった。
ナイジェルは、彼女を見つめる。
視線のやり場に困って、彼女は目をぎゅっとつむった。
「きみのような、とても若い女の子からは、エディシルはもらわないよ。そんなことをしたら、きみは当分起きられなくなるからね」
「わたくしは、構いません!」
彼女が叫ぶ。
ナイジェルは、笑った。そして、仰向きになって、目を閉じる。
「おやすみ。やっぱり暇だから、寝るよ」
「は、はい……」
ナイジェルが目を閉じてしまったのを確認すると、彼女は、遠慮なく彼の顔を見下ろした。
「あの、シルヴェリスさま」
「ん?」
「ここにいても、よろしいですか?」
彼女が、ためらいがちに訊ねた。
「いいけど。でも、ぼくに触れたらだめだよ」
彼が言った。さりげなく。
握りしめた手のひらに、自分の爪が突き刺さる。
見透かされている?
さっきしようとしたことも。全部、知られている……。
「わたくしがあなたに触れたら、あなたはご自分の本能を抑えられなくなるからですか?」
少女は彼に言った。挑戦的な質問だった。
「とても率直に聞くんだね」
ナイジェルは、目を閉じたまま微笑んだ。
「そうだね。きみはとてもおいしそうだ。だから、触れられるととても困るってことは言える。でも、他人に気安くさわられたくない、というのもあるよ」
他人……。
何て冷たい言葉なのだろう。
少女は、彼が口にしたその単語を、何度も頭の中で繰り返す。
私はあなたにとって、いつまでも永遠に他人なのでしょうか。
「あなたに触れることを許されるのは、キディアスと……それから、あの方だけなのですね」
少女が呟く。
「そうだね。ナナトに触れられると、とても気持ちがいいよ。安心するというか。癒されるというか」
「そうですか。では、またあの方にお会いできればよろしいですね」
「うん。会いたいね……」
少女は、唇を噛む。
もし人間であったなら、彼女の暗い冬の海色の目からは、涙が溢れ出し、その陶器のような頬を伝って、床に落ちていたに違いなかった。




