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第3章 白の研究室 6

 ジエルフォートとキディアスは、船の格納庫に降り立った。

 さまざまな形をした機械の船が、ずらりと並んでいる。

 それはキディアスの目には、宙を飛ぶ船というよりも、命を抜かれた動かぬ巨大な金属の動物たちが、そこに集められているかのように思えた。


「どれでも好きなのを選べばいい」


 ジエルフォートはキディアスに言ったが、キディアスは途方に暮れたようだった。


「申し訳ありません。私には、選びようがありません……」

「機械の船の操縦は?」

「出来ません」

「そうか。水の魔神族は、あまり機械に頼らぬ生活をしているんだったね。魔力に重きを置いた生活を。まあ、この船たちも、魔力で操縦するようなものなんだけどね。だが、魔力を使ってここから水の都まで飛んで、さらにシルヴェリスを抱えて戻ってくるのは、難しいだろう?」

「確かにそうです。闇の都を通って行かなければなりませんから」

「ではやはり、船を使うほうがいい。太陽からも守ってくれる」


 格納庫にいた魔神族たちが、ジエルフォートを見つけ、慌てて駆け寄ってきた。


「ジエルフォートさま! このようなところに!?」


 整備士らしいその魔神族たちは、リーダーとおぼしき若者を先頭にして、ジエルフォートの前に膝をつく。


「船を一つ用意してくれないかな。それを操縦する者もね。この方を水の都まで乗せて行ってほしいんだ」


 ジエルフォートは、リーダーの整備士に言った。


「はっ。ただちに準備いたします」


 彼は、緊張した面持ちで返事する。


「水の魔王シルヴェリスを乗せて帰ってくることになるから、それなりの船と、それなりの優秀な操縦士を頼むよ」

「はっ!!」


 彼はますます顔をこわばらせ、頭を下げた。整備士たちの周りの空気が、ぴんと張り詰める。


「水の魔王……か。水……。水?」


 ジエルフォートが、言葉を噛み締めるように、呟く。


 その時、キディアスは、ジエルフォートのすぐ後ろを銀色の影のようなものが通ったのを見た。

 それはジエルフォートの背後で一瞬立ち止まり、すぐに、空気に溶け込むように消えてしまう。

 幻?

 錯覚か?

 キディアスがぼんやりと突っ立っていると、ジエルフォートがキディアスの顔を見つめる。はっとした表情で。


「どうか……?」


 ジエルフォートは、キディアスの肩を勢いよくつかんだ。そして、先程の彼の命令で一斉に駆け出した整備士たちに向かって叫ぶ。


「待て!! 水の都に行くのは、中止だ!」


 整備士たちは、動きをぴたりと止めた。


「ジエルフォートさま?」


 ジエルフォートには、それまでの悲愴な面持ちはなかった。その口元には、微笑みさえ浮かんでいるように見える。


「戻るぞ、キディアス!!」


 怪訝そうなキディアスに、ジエルフォートは明るくそう言った。




(お母さん……?)


 あたたかい気配を感じて、七都は手を伸ばそうとした。

 だが、手は動かない。瞼を開けることも出来なかった。

 冷たい、だが、ほんのりとしたぬくもりを持つ手が、七都の手を包み込む。


(ああ、お母さんだ……)


 それは、砂漠でやさしく七都を撫でてくれた手だった。

 そして遠い昔、まだ七都の記憶が定まらない小さな頃、数えきれないくらいたくさん抱き上げ、抱きしめてくれた手……。

 アーデリーズは、その少女がゆっくりと近づき、七都の手を取るのを黙って眺めた。

 彼女の手は透明な白いベールのように、七都の血だらけの手を覆っていた。


「あなたは……ナナトのお母さま……?」


 問いかけるアーデリーズに、少女はにっこりと微笑む。


(お母さん、来てくれたんだ……。ねえ、お父さんが言ってたよ。人生の最後の時に、お母さんが会いにきてくれるって。だから……? わたしにも会いにきてくれたの?)


「それは、ヒロトだけに当てはまることよ。あなたは違うの。あなたはまだ死なないわ。あなたの人生は、まだ始まったばかりでしょう? しっかりしなさい、ナナト」


 彼女は、七都の手をぎゅっと、力づけるように握り締めた。


(わたし、死なないの? 本当……?)


「きっと魔王さまたちが助けてくれるわ。あなたも、生きたいって自分で強く望まなきゃだめよ」


(うん……。死にたくない。生きる……)


 彼女は、七都の手を名残惜しげに離した。それからゆっくりと立ち上がり、アーデリーズを見下ろす。


「エルフルド。この子をお願いね……」


 最後にいとおしげに七都を一瞥し、銀の瞳の少女は、白い研究室から消え去った。

 彼女が消えるのと入れ替わるように、ジエルフォートとキディアスが姿を現す。


「あなたたち……?」


 アーデリーズは、戻ってきた二人を戸惑うように見つめた。


「ナナトを助けられるかもしれない」


 ジエルフォートはそう言うなり、アーデリーズの前に屈みこんで、七都を抱え上げる。


「助けられる? どうやって!?」

「あれだ」


 ジエルフォートは、窓と反対側に位置している壁を顎で示し、それから天井にも視線を投げた。

 アーデリーズは、壁と天井を順番に眺めた。

 両方ともに薄青く染まった水の空間が嵌めこまれていて、銀色の泡が中で輝きながら踊っている。

 アーデリーズにとっては、見慣れた光景だった。


「どういうこと、スウェン?」

「ついておいで、二人とも!」


 アーデリーズとキディアスは、七都を抱えて歩いて行くジエルフォートの後を追いかけた。


「説明してよ、スウェン!」


 アーデリーズは、足早に進んでいくジエルフォートに追いすがって、訊ねる。


「思い出したんだ。水のことを」


 ジエルフォートが言った。


「水? あの透明の壁とか天井に入れられている水のこと?」

「ああ。あの水の壁を作ったのは、何代か前のジエルフォートだ。あの中をめぐっている水は、普通の水じゃない。はるか昔、魔神族がこの世界に来たとき、一緒に携えてきた水……。その中に体を浸し、長い眠りにつきながら闇の空間を旅したという、水だ……。その水の中では、魔神族は無敵だという。何も食べなくても、何千年も何万年も生きられ、たとえどんな病にかかろうと傷を受けようと、その水が必ず治してくれるという……。この都に、そのはるか昔の水が大量に残されていた。何代か前のジエルフォートは、水を見つけ、透明な壁を作って、その中に水を注ぎ込んだ」


「聞いたことがあるわ。光の魔王の城のどこかに、どんな怪我でも病でも治すという装置があると。あの水の壁と天井がそうなの?」


 アーデリーズが訊ねる。


「装置というほど大層なものじゃないけどね。水の壁が城の中に続いている。そこに入れられた者は、患部を水によって治療されながら、壁を伝って城の中を漂っていくことになる」

「助かるの? ナナトをその水の中に入れたら?」

「助かることを願う」


 ジエルフォートは言って、彼の胸の中で固く目を閉じた七都を見下ろした。


「でも、私もここに来るようになって結構な年数になるけど。壁の中に怪我人や病人が入れられていたことはないじゃない? 水の中には、いつも何もなかった。泡ぐらいしか。そういう装飾の壁なのかと、ずっと思ってた」


 アーデリーズが言う。


「無理もない。もう数百年以上使われていないからね。その存在すら、伝説になりかけている。私もすっかり忘れていた。水の壁は、常に私の周りにあったのにね。あれが最後に使われたのは、私が子供の頃だ」

「あなたは見たの? 使われているところを?」

「もちろん。内側から見たよ。何しろ水の壁の中に入れられたのは、この私なのだから」


 ジエルフォートが微笑んだ。

 アーデリーズは、眉を寄せる。


「あなたが? なぜ?」

「ナナトと同じだ。グリアモスに襲われた。助からないと見放されたんだけど、思い余った父が、あの水の中に私を放り込んだ」

「そして、助かったのね?」

「そう。かなりひどい怪我だったはずだけど、水の中から引き上げられたときは、その跡形もなかった。すぐに動けるようになったよ。その前よりも、格段に元気にね。あまりにも遠い昔の子供の頃のことだったから、完全に忘れていたよ」

「ああ、じゃあ、きっとナナトも助かるわ。その水が治してくれる……」


 アーデリーズは、祈るように両手を握り合わせた。



 ジエルフォートは、白い壁の前で立ち止まる。

 彼の真正面に、空色のしみのようなものが現れ、やがてそれは、小さな扉になった。


「この中に入るのは、何百年ぶりかな……」


 ジエルフォートが呟いた。

 扉は、横にスライドして開く。

 ジエルフォートのあとに続いて、アーデリーズとキディアスも、扉を通り抜けた。


 そこは、天井の低い、狭い部屋だった。

 黒い床の真ん中に、長方形に切り取られた薄青い空間が、光を貯めて口を開けている。

 その中には、水がたゆたっていた。天井や壁の中の水と同じものだ。

 ジエルフォートは七都を抱えたまま、薄青く光る四角の前に屈んだ。そして、七都を静かに水の中に浸す。

 緑色の長い髪が、水の表面に広がった。

 ドレスに付いた血が、水に洗われ、消えていく。


「あ……」


 七都は、水が頭と背中を包むのを感じて、声をあげた。

 体が水の中に沈んで行く。

 このままでは、おぼれてしまう……!


「だいじょうぶだよ」


 ジエルフォートが七都の耳元でささやいた。


「この水の中では、呼吸が出来る。何も心配することはない」


 ああ、でも、こわい……!!

 この下には、何もない。巨大な水の空間に飲み込まれてしまう……。

 やめて。手を離さないで……。


「すぐに慣れる。だいじょうぶだ。安心して。この水は、きみを治してくれるんだよ。きみが元気になったら、ここから出られるからね」


 ジエルフォートは、七都の頬に軽く唇をつけた。


「ここに入るとね、ちょっと変わった体験が出来る。それを楽しみにしておくといい。では、よい旅を、ナナト」


 ジエルフォートは、七都から手を離した。七都の体を水の表面に浮かべるように。

 七都の体は、水平に横たわったまま、薄青く光る水の底に、ゆっくりと沈んで行く。

 水が、七都の全身を隅々まで押し包んだ。

 それは、あたたかく、心地のよい感覚だった。

 ジエルフォートが言ったとおり、呼吸も楽にできる。

 不思議だ。水の中なのに?

 七都は、目を開けた。

 長方形の揺らめく水面の向こうに、七都を見下ろしている三人の魔神族が見える。二人の魔王と、水の伯爵……。

 彼らは心配そうな顔をしていたが、その表情の中には、確かに安堵したような穏やかさも垣間見える。

 助かるんだ……。

 七都も、安心する。

 水は、傷の中にも入り込んでいる。きっと、治し始めてくれている……。

 七都は、体から力を抜いた。

 水の流れを微かに感じる。どこに流れて行くのだろう。

 だが、出口の見えないような、重苦しい不安感はない。

 この水の旅の終点には、きっとジエルフォートとアーデリーズとキディアスが、待っていてくれるのだから。

 七都の体は、青白い光に覆われた水の中を、ゆったりと漂い始めた。


「きっとだいじょうぶだよ。ごらん、彼女は目を開けて、私たちを見ている。しっかりした眼差しだ。さっきまではそんな気力もなかったろうに。この水の威力は、相当なものらしいね。彼女の胸に刻まれた、あのぞっとするようなひどい傷も、きれいに治るんじゃないかな」


 ジエルフォートが言って、立ち上がった。


「ナナトさまは、本当に助かるのですね……。よかった……」


 キディアスが呟く。


「少なくとも、シルヴェリスもリュシフィンも、呼びに行く必要はなくなったわ」


 アーデリーズが言った。

 三人は、長方形の水面を囲んで立っていた。

 その透明な底あたりには、水の精霊のように、緑の髪を揺らめかせて沈む七都の姿が見える。


「じゃあ、我々は、ナナトがあの水の中から復活するまで、仕事に取りかかろうか。ナナトが戻れるまで、少なくとも、丸一日以上はかかると思うよ」


 ジエルフォートが、明るく穏やかな口調で提案した。


「そうね。シルヴェリスの腕をつくらなくちゃ。発注主さんが水の中を旅している間に。ところで、スウェン。あなたがさっきナナトに言った、変わった体験って何?」


 アーデリーズに訊ねられて、ジエルフォートが、いたずらっぽく笑う。


「ああ、それはね。なんと、幽霊になれてしまうんだ」

「は?」


 アーデリーズが、顔をしかめた。


「間もなくわかるよ」


 ジエルフォートは、さっきまで七都を抱いていた胸を手で押さえた。そして、思い出すように微笑む。


「彼女……。水の中に入れられるとき、私にしがみつこうとした。子猫がそうするように……。さっきは拒否されたからね。なんとなく嬉しい。かわいいな。あのくらいの年の子も、案外いいね」


 アーデリーズが、冷ややかにジエルフォートを眺めた。


「なに喜んでいるんだか。じゃあ、スウェン。私も、あれくらいの年齢の姿になってあげましょうか?」


 アーデリーズが言うと、ジエルフォートは慌てて首を振った。


「いや。きみは、今の姿のままでいいよ。そりゃあ、きっときみは、ナナトに負けず劣らずの美少女になるとは思うけど。でも、そんな若い美少女になられたら、話もしにくいし、仕事も一緒にやりにくい」

「そう。やりにくいの。仕事がね」


 アーデリーズはそっけなく呟き、くるりと方向転換をした。

 そして、真っ先に扉を通り抜け、研究室に戻って行く。ジエルフォートも、すぐに彼女のあとを追いかけた。


 キディアスは、七都が沈んでいった薄青い長方形の水のゆらめきを最後にちらっと眺めてから、二人の魔王に引き続き、空色の扉の外に出た。

 彼がその前から立ち去ると、扉はまるで何事もなかったかのように、その色も形もたちまち周囲の白い壁に飲み込まれ、溶けるように消えてしまったのだった。

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