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第3章 白の研究室 5

「血止めの薬が切れたのか?」


 ジエルフォートが、血の中に横たわった七都のそばに瞬間移動する。

 アーデリーズとキディアスも血溜まりの中に足を踏み入れ、七都を囲むようにして屈みこんだ。


「飲まなければならない時間は、まだのはずだわ。なのに、なぜ……」


 アーデリーズが呟いた。


「この方は、まともなものを召し上がってはおられませんでした……。薬の効き方が狂ってしまったのでは……」


 キディアスが、唇を噛む。


「いいえ、私がこの子のエディシルを奪ってしまったからだわ。きっとそうよ……。きっとそう……」


 アーデリーズが、両手で顔を覆った。

 ジエルフォートは、七都の血で染まったドレスの胸に手を伸ばす。


「あ……」


 この子はまだ若い娘なのよ、というアーデリーズの咎めるような視線に、そんなことを言っている場合ではない、と言いたげに険しい表情を返し、彼は七都のドレスを引き裂いた。


「ああ……なんてこと……」


 アーデリーズは、七都の胸から顔を逸らし、きつく目を閉じた。

 キディアスは、これまでの彼の長い人生の中でも、かつて遭遇したことのなかったであろうその恐ろしい傷口を、愕然として見つめる。


「グリアモスか……」


 ジエルフォートが呟く。


「もう……手遅れだ……」


「ジエルフォートさま! エルフルドさま!!」


 キディアスが叫んだ。


「どうか、どうかこの方を助けてください! どうか……。この方は、まだ死んではならない方なのです! どうか、あなた方のお力で……」


(キディアス……)


 七都はうつろな目で、二人の魔王に頭を下げて懇願するキディアスを見上げた。 

 キディアス……。

 あなたは魔王さまたちに願い事をしてるよ……。

 そんなの、許されないことなんでしょ……?

 場違いな感想が、頭の中に湧き上がってくる。

 血は流れ続け、止まらないというのに。

 体は次第に冷たくなり、感覚がなくなっていくというのに。


「キディアス。あなたも、あの薬のことは知っているはず。こうなってしまったら、もう、手の施しようがないということを。今まで薬を飲み忘れたために、どれだけの魔神族が命を落としたか……。水の都でもそうでしょう?」


 アーデリーズが言う。


「魔王である私たちにも、出来ないことはあるのよ……」


 キディアスは、うなだれた。

 握りしめた拳が、震えている。


「私が……。私がもっと気をつけて差し上げていれば……」


 アーデリーズは、七都の上半身を抱え上げて、起こした。

 ジエルフォートが両手で七都の頬をそっと包み込み、七都の唇に自分の唇を重ねる。


「ナナト。私のエディシルを飲むんだ。たとえ一口でも……」


 だが、ジエルフォートのエディシルは、七都の唇からこぼれて、ジエルフォートの顔のあたりを漂った。

 もう、エディシルを体に取り込むわずかな力さえも、七都には残ってはいなかった。


「スウェン。無駄だということがわかっているはずなのに……」


 アーデリーズが呟く。

 それでも彼は、彼の感情のままに、そうせざるを得なかったのだろう。

 科学者として、そして長年の経験として、七都に自分のエディシルを与えても、もう効果はないということを、頭ではよく理解していたに違いなかったのだ。

 七都は、光の魔王に感謝する。

 ありがとう、ジエルフォートさま。

 あなたも、とてもいい方なんですね。

 でも、もう……もう無理みたいです……。

 ジエルフォートは、苦渋に満ちた表情をして、七都から離れた。


「ごめんなさい……。みんな……自分を責めないで。私が悪いんだから……。わたしが、自分で自分を管理できなかったから……」


 かすれる言葉を遮るように、七都の唇から血が溢れる。

 血の味は、まずくはなかった。妙に甘く、元の世界で感じたような不快感もない。そのことがよけいに悲しかった。


「もう、喋らないで」


 アーデリーズが七都の額を撫で、やさしく囁く。


「この子の家族は……?」


 ジエルフォートが訊ねた。


「母親は行方不明だと……。父親は、この子が来た異世界にいるらしいけど」

「探しようがない。それに、たとえ探し出せても、異世界から、そこに生きて暮らしている人間を連れてくることは出来ない」


 ジエルフォートが言った。


「この子の死に目に会わせることは……」

「では、リュシフィンを呼ぶわ」


 アーデリーズが呟く。


「私が風の都に行って、呼んでくる」

「いや、リュシフィンは、私が連れてこよう」


 ジエルフォートが言う。


「風の都には行ったことがある。魔王になる、はるかな昔のことだけどね。きみよりは勝手はわかる。私が行こう。きっと間に合うだろう。きみは、この子のそばにいてやるんだ」


 ジエルフォートは、それから、キディアスに言った。


「きみはシルヴェリスを呼びたまえ。この子がまだ体を保っている間に、早くここに連れてくるんだ。でないと、永遠に二人は会えなくなる」


 キディアスは、ふらふらと立ち上がった。

 ジエルフォートは、キディアスの腕をつかむ。


「王族の乗り物を使うといい。すぐに水の都に着くだろう」


 そして彼は、アーデリーズを振り返る。


「アーデリーズ。いや、エルフルド。もう、逃げてはならない。その子のそばに最後までいるんだ。その子を一人にするんじゃない」


 アーデリーズは七都を抱えたまま、金色の目を見開いて光の魔王を見上げた。それから、鋭い口調で彼に言う。


「逃げないわ、ジエルフォート」


 ジエルフォートは硬い表情で頷き、キディアスの肩を引き寄せる。

 二人の姿は、その白い研究室から、たちまち消え去った。


 やっぱり、助からないんだ……。

 七都は、ぼんやりと悟る。

 もう、魔王さまたちでさえ、どうしようもない。

 だからみんな、わたしをわたしの親しい人たちと会わせようとしてくれてる。

 最後のお別れを言えるように……。

 ここが旅の終わりになるのかな。

 まだたどりついていないのにね……。風の都。風の城……。

 もうすぐ……もうすぐ到着できるはずだった……。

 あと少しで……。


「ナナト……。あなたを助けるって言ったのに。さっき、言ったところなのに……」


 アーデリーズが、七都の体を抱きしめた。


「そんなに魔神族になりたくなかったの? 言ったでしょう? この世界で魔神族であることを拒否したら、死を意味するって……」


 泣きたくても、決して涙を流すことが出来ない、彼女の金色の目。それは悲しげに、七都にじっと注がれている。

 そして彼女の頬にも首筋にも、七都の血がべっとりと付いていた。

 魔王さまを血だらけにしちゃってる……。

 また、場違いなことを思ってしまう。

 あまりのことに頭が混乱しているのか、現実を把握できていないのか……。

 それか、もうあきらめているのかもしれない。


「アーデリーズ……。あなたのドレス、血だらけだね……。ごめんなさい……」


 七都は、呟いた。


「こんなときに何言ってるのよ。本当に馬鹿な子なんだから!」


 アーデリーズが叫ぶ。

 だって、そのシンプルできれいなドレス……。

 あなたをとても引き立てる、その素敵な白いドレスは……。

 ジエルフォートさまに会うために選んだのでしょう……?

 アーデリーズは、さらに強く、七都をかきいだいた。


「ナナト。あなたも……あなたも逝ってしまうの?」


 アーデリーズ……。

 あなたの体温が、とてもあたたかい。

 これは、あなたが人間の血を引いているから……?

 それとも、私の体が冷たくなっていってるから……?

 七都は、目を閉じる。

 静かだ。

 そして、目を閉じても、視界は明るい白に満ちている。

 光の都の、とても高い場所にある、この部屋……。

 いろんな機械でごった返す、マッドサイエンティストの魔王さまの研究室……。

 もうすぐわたしの体は、ここで分解してしまうのだろうか。イデュアルやメーベルルが太陽に溶けたように。

 血がことごとく流れ出て、わたしが何もわからなくなったその後に……?

 リュシフィンは、その前に来てくれる?

 ナイジェルも、わたしに会いに来てくれるよね……。

 それまで、待っていなくちゃ……。

 でも、お父さんにも果林さんにも、もう会えないね……。

 

 その時――。

 アーデリーズは何かの気配を感じて、顔を上げた。

 研究室の石の床に浮かぶような感じで、一人の人物が立っている。

 薄い銀色の光に全体が包まれたように見える、まだあどけなさの残る、美しい少女――。今、腕の中にいる七都によく似た少女だった。

 少女の目は怒りに満ち、アーデリーズを見据えていた。銀の瞳が燃えるように揺れている。

 窓の向こうに広がる光の都の景色が、少女の後ろに透けて見えた。


(幽霊……?)


 アーデリーズは七都を抱きしめたまま、その少女を見上げた。

 ここは、光の魔王の私的な部屋。王族でさえ、みだりに立ち入ることは出来ぬはず。

 この少女はいったい……?


「あなた方は、最初からただあきらめ、何もしようともせず、私の娘をこのまま死なせてしまうつもりなのですか?」


 少女が言った。鋭く、詰問するように。


 何の恐れ気もなく、威厳に満ちたその少女。確実にアーデリーズを圧倒している。


「誰!?」


 アーデリーズは、叫ぶ。


 魔王である自分にそういう態度を取れる者など、魔の領域には存在しないはず――。

 地の魔王エルフルドは、その腕に七都を固く抱きしめ、銀の瞳の少女と対峙した。

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