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第3章 白の研究室 2

「だめよ、スウェン。その子からエディシルを取っちゃ。怪我人なんだから。それにこの二人、あなたへのおみやげとして連れてきたわけじゃないんだからね」


 アーデリーズが、彼に注意した。


「この子は何者だ? 私を真っ直ぐ見つめてくる。魔神族では、そういう者はいないぞ」


 ジエルフォートは、ブルームーンストーンの目を訝しげに七都に注いだ。


「怒ったの、スウェン? 相手はコドモよ。おとなげないわ」


 アーデリーズが彼を睨む。


「いや、怒ってはいないよ。初めて会った頃のきみに比べたら、かわいいものだ」

「なんですって!?」


 アーデリーズが顔をしかめる。


「い、いや、なんでもない」


 ジエルフォートは、軽く咳払いをした。


「この子はナナト。風の王族。私と同じで片親が人間よ。その隣はキディアス。シルヴェリスの側近」


 アーデリーズに紹介されて、七都は自主的にお辞儀をした。キディアスも、改めてもう一度頭を下げる。


「へえ。風の魔神族か。珍しいね。まあ、水の魔神族とも、あまり交流はないけどね」


 ジエルフォートが言った。


「あなたは、自分の光の魔神族とも、あまり交流がないじゃない」


 アーデリーズに指摘されて、ジエルフォートは苦笑した。

 そして、キディアスのそばに立つ。


「きみは、私を拒否しないんだね?」

「めっそうもございません」


 キディアスが、うつむいたまま答えた。

 ジエルフォートは、今度はキディアスの頭を抱え、彼に口づけをする。

 キディアスは、苦痛に耐えるかのように固く目を閉じた。

 キディアスの全身が、びくりと震える。

 やがて、ジエルフォートの口づけから開放されたキディアスは、足元がふらつき、顔が紅潮していた。


(ナイジェルにキスされたときのナチグロ=ロビンと一緒だ……。へろへろになってる……)


 七都は、思わずキディアスを支えた。

 キディアスは、だいじょうぶです、と言いたげに、七都の手を押しとどめる。


「スウェン。私への挨拶が、まだだけど?」


 アーデリーズが不満そうに言うと、ジエルフォートは微笑んだ。

 そして彼は、アーデリーズをやさしく抱き寄せて、彼女と唇を合わせる。

 映画などで見るキスシーンよりも、はるかに美しく、麗しく、気品に溢れた行為だった。

 七都は、思わず二人に見惚れた。


「あれは、単なる挨拶です。人間たちの行う愛情表現とは、少し違います」


 キディアスが言った。


「エディシルを食べ合ってるの?」

「親しい者の間では、当たり前のことですよ」


 親しい者……。

 じゃあ、アーデリーズとジエルフォートは、親しいってこと。

 もしかして、恋人とか?

 だけど、恋人がいるなら、アーデリーズはあんなに荒れないよね。

 単に、親しい仕事上のパートナーってことなのかな。七人の魔王さま同士だし……。

 でも、この二人、とても似合ってる……。


「お茶でも入れようか」


 アーデリーズとの優雅な挨拶を終えたジエルフォートが、七都とキディアスに微笑みかけた。


 ジエルフォートは、ほとんど部屋の仕切り状態になっている大きな装置の管の下に、ガラスのカップを置いた。

 すぐに管の先からカップへ、熱いカトゥースのお茶が注がれる。

 その複雑で大げさな装置は、どうやら、カトゥースを入れるためのものらしい。


「座りましょう、二人とも」


 アーデリーズが言って、慣れた様子でテーブルにつく。

 けれどもテーブルの上には、文字が書きなぐられたメモ帳もしくはノートらしい、プラスチック状の薄い板、さらに機械の部品が散乱していた。

 七都が座ろうとした椅子の上にも、ラグビーボールのような形をした機械が乗っかっている。


「適当にどけて、座ればいいから」


 アーデリーズが言う。

 七都が機械のボールをどけようとすると、七都の手が触れる直前に、ボールの下からカニのような足が生えた。それは自分で椅子から飛び降りて、カサカサと床を這って行く。

 ラグビーボールの形をしたその物体は、ロボットだったらしい。

 七都は呆然として、そのロボットを目で追った。


 七都の右横の席にはグリアモスが座り、左にはストーフィが座った。キディアスは、その隣に腰を下ろす。

 ストーフィは、乗せられていた機械をどけないで、そのまま機械の上に座っていた。

 席についた七都は、改めて、あたりを見回した。

 乱雑に置かれた機械たちの向こうには、白い壁。

 反対側の壁には、天井と同じように、ごく淡いブルーグリーンに染まった水がたゆたう、大きな水槽がはめ込まれている。

 水槽の中には、特に生物が泳いでいるわけでもなかった。中に入っているのは、時々ふわっと現れては消える、銀色の泡だけだ。

 かつては何かが泳いでいたのかもしれない。どことなく物足りなさが漂う、けれども、美しい水槽の壁だった。

 カトゥースを人数分運んできたジエルフォートは、テーブルの前で立ち止まる。

 いったいどうやって、この乱雑なテーブルの上にカトゥースを置くのか。

 七都は心配したが、ジエルフォートがカトゥースのカップを置く前に、テーブルの上の雑多なものたちは、風に吹き飛ばされたかのように、残らずテーブルから床に落ちてしまった。

 床に物が落ちる音が賑やかに響き渡り、七都とキディアスは、同時に肩を縮める。

 七都は、床に落ちたものを拾って片付けたい衝動にかられたが、それは失礼なことだと思い直した。

 たぶん光の魔王さまは、床に落としたのではなく、置いたのだろう。どこに何を置いたのかは、ちゃんと把握しているに違いない。おせっかいに、動かしたりしてはいけないのだ。


「どうぞ」


 ジエルフォートがお客たちの前に、順番にカトゥースのお茶を並べた。

 香ばしいカトゥースの香りが、部屋の中に漂って行く。

 いい香り……。ほっとする。

 コーヒーの香りって、案外こういう理科系の部屋にマッチするかも。七都は、思う。

 けれどもキディアスは、見ていて痛々しいほどに固まっていた。お茶でリラックスするどころではないらしい。


「魔王さまにお茶を入れていただくなど、考えられないことです……」


 彼が、恐縮した様子で呟く。


「飲みづらいかい? 遠慮せずともいいよ。ここは、他の者は入って来ない。私的な場所だからね。ゆっくりくつろいでくれたらいい」


 ジエルフォートが言った。


「光の魔王さまがおられるってことは、ここは光の都なんですか?」


 七都が訊ねると、ジエルフォートは頷いた。


「そう。光の都にある魔王の城だよ。その中の私の研究室だ」

「じゃあ、あの扉は、地の都と繋がってるんですね」


 七都は、先程抜けてきた扉を振り返って見上げる。

 白い部屋の中で、そこだけに真っ黒の四角が浮き上がっていた。


「そうよ。便利でしょ。いつでもすぐに、地の都から光の都へ移動出来るの」


 アーデリーズが言う。


「なんか、光の都にいるって実感が全然ない……」


 七都は、呟いた。

 ジエルフォートが笑って、白い壁に向かって手をかざす。

 すると、ゆっくりと壁が変化していった。

 壁は次第に天井に吸い込まれ、その下からは、透明なガラスで隔てられた広大な空間が出現する。


「あ……」


 七都はその光景に、思わず声を上げた。


 そこには、白い壁の代わりに巨大な窓が据えられていた。

 窓の向こうには、明るく、美しい景色が広がっている。

 それは、地の都の風景とは異なったものだった。

 ラベンダーの空。その下には、薄いグリーンの、ガラスの積み木のような建物の群れ。

 建物の間を縫って、小さなさまざまな色や形のものが、規則正しく移動している。それはどうやら、機械の乗り物、もしくはロボットらしかった。

 竜、巨人、鳥、亀、虫……。奇妙な、あるいは滑稽な形体の機械たち。

 それらは、建物がまとう、幾重にもなった透明な輪のようなチューブの中から、出たり入ったりしている。

 めまぐるしいスピードで移動するのではなく、どことなくのんびりとした、だが、眺めていて飽きの来ない速さだった。

 未来都市――。

 よくSF映画やアニメに出てくる、科学の粋を集めたような……。

 そういう表現がふさわしい、賑やかな構図の都だ。

 七都たちがいるのは、その未来都市のかなり上層部らしい。

 ガラス細工の建物のてっぺんが、窓の下のほうに集まって、立体棒グラフのように盛り上がっている。


「これが、光の都……」


 七都は、呟いた。


「機械の都市……?」

「そう。魔の領域で必要な機械は、すべてここで造っている。そういう役目を担う都だよ」


 ジエルフォートが言う。


「じゃあ、闇の魔王さまの船も?」

「ああ。ここで造ったものだ。あれは、かなり古いものだけどね。ときどきここに持ってきて、整備している」

「魔貴族が乗る機械の馬も?」

「もちろん」


 ジエルフォートは、七都の隣に座っているストーフィを見下ろした。


「で。こいつは、いつからアヌヴィムになったんだ?」

「この輪っかは、私が旅の間にはめていたものなんです。身を守るために。それをこのストーフィが……」


 七都は、口ごもる。


「自分で付けたらしいんだけどね。その首飾りも」


 アーデリーズが、七都の代わりに続けた。

 ストーフィは、自分のことを話題にされ、決まり悪そうな感じで、窓の外を見ていた。

 もちろん、七都の目にそう映るだけかもしれない。


「そういうことってあり得るんですか? ストーフィは、そんなことはしないんでしょう?」


 七都は、ストーフィを眺めているジエルフォートに訊ねる。


「うーん。勝手に進化したのかな」


 ジエルフォートが首をひねった。その姿も様になっていて、とても麗しい。


「勝手に進化するんですか?」

「しないね」


 間髪をいれずに、ジエルフォートが答える。

 七都は、こけそうになった。


「あとで、中を開けて調べてみようかな」


 ジエルフォートが呟くと、ストーフィには、露骨にいやそうな、そして焦るような表情が浮かんだように見えた。


「中を開けるなら、この子が飲み込んだ私の薬も取り出していただきたいんですけど……」

「薬?」

「血止めの薬よ。ナナトはもうすぐ飲まなきゃならないの」


 アーデリーズが説明した。


「ああ、いいよ。でも、その薬より、私のエディシルのほうが効くんじゃないのか?」


 ジエルフォートが、七都を抱き寄せようとする。


「けけ、結構ですからっ!!」


 七都がのけぞって叫ぶと、ジエルフォートは真顔になって呟いた。


「また拒否されてしまった……」


 それから彼は、気を取り直したように、ストーフィが首にかけている猫の目ナビに手を添える。


「これは?」


「見張り人さんにもらったんです。元の世界で、こちらに来る直前に」

「これはね、私が作ったものだよ」


 ジエルフォートが、懐かしそうにナビを握りしめた。


「そうなんですか!?」


 七都は、驚いた。何という偶然……。


「美しい少女にあげた。人間との混血の。まだ持っていないと言っていたから」


 私が会ったのは、少女ではなかった。

 七都は、紅茶色の目の、あの老婦人を思い出す。

 彼女が少女だったのは、かなり昔のこと。きっと半世紀以上も前のことだ。


「彼女は、元気だった?」


 ジエルフォートのその質問に、七都は目を伏せる。

 何て答えたらいいのだろう。


 <私の役目は、もうすぐ終わりです。私の人生も終わりということです>


 穏やかに、けれどもどこか毅然として、そう言っていた彼女。

 彼女に会うことは、もうないのだ。

 ジエルフォートは、七都が言いたいことをすぐに理解したようだった。


「そうか。彼女も逝ってしまうんだね。人間との混血の人々は、人間の世界では、こちら側の魔神族のように長生きは出来ない。向こうで生きるなら、向こうでの寿命に従わなければならない。それが見張り人を務める彼らの定めでもある」

「……じゃあ、わたしも、見張り人さんと同じで、元の世界では、人間としての寿命しか生きられないってことですよね?」


 ジエルフォートは、七都の質問に頷いた。


「その通りだ。元の世界では、きみは人間の体なのだろう? ならば、人間として生きるしかあるまい。でもきみは、こちらで魔神族として、人間よりもはるかに長い寿命を生きることも出来る。どちらを選ぶかは、きみが決めることだ」

「わたしが決めること……」

「私は、勝手に側近たちに決められちゃったけどね」


 アーデリーズが言った。


「もし人間として元の世界で生きていたら、今頃、私はここに存在していないわ。もうとうに死んでいて、体も朽ち果て、土の中に埋まっている。私が知っているその時代の、他のたくさんの人々と一緒に」


 アーデリーズは、自分の美しい手をかざして、確かるように眺める。まるで、彼女の体が幽霊だとでもいうみたいに。


「私は、きみがこの世界に来てくれて、本当に嬉しく思ってるよ。きみに会えてよかったと」


 ジエルフォートがアーデリーズに言った。


「そう?」


 アーデリーズの顔がぱっと輝き、彼女は嬉しそうに、そして少しはにかんで微笑んだ。

 アーデリーズ、もしかして……。

 七都は、機嫌よくカトゥースを飲んでいるアーデリーズを見つめた。

 もしかして、ジエルフォートさまが好きなの、アーデリーズ?

 だって、イデュアルは言ってたもの。エルフルドさまには好きな人がいるって。

 女の子の勘は鋭いからね。

 その好きな人って、ジエルフォートさまのこと?

 ジエルフォートさまのほうも、まんざらじゃなさそう。

 二人、とても似合ってるし。とても仲がよさそうに、じゃれあってるし……。

 だったら……。

 彼のこと、ものを作るときの仕事の上でのパートナーとしてじゃなく、生涯の伴侶として考えてもいいんじゃない?

 そうしたら、アーデリーズ。この世界で彼と一緒に、素敵に楽しく過ごしていけるよ。

 相手が同じ魔王さまなら、きっとうまくいく。

 きっとジエルフォートさまは、あなたを支えてくれる……。


「ナナト。何にやついてるのよ? 気持ちの悪い子ね」


 アーデリーズが、じろりと七都を睨む。


「なーんでもないっ」


 七都は、肩をすくめた。

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