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第2章 地の底の貴婦人 14

 誰かが、髪を撫でてくれている。


 いい気持ち……。

 手のひらから伝わってくる、やさしさ。

 自分の存在が確かに認められているという、穏やかなやすらぎ。

 そして、愛されているという安心感。

 思わず口元に微笑みを浮かべたくなるような心地よさが、七都を包む。


 お母さん……?

 ううん。感触が微妙に違う。

 お母さんじゃない……。


 七都は、目を開けた。

 きらめく冠を額に飾った金色の目と赤い髪の美女が、七都のそばに座っている。

 銀の糸で花の模様が刺繍されたオフホワイトのドレスに、白い羽根をたくさん縫いこんだ、ふわりとした灰色のショール。

 髪型も変わっていた。先ほどよりも細かいウエーブがかかっていて、ボリュームのあるシルエットを作っている。

 彼女は、七都の髪を半透明の翡翠色の櫛で梳いていた。


「エルフルドさま……?」


 七都が呟くと、彼女は軽く七都を睨む。


「この屋敷では、私はアーデリーズ。それにね、敬語なんて使わなくてもいいわよ」


 彼女は、飛び起きようとする七都を手で止めた。


「動かないで。髪を梳かしているんだから」


 七都は横たわったまま、アーデリーズを見つめる。


「でも……。魔王さまに髪を梳かしてもらうなんて……。光栄なんだけど、何か恐れ多いというか、もったいないというか……」

「構わないわ。さっきあなたの髪を乱したのは、私なんだし。それに私、こういうことをするの、好きなの」


 アーデリーズは七都の髪を少しずつ取り、細い三つ編みを幾つも作っていく。


「ところで、アヌヴィムを拒否したんですって?」


 アーデリーズが、愉快そうに訊ねた。


「ごめんなさい。せっかくわたしのために手配してくれたのに……」

「あなたが素直にあの少年のエディシルを食べるとは思わなかったけどね」

「あの男の子にひどいことしないでね。あの子は悪くないから」

「するわけないじゃない。私も人間の血が混じってるんだもの。人間を邪険には扱えないわ」


 七都は、ほっとする。

 もう。キディアス、不必要に脅かすんだから……。


「だけど、ナナト。私はあなたのことがとても心配だわ」


 アーデリーズが言った。


「あなたの体は、魔神族なのよ。そりゃあ、太陽には溶けないかもしれないけれど。同じ人間の血を引いていても、私とは違う。ここでそれを拒否するということは、死を意味するの。あなたはそのことをわかっていない。覚悟も出来ていない」

「そうかもしれない。まだ心のどこかで、ここでのことは全部夢の中の出来事だって思ってるのかもしれない。元の世界に戻れば、全部クリアされるって……」


 七都は、呟いた。


「夢じゃないわよ」


 アーデリーズが静かに言う。

 重みを持ったその言葉に、七都は一瞬息が詰まりそうになる。


「ナイジェル……シルヴェリスさまにも、何度か同じこと言われた。これは夢じゃないよって……」

「シルヴェリスも確か、母親が人間だったわよね。早く会ってみたいものね」


 アーデリーズは、たくさん出来た三つ編みの先を、金色の蝶の形のピンで順番に留め付けた。

 七都の髪は、小さな蝶の群れがとまったように賑やかになる。

 七都にもたれかかってその様子をじっと観察していたストーフィが、たぶんうらやましそうに、七都を見つめた。


「かわいいわ。今の私の姿では、こういうかわいい髪型は出来ないもの。でも、たまにはあなたぐらいの年齢の姿になってもいいんだけどね」


 アーデリーズが七都の髪を満足げに眺めて、呟いた。


「今の年齢はアーデリーズの趣味?」


 七都は、聞いてみる。


「そうね。それもあるけどね……」


 アーデリーズは思い出し笑いをするように、いたずらっぽく微笑んだ。


「私は、特に別の年齢の姿になってみたいなんて思わないけど……」


 七都が言うと、アーデリーズは七都の頭を撫でた。


「それはね、あなたが、まだとても若いからよ」


 そして彼女は、七都をいとおしげに見下ろす。まるで七都の内部のどこかに、彼女の知っている誰かを探しているかのように。


「イデュアルは、生まれたときから知ってるの。いいえ、生まれる前から知ってるわ」


 アーデリーズが言った。


「あの子の両親をくっつけたのは、私よ。二人とも深く思い合っているのに、お互いに意地を張ったり、すれ違ったりして、なかなか進展しないから、私がおせっかいをしたの。あなたたち、結婚しなさい。これは命令よって」

「それで、イデュアルの両親は結婚したの?」

「そう。子供にも恵まれたわ。女の子が三人。イデュアルが小さな頃は、よく一緒に遊んだものよ。たぶんあの子は覚えてはいなかったでしょうけど。成長してからは、話をすることもなかった。あの子はいつも遠くから私を見てた。私が話しかけようとすると、恥ずかしがって必ず逃げてしまうの。運よくつかまえても、緊張しているのか、黙ってうつむいてばかり」

「イデュアルは、あなたにあこがれていたもの。あなたのこと大好きだったんだよ、お話が出来ないくらいに」


 アーデリーズは、寂しげに目を伏せる。


「彼女がもっと成長して、いずれ女官として私のそばに来てくれたら、いろんなことを楽しく話せると思ってた。父親と同じようにね。あの子の父親は、私にとってたった一人の気の許せる側近だったの。この都のいろんなことを知っていた。ここだけのことじゃなく、七つの都のことをとてもたくさんね。砂漠でのお茶会にも、夫婦そろって、いやな顔もせずに付き合ってくれたわ。私にずけずけとものを言う唯一の側近だったのに……。今はもう、あの家族はいない。あの家族を失ったことは、とても悲しい出来事だった」


 アーデリーズは、七都の手を握った。

 ひんやりとした彼女の手のひらが、七都の手を包み込む。七都がはめている銀の竜の指輪ごと。


「あなたは、イデュアルの最後を見届けてくれたのね。この手であの子を抱きしめて」


 七都は、黙って頷いた。


「ありがとう。あの子は一人じゃなかったのね。私は、あの子を残して立ち去ってしまった。あの子をたった一人で逝かせるべきではなかったのに。あの子が消えてしまうまで抱きしめてあげるべきだったのに……。怖かったの。この胸の中で、あの子が太陽に焼かれて溶けて行くのが……。耐えられなくて逃げてしまった……」


 アーデリーズは眉を寄せて、目を閉じる。


「私はこの冠を付けたとき、周りにいた側近たちを殺してしまったの。みんな、私が出した熱で溶けてしまったわ。太陽に焼かれたときと同じように……。だから、魔神族が消えるのを見るのは、とてもつらくて怖い。だけど、後悔してる……。イデュアルを残して去ってしまったこと……」

「仕方ないよ。誰もあなたを責められない。あなたがあそこに行ったこと自体、考えられないことなのでしょう? イデュアルは、あなたが来てくれただけで、それだけで嬉しかったと思う」


 七都が言うと、アーデリーズは首を振った。


「けれど、私は出来たはずだわ。あの場にとどまって、あの子の最後を見届けることを。いえ、そうしなくてはならなかった。私は、地の魔神族の王なのだから」


 アーデリーズは、七都の額にそっと触れた。


「三人の魔王の口づけの印……。まったく、そういうとんでもないものを持っているのは、ナナト、あなたくらいでしょうね。私の口づけの印を額に付けているのも、今はあなただけ。私は独り身だし、家族もいないし、親友も特にいないから、当分あなただけってことになるわ」

「アーデリーズ。まだ元の世界の結婚するはずだった人のことを思ってる?」


 七都は彼女に訊ねた。ぶしつけな質問かな、とは思ったが。

 アーデリーズは、特に何の感情も交えず、冷静に答えた。


「もう、顔も忘れたわ。名前も何ていったか……。思い出をずっと大切に抱きしめてきたつもりだったのに、ある日、顔も名前も思い出せなくなっていることに気づいたの。それだけたくさんの時間がたってしまったってことね。元の世界で私を知っている人は、もう誰もいない。みんな定められた命を全うして逝ってしまった。彼も別の誰かと結婚して子孫を残し、彼なりの人生を過ごしたのでしょうね。そして既に、ずいぶん昔に、どこかのお墓の下で骨のかけらになっている。でも、楽しかったことは忘れない。一生ね」

「いつかこの世界で、魔神族の男性と結婚する?」

「そうね。そうしたいわ。家族はほしいもの」


 アーデリーズは、立ち上がった。

 そして七都の手を取り、長椅子から引き起こす。


「さ。それじゃ、行くわよ、ナナト」

「え……。行くって、どこへ……?」

「シルヴェリスの機械の腕をつくってほしいんでしょ?」


 彼女は、にっこりと笑った。

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