第1章 砂の中の猫 2
七都は、薄く目を開ける。
ラベンダー色の空が見える。魔の領域のシールドによって作り出された、まがい物の空の色。
だがそれは、溜め息が出るくらいに、澄んで美しい。
七都を撫でてくれたあの手の感覚は、もうなかった。横に座っていた気配も消え去っている。
行ってしまった……。
七都は、言い知れぬ寂しさを感じる。
でも……。
お母さん、わたしを見守ってるって言ってた。
今もきっと、どこかから見ていてくれてるよね……。
それに、絶対いつか会える。そう信じる。
七都は、視界の中に、ラベンダーの空を縁取るような感じで、顔がたくさん並んでいるのに気づく。
そのたくさんの顔たちは、七都をじっと見つめていた。
ああ、前にもこんなことがあった。
こんなふうに、何人もの人に見下ろされていた。
あれは、シャルディンの夢を見ながら、ピアナの花畑の中に寝転んでいたときだ。
旅人たちが、行き倒れになっているんじゃないかと心配して、輪になってわたしを見下ろしていた……。
輪になって……?
七都は、大きく目を開ける。
七都を見つめているたくさんの顔が、七都の目の中ではっきりと焦点を結んだ。
その顔は、銀色だった。
つるつるに磨かれた鏡のような顔の表面には、七都の顔と白い砂が映っている。まるで、巨大な丸いスプーンが並べられているかのように。
球状の頭の上部にはラベンダー色の空が映り、頭の両端から出ている三角形の尖った部分には、太陽の光が地上に降りた星のように集まって、止まっていた。
顔のパーツは、二つの目だけだった。鼻も口もない。
その貴重な存在である目は、少し盛り上がったオパール色の小さな円をはめこんだだけのもの。そこに二つ並んでいるから目だとわかる、シンプルすぎるパーツだった。
そして、七都を見下ろすたくさんの銀色の顔は、全部同じ顔をしていた。
すなわち、すべて銀色の球体の顔に丸い目だ。
頭の上に二つくっついた尖った三角は、どうやら耳らしい。
そういう顔がずらりと並んで輪を作り、黙って七都を見下ろしている。
もちろん、人間の旅人たちではないし、魔神族でもなかった。
七都は、飛び起きる。
その物体は、七都を中心にして円を作り、等間隔に並んでいた。
高さ五十センチ弱くらいの、金属のおもちゃのようなもの。
(猫の……ロボット?)
七都は上半身を起こしたまま、自分を取り囲んでいるその物体を順番に眺める。
丸い顔に三角の耳。真っ直ぐな円柱の先に、ボールをかぶせたような手と足。
すべて球や直方体などの図形の組み合わせで出来た、機械の体だった。
まるで子供が描いた猫のイラストをそのまま立体化したような、銀色のロボットだ。
後ろ足だけで、人間のように砂の上に立っている。となると、当然、二足歩行なのだろう。
釣り針のような形をした尻尾も、ちゃんとついている。
猫ロボットたちは、寸分違わずすべて同じだった。そして全員、顔を同じ角度で七都のほうに傾けていた。
だが、その視点はずれている。
猫ロボットたちの視線の先には横たわった七都がいたわけだが、七都が起き上がった今となっては、視線とその目標地点が、明らかにはずれてしまっていた。
七都が体を起こしても、猫ロボットたちはそのまま動かなかった。七都に合わせて、自分たちの動きを調節しようともしない。
最初からその姿勢で置かれたおもちゃのロボットのように、微動だにしなかった。
「な、何なの。これ、何なのよううっ……!!」
七都はあせりながら、猫ロボットに触れないよう、その間を通り抜け、輪の外に這い出た。
七都が出てしまっても、ロボットたちは相変わらず同じ角度で傾いたままだった。半透明の虹色の無表情な目が、何もない輪の中心を見つめている。不気味なくらいに動かない。
なんなの、これ……。
見た目かわいいけど、こわい。
七都は、ロボットたちを横目で見ながら、立ち上がる。
猫ロボットたちは七都を振り返ったり、見上げようともせず、そのまま静かに砂の上で輪を作っていた。
砂を含んだ風が、ロボットたちの足元をさらさらと流れて行く。
ロボットたちの体の磨かれた銀色と、頭に映った空のラベンダー色が、白い砂を背景にして場違いなほど美しかった。
(これなの? カーラジルトが見た『妙なもの』って……)
どこから来たのだろう? 見渡す限り砂漠なのに。
まるで何もない空間から、ひょっこり湧いて出たかのようだ。
けれども、この猫たちは機械なのだから、もちろんこれをつくった人物がいる。
七都にこのロボットたちを接触させてきた誰かがいる。それは確かだ。
「でも、無視すればいいって、カーラジルトは言ってたものね。そうすれば何も起こらないって。これがエルフルドのちょっかいなのかどうかわからないけど、ゼフィーアも無視するようにって言ってたし。とにかく、スルーだ」
七都は、髪と服についていた砂を丁寧にはらった。
そして、何事もなかったかのように、歩き始める。
七都がそこをあとにしても、猫ロボットたちが追いかけてくる気配は、全くなかった。
しばらく歩いたところで、七都は後ろを振り返ってみる。
ぞくっと、背筋を冷たいものが流れた。
猫ロボットで出来た輪は、忽然と消え失せていた。
それがあったはずのところには、他のすべての景色と同じ、なめらかな白い砂の平面しかなかった。
七都は、流れる砂が薄い膜のように覆う地表をただ眺めた。
夢……?
お母さんの気配とか声とか手の感触とか……それから今の猫ロボットまで?
わたしがこの砂漠の中で作り上げた、単なる夢?
やっぱり全部、夢か幻……?
やがて、ロボットたちがいたはずの場所は、砂漠の光景の中に埋もれ、もう他とも区別がつかなくなってしまう。
どこを向いても同じ砂の風景。同じような丘。同じような傾斜。
それも刻一刻、ゆっくりと形を変えていく。
ナビがなかったら、混乱して完璧に迷ってしまいそうだ。
七都はナビをお守りのように握りしめ、再び歩き出す。
少し眠ったので体の調子はましだったが、変な夢を見てしまったことが七都の気分を重くする。
やっぱり、緊張してるのかな。
何せ、ここは魔の領域なんだもの。
事前に仕入れた先入観も、しっかり持ってるわけだし。
だが、夢にしてはリアルだった。
母にしても、猫ロボットにしても……。
十分くらい歩いたところで、七都は思わず立ち止まる。
「夢じゃない……!!」
目の前にいきなり現れたものを見て、七都は呟いた。
そこには、あの猫ロボットたちがいた。
砂の丘の上に、等間隔で一列に並んでいる。
ざっと見たところ、十数匹……。もちろん全部同じ、例の銀色の猫ロボットだ。
(あそこには、さっきまで何もなかったのに……)
七都は、ロボットたちを睨んだ。
彼らのいる場所を避けようとすると、丘を降りて、大きく迂回しなければならなくなってしまう。
瞬間移動しちゃおうか?
七都は思ったが、それもまた、迂回する以上に体力を使ってしまいそうだ。
無視すれば、何も起こらない。
カーラジルトの言葉を信じる。
あの猫たちは、何もしてはこない。
さっきも何もしなかった。ただわたしを囲んで、見下ろしていただけ。
スルーだ。スルー。
七都は、猫の目ナビをつぶれそうなくらいに強く握りしめ、大きく距離を取って、そろそろと猫ロボットたちの前を通る。
七都が横切っても、猫ロボットたちは無反応だった。
整列したまま、半透明のオパールのような丸い目で、遠く地平の彼方を見つめている。
その立体図形のような銀色の体が、一瞬でも動くことはない。
いったいこんな砂漠の真ん中で一列に並んで、何をしているのか。何を見ているのか。
七都は疑問に思ったが、そんな疑問はきれいに消し去ってしまわなければいけない。関わりになってはならないのだから。
猫ロボットたちの前を無事に通り過ぎた七都は、ほっと安堵の溜め息をつく。
やっぱり、何も起こらなかった。こちらが仕掛けなければ、きっと向こうも何もしてはこない。
カーラジルトは何度も無事に通り抜けたのだ。
確かにカーラジルトなら、無視しそうだよね。七都は思う。
あまりじゃれたくなる代物でもない。
全然魅力的には動かないし、かじっても歯型もつかない金属だし……。
華奢なつくりに見えるけど、あれは機械なのだ。猫パンチしたって猫キックしたって、びくともしなさそうだ。
七都は、ちらと後ろを振り返る。
整列した猫ロボットたちの姿は、もうなかった。先ほどと同じように。
砂の丘には、彼らが存在したという微々たる痕跡さえ皆無だ。
また、消えた。
これ……。やっぱり、誰かにおちょくられてる?
七都は眉を寄せ、何もない白い丘を眺めた。
あの猫ロボットたちも、瞬間移動が出来るとか?
それか、誰かが瞬間移動させている。
とにかく、夢じゃないことは確実だ。
七都は、再び歩き始める。
ああいうのが、風の都に着くまで、ずっとこんな感じで現れるのだろうか。
その度に緊張して、横を通り過ぎなければならない。憂鬱だ……。
それから、しばらく歩いたところで、それらはまた七都の前に現れたのだった。
今度は違うパターンで。
今回現れた猫ロボットは、二匹だった。
一匹は砂の上に座り、もう一匹はその隣に立っている。先ほどと比べると、随分と数は減っていた。
七都は、少しほっとする。
二匹なら、そんなに圧倒されることもない。
たとえ自分より小さくてかわいらしいロボットでも、団体で寝ているところを囲まれたり、ずらっと並んで整列されたりしたら、不気味としか言いようがなかった。
七都は、心持ち歩く速度を遅くして、猫ロボットたちを観察する。
何をしているのだろう?
体育座りをしている猫ロボットは、手に長くて細い木の枝のようなものを持っていた。
木の枝は先端に行くほどさらに細くなっていて、その先からは糸のようなものが下がっている。
釣竿だった。間違いなく。
竿から伸びた糸は、砂の中に埋まっていた。
水ではなく、砂の中に糸を垂らして、釣りをしている?
七都は、釣り糸の埋まった白い砂の地面を見つめる。もちろん、歩きながら横目で。
な、何が釣れるの? こんな砂漠の中で?
砂の中に何かいる?
素直に興味が湧き上がってくる。だが、七都はそれを押さえ込んだ。
無視だ、無視。興味なんか持っちゃいけない。
七都は、二匹の猫ロボットのそばを通り過ぎる。
彼らは相変わらず全く動くことなく、釣りを続けていた。
その四つの半透明な目も、砂と釣り糸の交わる地点に、固定されたように注がれている。
少し歩いてから七都は、思いきって振り返った。
やはりそこには、二匹の猫ロボットたちの姿はない。
やっぱり……。
七都は溜め息をつき、砂漠の旅を続ける。
小さな丘を二つほど越えたあと、七都は、立ち止まりそうになる。
真正面に、今さっきと同じ光景が出現していた。
すなわち、釣りをしている猫ロボットと、その傍らに立つ猫ロボット。あの二匹の猫ロボットだった。
そのポーズも位置も釣竿の傾け具合も二匹の距離も、まるっきり先ほどと一緒だ。
スルーしよ……。
七都は、同じように猫ロボットたちの前を通り過ぎる。
その時、釣り竿がビンとしなった。
七都は思わず、猫ロボットたちのほうをまともに眺めてしまう。
砂の中に何かが潜っていて、釣り糸をとても強い力で引っ張っていた。
砂の表面が盛り上がり、その盛り上がりがジグザグに動き回っている。
ぐい、と猫ロボットが釣竿を引いた。その猫ロボットが動いたのは、初めてだった。
手は球で出来ているので持ちにくいはずだが、それでもロボットは一生懸命、いじらしいくらいに竿を引いている。
この猫ロボット、思ったより動きが滑らかだ。
七都は、思う。
機械特有のぎこちなさなんて、まるでない。
竿が砂の中のものに引っ張られ、大きく曲がる。
いったい何が釣れる? この砂の中から?
七都は、息を呑む。
完璧に立ち止まっていた。もう無視するどころではなくなっている。
砂の中から何が現れるのか。その興味と期待で、ロボットたちに目が釘付けになってしまう。
猫ロボットは、上空に向かって竿をぐいと上げた。
何か銀色に輝くものが、白い砂の中から引っ張り出される。
「あ……っ」
七都は小さく声を上げたが、そうしてしまったことをすぐに後悔した。
猫ロボットが釣り上げたのは、同じ猫ロボットだったのだ。
三匹目の猫ロボットが、白い砂を粉砂糖のように散らしながら、砂の中から現れる。口があるあたりに、釣り糸をくわえて。
三匹目は、そのまま宙にゆらゆらとぶらさがった。
砂にまみれた猫ロボットは、表面が曇りガラスのようだった。
くっきりとした落書きが出来そうだ。
七都はごく軽く、がっかりしてしまう。
(なんだ。自分たちで遊んでいただけなんだ……)
砂の中から、大きな機械のオサカナでも現れるのかと思った。
カーラジルトが剣の稽古のときに出してくれたみたいな。
七都の感想が聞こえたかのように、三匹の猫ロボットは、いっせいに七都のほうを見た。
それは不気味なくらいに素早く、それでいてさりげない動きだった。
砂の中から現れた猫ロボットも、釣り糸にぶらさがった状態のまま、七都を見つめている。
七都は、口を押さえた。
声には出していないはずだったが、七都の軽い落胆は、猫ロボットたちにしっかりと伝わったらしい。
もちろん七都がどんな感想を持とうと、それは七都の勝手に過ぎない。
彼らは彼らで、遊んでいるだけなのだ。
どのようなものが砂の中から現れようと、通りすがりの七都には関係ないし、現れたものに対して七都がどう思おうと、彼らの知ったことではない。
とはいえ猫ロボットたちは、気を悪くしたような感じではなかった。
<何か文句でも?>とか、<悪い?>といった開き直った態度でもなく、あるいは<なんだよ、こいつ>というような、腹を立てたっぽい雰囲気でもない。
ただ無表情なオパールのような目で、七都をじっと眺めている。三匹とも、全く同じ角度で顔を傾けて。
(し、しまった。無視できなかった……)
七都は我に返り、猫ロボットたちに背を向けて歩き始める。
ロボットたちの視線が、背中にやんわりと突き刺さった。
(み、見られてる……。まだしつこく見ている……。でも、振り返ると、どうせ消えてるんでしょ?)
七都は、勇気を出して後ろを向く。
思ったとおり三匹の猫ロボットの姿は掻き消え、そこには砂以外何もなかった。
七都は、引き続き砂漠を歩く。
低い砂の丘を越えると、七都が来るのを待ちかねていたとばかりに、また銀色のものたちが丘の下に湧き出ていた。
七都はそれを見て、頭を抱えたくなる。
歩く速度も自然と遅くなった。
まただ……。
何かだんだん、見た目のシチュエーションが、微妙にエスカレートしているような気がする……。
最初は、寝ていた七都を輪になって取り囲んでいた。
次は、ずらっと整列していた。その次は、釣り。
そして、今度は――。
七都は、うんざり気味に、真ん前に現れた光景を眺めた。
今度は、UFOか……。