第2章 地の底の貴婦人 12
まずいな……。
アーデリーズに吸い取られて、エディシルが、さらに、うんと減ってしまった。
空腹感とか喉の渇きとか、そういうものはもうとんでもなく通り越して、ただ体が動かない。
だるくて、頭がぼうっとする……。
鈍いような痛みも、胸のあたりにわだかまっている。
七都は、目を閉じたままキディアスに運ばれ、空気が皮膚の表面をゆっくりと流れて行くのを感じる。
そしてキディアスの低い体温のぬくもりを、服を通して感じ取る。
キディアスが手袋をしてくれていて……それに、アーデリーズがわたしに指輪をはめてくれて、本当によかった……。
七都は、改めて思った。
もしそうじゃなかったら――。
キディアスを襲っていなかったなんて、自信を持って言えない。
素手で直接こうやって抱えられていたら……。
きっと彼のエディシルをもっと近くに感じていただろう。
それに、彼の首筋がこんなに近くにある。
目を閉じていても感じる、白くてきれいな、魅惑的な首筋……。
これは、ものすごい誘惑だ。
指輪の抑制の力がなかったら、無意識のうちに噛み付いているかもしれない。
キディアスは、客間に入った。
そして、長椅子の上に七都をそっと降ろす。
七都は目を開けた。
真正面に、キディアスの顔と冬の海色の青黒い両眼があった。
彼とまともに目が合ってしまう。
近い。面食らうくらいに、近すぎる。
もう少し目を閉じていればよかった。
七都は、目を開けてしまったことを後悔する。
キディアスは、凍りついたような暗いブルーの目で七都をしばらく見つめていたが、やがて口を開いた。
「ナナトさま。私のエディシルを召し上がりますか?」
七都は、キディアスから目をそらす。
気づかれてしまった。
彼のエディシルをほしいって思ってしまったこと……。
そんなに物欲しそうな顔したっけ。自己嫌悪だ……。
やっぱりお腹がすいているときには、魔神族とだってにらめっこはしちゃだめだね、セレウス……。
「ごめんなさい。気にしないで」
七都は、再び目を固く閉じた。
「いえ。これだけエディシルが減ってしまえば、そういう欲求が起こるのは、ごく自然のことですよ」
「だいじょうぶだよ。指輪が抑えてくれてるから」
「構いませんよ。指輪を取ってしまわれても。私は、自分のエディシルはシルヴェリスさまにしか召し上がっていただかないのですが、あなたになら差し上げてもよろしいです」
「ナイジェルが……?」
七都は思わず目を開いた。
キディアスは再び七都に見つめられ、硬直したかのように視線をそのまま七都に止めてしまう。
表面は冷静そうに見えるけど……。
もしかして、キディアス、私と目を合わせて、動揺しているの?
心の隅でそう思いながらも、七都は彼に訊ねた。
「ナイジェルは、いつもあなたのエディシルを食べているの?」
「魔王さまは、魔貴族、もしくはグリアモスからエディシルを摂られます。人間のエディシルでは、とても足りませんからね。魔貴族には、そういう役目もあるのですよ」
キディアスが答えた。
「そう……」
ということは、当然のことだけど、ナチグロ=ロビンとやってたみたいに、ナイジェルはこの人とキスを……それも、しょっちゅうしてるんだ……。
七都は、抱き合ってキスを深く交わしているナイジェルとキディアスを想像してみようとしたが、途中でやめておいた。
結局そうなんだろうけど。あまり考えたくない……。
「あなたは、アヌヴィムからエディシルを?」
七都は、キディアスに訊ねた。
「はい。魔貴族はたいがいそうですよ。でも、今回の旅には、アヌヴィムは同行させていませんからね。一般の人間から摂りましたが」
「一般の人間……? つまり、そのへんにいた人間を襲ったってわけね」
「人間が我々に、自ら喜んでエディシルを差し出すわけもありませんから」
キディアスは肯定のかわりに、にっこりと微笑んだ。
「それが、何か?」
わかってるよ。
魔神族の食料は、人間。
人間を襲ってエディシルを食べるのも、魔神族にとっては普通のこと。
キディアスは、カーラジルトのように、誰かに人間を襲うなって言われて、それに従ってるわけじゃないもの。
確認しなくても答えは明らかなはずなのに。
答えを聞いてへこむのがわかっているのに……聞いてしまった。
「あなたからエディシルはもらえないよ。 わたしは蝶とカトゥースでいい」
七都は、彼に言う。
「しかし、ナナトさま。この地の都には、蝶はおそらくいないのでは……」
キディアスが眉をひそめる。
「地の都は特殊な構造になっていますからね。上は砂漠、その地下の狭い空間に居住都市。蝶にとって住みやすいところではありません。地の都で、蝶のようにひらひら飛んでいるものといえば……」
「わかった。コウモリでしょ」
キディアスは、にこりともしないで頷いた。
「そういうことですね。だから、蝶がたとえいたとしても、どこかの魔貴族の屋敷で、鑑賞用に少数飼われている程度でしょう。あなたの空腹を満たせる程度の数は揃わないかと……」
「そうなの? 困ったな」
「でも、エルフルドさまはおっしゃったじゃありませんか。我々の口に合うものを用意すると。私のエディシルを召し上がられないのであれば、そちらをもう少しお待ちになればよろしいですよ」
「魔神族の口に合うものって、だいたい想像つくよ」
七都はうんざりと、部屋の中に視線を漂わす。
ストーフィが、いつの間にか戻って来ていて、テーブルの上に座っていた。
七都の荷物の間に無理やり押し込まれた玩具のような感じで。
指輪は出してくれたものの、薬のほうを出してくれる気配は一向になさそうだ。
この猫ロボット、どれくらいの知能なんだろう。
七都は、ストーフィを眺めながら、ふと思う。
あのタイミングで指輪を出してくるなんて、偶然なのだろうか。
案外人間なみの心を持ってて、知能もものすごく高かったりして?
けれどもストーフィは、無表情なオパール色の目で、黙って七都を見つめ返すだけだった。
パタパタパタ……。
何か軽く乾いたものが羽ばたく、微かな音を七都は聞く。
それも、かなりの数の――。
あれは……。
「キディアス。悪いけど、窓を開けてくれる?」
「窓ですか?」
キディアスは立ち上がって、窓のそばに近寄る。
「気をつけて。飛び込んでくるから」
七都は注意したが、キディアスは、あっと叫び声をあげ、思わず身を低くした。
彼を圧倒するくらいの大量の蝶が、開いた窓から流れ込んできたのだ。
透明な蝶たちは、部屋の中を乱舞した。
だが、部屋全体に広がる前に、蝶の群れは、そのすべてが銀の粉となって、一瞬のうちに消え失せる。
キディアスは呆然として、蝶の群れと、その群れが見事に消滅するのを眺めた。
「信じられぬ。いったいどこから蝶が、こんなに……」
「いつもどこからか来てくれるの。わたしのところに。ここでもやっぱり来てくれた」
「今のを全部召し上がられたのですか?」
キディアスが、幾分あきれたように七都に訊ねる。
「うん。蝶の一気食い。ご馳走さまでした」
この間は、眠っているときに、無意識で蝶の群れを食べてしまった。けれども、今回は違う。自分の強い意思でそうした。
気持ちが悪いとか、かわいそうだなどとこだわっている場合ではない。
蝶のおかげで七都の空腹感はなくなり、体のだるさも取れつつあった。
とはいうものの、本当はまだ足りないということは知っている。
慢性的なエディシルの不足は、蝶などでは決して解消されない。
アーデリーズに指摘されるまでもなく、無理をしていることは自分でもわかっていた。
でも、このまま風の都まで行く。あと少しなのだ。
誰のエディシルも摂取することなく、元の世界に帰れるのなら、そうしたい……。
七都は、蝶のエディシルが体を心地よく廻って行くのを感じながら、長椅子に横たわる。
扉がたたかれ、一人の少年が現れた。
七都と同じくらいの年だ。黒髪に、エメラルド色の目。
美しい少年だった。
モスグリーンの服に、白いマントを羽織っている。
手には、カトゥースのお茶一式を乗せたトレーを持ち、カトゥースの豪華で新鮮な花束を背負っている。
「あ。カトゥースを持ってきてくれたの? エルフルドさまから? ありがとう」
七都が声をかけると、少年はお辞儀をして、テーブルの上に持ってきたものを並べた。
そして、慣れた手つきで、カトゥースのお茶を用意し始める。
「キディアス。あなたも飲む?」
「いえ。私は自分の部屋でいただきます。おそらく私の部屋にも準備されていると思われますので」
キディアスは答え、少年がお茶を入れるのを見つめた。
七都は少年から熱いお茶を受け取り、ゆっくりと飲む。
やっぱり、落ち着く。
蝶のあとにカトゥースなんて、とても贅沢な気分だ。
おまけにお花もたっぷりあるし。
あとで全部いただこう。
少年は、黙って、七都がお茶を飲むのを眺めている。
そのエメラルドの目の奥に、おびえに近い緊張のようなものが、ちらりと揺れた。
七都が風の王族の姫君ということで、必要以上に固くなっているのかもしれない。
キディアスは腕を組み、じっと彼を見据えていた。
「ご苦労さま。もう戻ってもいいよ」
七都が言うと、少年は両手を握りしめた。
安堵するかと思ってそう声をかけたのに、彼は反対に、さらに緊張したようだ。
彼は顔をこわばらせ、意を決したように七都に言った。七都とは絶対に目を合わさないようにしながら。
「私が何か、失礼なことでもしてしまったのでしょうか?」
「え? 何言ってるの。あなたは別に、失礼なことなんてしていないよ」
この男の子は、いったい何を言い出すんだろう?
七都は不思議に思いながら、続けた。
「あなたは、上手にちゃんとお茶を入れてくれたじゃない? 完璧なくらいに。だから、もう下がっていいよ。ありがとう」
少年は、泣きそうな顔をする。
「下がってもいいとおっしゃるのですか?」
「うん……?」
少年は、さらに、きれいな顔をくしゃくしゃにした。
何かわたし、彼に悪いこと言ったのかな?
七都は少年に訊ねようかと思ったが、聞ける雰囲気でもない。
打ちのめされたかのようにうなだれ、突っ立っている。
「ナナトさま。彼は、このままでは戻れませんよ」
キディアスが言った。
「え? なんで?」
「エルフルドさまがおっしゃったでしょう。私たちの口に合いそうなものを用意するって」
「だから、カトゥースを用意してくれたんでしょ?」
「カトゥースではありません。それは言わば、おまけというか、付属物のようなもの。用意されたのは、彼です」
「え……?」
「彼はアヌヴィムです。わかっておられたのでは?」
キディアスが、ふっと笑う。
七都は、思わず少年を見た。
ああ、そうだ。
確かに――彼は人間だ。
最初からカトゥースをメインにして見てしまったから、あまり意識もしなかった。
単なる『美少年の召使い』くらいにしか思っていなかった。
少年は、ただひたすら床を見つめていた。
セレウスが落ち込んでうなだれたときよりも、はるかに暗かった。
「つ、つまり、アーデリーズが、私の口に合いそうなものをって用意してくれたのが、彼だってこと?」
「そうですよ。きっとたくさんいるアヌヴィムの中から、彼を選んでくださったのでしょう。最も美しく、そして生きのいい、ナナトさまのお年にも合いそうな若者を……」