第2章 地の底の貴婦人 11
「あなたは、泣けるの? いいわね。そういうところは人間に近いのね」
アーデリーズが、目ざとく七都の涙を見つけて、言った。
「私は泣けないわ。この世界では、涙は一滴だって出ない。元の世界で人間だったときは、涙は溢れ出たのに。ここでは、涙を流したいと思っても、決して出てこないのよ」
アーデリーズは、七都の頬に唇をつけた。
「懐かしい味だわ。昔を思い出す。ナナト、私の代わりに涙を流してちょうだい」
アーデリーズは、息が出来ないくらいに、強く七都を抱きしめる。
ずきん、と胸の傷が疼いた。
痛みが七都の体を分断するように走る。
エディシルが減りすぎている。シャルディンをアヌヴィムにした時と同じように……。
七都は、傷がさらに広がったのを感じた。
このままアーデリーズに抱きしめられていたら、もっとエディシルを吸い取られ、自分を失ってしまう。
そうなったら、本能的にエディシルを求めて、目の前の彼女を襲ってしまうか、そうなる前に傷が大きく広がって、この体を引き裂いてしまうかもしれない。
「アーデリーズさま。その方を帰してさしあげないと、風の都と戦争になってしまいます」
ラーセンが言った。
ラーセンもまた、かなりの勇気を持って、アーデリーズを諌めたに違いない。
だが彼は、その言葉を口にした途端、アーデリーズの視線をまともに受け、床に倒れこんでしまう。
アーデリーズは、愛らしい、だがぞっとするほどの冷たさを含んだ微笑みを浮かべた。
「シルヴェリスの右腕の代償として、この子がここにいることを選ぶなら、誰にも文句は言わせないわ。それで私たちの取引は完結したってことだもの。この子は私のものよ。リュシフィンが戦いを仕掛けて来るというのなら、受けて立つわよ」
アーデリーズの結った髪が崩れて宙に渦巻き、金の目に闇が宿った。
恐怖が、その場に満ちていく。
彼女の、行き場のない怒り――。寂しくて悲しくてやり切れぬ思い。そして、流せない涙。
そういうものを怒りに変え、それを撒き散らしながら、彼女はここで生きている。
そうやって、心を支えている。周りの人々を傷つけながら。
だけど、アーデリーズ……。
それでは、周りがもたないよ。
あなたの周りの人たちは、あなたを受け止めるほど強くない。
あなたが暴走してしまうと、魔貴族には、誰にも止められない……。
魔王さまの心が壊れたら、いったい誰が阻止出来るのだろう?
もしかしたらリュシフィンも、そうやって心が壊れて、誰にも制されることもなく、暴走してしまったのかもしれない。そして、風の都を壊滅させたのかもしれない……。
七都は、ぼんやりと思う。
カラン、という金属がこすれるような小さな音が、七都のすぐそばで鳴った。
あの音は……。
七都はアーデリーズの腕の中に抱かれたまま、顔をテーブルのほうに向ける。
かすむ視界の中に、銀色のものが見えた。
ストーフィ……!
七都が連れてきたロボット猫が、テーブルの上に座っていた。
その半開きにした口に小さな輪のようなものがひっかかっているのが、ぼやけて見える。
赤い石。銀の竜――。それは、イデュアルの指輪――。
ストーフィは、『ほら、これ……』とでも言いたげに、オパール色の目で七都を見つめている。
七都はストーフィに向かって、手を伸ばした。
ストーフィがくわえていた指輪が消え、七都の手のひらに瞬間移動して現れる。
こういう状況でも、まだ魔力を使えることが意外でもあり、嬉しくもあった。
指輪は、少し熱を帯びていた。
ストーフィの体の中に入っていたせいかもしれない。
イデュアル……。
わたしに力を貸して……。
七都は、指輪を握りしめた。
冷たい手の中で、指輪は、そこに意識を集中できるくらいに熱かった。
「アーデリーズ……。わたしがあなたのそばにいて、あなたは本当に満足なの? あなたの心は、わたしがここにいることで癒されるの……?」
七都は、アーデリーズの耳元で呟いた。
声はかすれ、唇もあまり動かなかったが、それでも七都は彼女に話しかける。
「わたしをここに留めておいたら、あなたは罪悪感と後悔に悩まされ続けることになる。わたしを見るたびに。わたしと話すたびに……。あなたの心は、ますます悲しくて、寂しくなってしまうよ。本当はわかっているんでしょう、アーデリーズ。そうなってしまうことを、あなたがいちばんよく知っているはずだよ。あなたはそんなひどいこと、出来る人じゃないもの……。とてもやさしい人なんだもの……」
「まあ、ナナト。何を言ってるのかしら。私は魔王なのよ。どんなひどいことでも出来るわよ」
アーデリーズが、冷ややかに笑う。
彼女の目の中の闇は、さらに広がろうとしていた。
「アーデリーズ……。いえ、エルフルドさま」
七都はアーデリーズの顔の前で、そっと手を広げる。
アーデリーズの指輪を見下ろす目が、大きく見開かれた。
「ヴェルセル公爵家の指輪……」
アーデリーズが、うわ言のように呟いた。
彼女の目からは黒い闇が消え、元の澄んだ金色の目が、次第に戻ってくる。
「なぜ? なぜあなたがこれを持っているの?」
「イデュアルが……くれました。これを付ける人はもういないから、わたしに付けていてほしいと……」
「イデュアルに……会ったの?」
「彼女はわたしの腕の中で、太陽に焼かれて溶けました。あの処刑場の石の椅子の上で……。人間に助けられ、一度はそこから逃れたのに、自らそうなることを望んで、戻ったんです……」
アーデリーズは、七都の手の中で輝く竜の指輪を凝視する。
「イデュアルは、あなたがあの処刑場に来てくれたことをとても喜んでいた……。あなたが抱きしめてくれたこと、何度もあやまってくれたことを、夢見るように話していた……。それは彼女にとって、死の恐怖を忘れるくらいに嬉しいことだったんです。魔王さまが、死刑囚の処刑される現場に来るなんて、あり得ないことなのでしょう? だけど、あなたにはそれが出来た。あなたがそういう、やさしくて、真っ当な心の持ち主だから……。きっと、地の魔神族の人たちは、知ってるんです。あなたが本当は恐ろしい魔王さまじゃなく、とてもやさしい方なのだということを。それだからイデュアルは、あれほどあなたを慕っていた。だから地の魔貴族の女の子たちが、みんなあなたに憧れて、あなたの専属の女官になるのを競ってるんです……」
アーデリーズは黙りこみ、きらめく指輪を見つめている。
「あなたは砂漠のお茶会で、わたしが人間のお菓子を食べたときにも、本気で心配してくださいましたよね。青くなって、おろおろして……。それに、グランディール卿にもエクト卿にも、それからラーセン侯爵にだって、あなたはさりげなく気遣いをして、ごく自然にお礼もお詫びも言っておられる。あなたは、グリアモスさんにも義手と義足をつくってあげた。ここでもっと、わたしが知らないやさしいことを皆にいっぱいしてあげているはず……。あなたはここでの生活を受け入れておられない。だけど、あなたは皆から必要とされ、受け入れられているんです。地の魔神族の人たちから、慕われているんですよ……。だから、どうか、怒りに任せて周りを傷つけないで。あなたのつらいお気持ちは、わかります。わたしはそんなこと言える立場じゃないかもしれないけれど……。だけど、あなたはたったひとりの地の魔王さまなんです。太陽が平気だって、人間の食料を食べれたって、暗くて狭いところが苦手だって、ここの魔王さまなんです……」
<この地の都は、あなたと共にあります。あなたが守っていかなければならぬのですよ。あなたはこの都に必要とされたから、今ここに、私たちとおられるのです>
<エルフルドさま。エルフルドさま。ああ、夢みたい。来てくださったんですね。夢みたい……。私、もう、死ぬのなんて怖くありません。だって、あなたが来てくださったのですもの。この一瞬を抱きしめていられれば、何も怖くありません……>
アーデリーズの耳の奥に、同じ金色の目を持つよく似た顔立ちの父娘の声が、一瞬通り過ぎて行った。
アーデリーズは眉を寄せ、目を閉じる。
しばらくそうして七都を抱きしめていた彼女は、やがて目を開けた。
彼女の表情は、憑き物が落ちたかのように、穏やかだった。
禍々しい赤い雲のように宙に渦巻いていた髪も、彼女の肩を静かに覆いながら下に落ちる。
アーデリーズは、イデュアルの指輪を七都の手のひらからつまみあげた。それからそれを七都の指にはめる。
「この指輪は、あなたが持っておいでなさい、風の姫君。これは、私の先祖が親愛の証として、ヴェルセル公爵家に与えた指輪。あなたを守ってくれるでしょう」
「アーデリーズ……」
アーデリーズは、七都を真っ直ぐ見つめ、微笑んだ。気高く、美しく、理知的な微笑だった。
「あなたには、待っていてくれる人がいる。元の世界には父上が。風の都にはリュシフィンが……。彼らのところにお帰りなさい」
「帰ってもいいの……?」
「あなたは、自分の行くべきところに行くといいわ。そうよ。私だって馬鹿じゃない。お隣といさかいを起こしてはならないってことは、じゅうじゅう承知してる。怖い思いをさせて、ごめんなさい、ナナト」
「ううん。アーデリーズ、怖くなんかないよ……」
七都はアーデリーズに手を回そうとしたが、手はだらりと下がったまま、力は入らなかった。
「ナナト。シルヴェリスの機械の片手とあなたの一生では、取引するには、あまりにもあなたが不利よ」
アーデリーズは、くすっと笑う。
落ち着いた明るい笑顔……。
七都は、安堵する。
「シルヴェリスの義手は、つくるわ。あなたから頼まれなくても、つくったと思う。そういう話を聞いてしまったら、つくらないわけにはいかないもの、私たちとしては」
「私たちって……。あなたと、それから、ストーフィをつくってグリアモスさんの義手と義足もつくった人……?」
「そう。二人一組で仕事をしているからね。ああ、あとから一緒に行きましょう。いろいろと打ち合わせがいるものね。キディアス、あなたもね。シルヴェリスの腕の状態は、あなたがいちばんよくわかっているでしょうから」
アーデリーズは、キディアスに視線を移す。体勢を立て直したキディアスは、頭を下げた。
「キディアス。あなたも、ごめんなさい。だいじょうぶ?」
「大事ありません。もったいないお言葉です……」
キディアスは、さらに丁寧に深くお辞儀をした。
「不快な思いをさせて悪かったわ。すぐにでも、あなたたちの口に合うものを用意させるわね」
アーデリーズは七都を開放し、優雅にくるりと方向転換する。
「もう食事は終わりよ。ラーディア、着替えるわ」
それからアーデリーズは、ラーセンにすまなさそうに声をかけ、侍女たちを引き連れて、扉から出て行った。
支えるものがいなくなってしまった七都の体は傾き、その場にゆっくりと倒れこむ。もう、立っていられなかった。
キディアスが素早く七都の背中に手を回し、崩れる七都を受け止める。
ラーセンが駆け寄ろうとするのをキディアスが頷いて、制止した。
「ナナトさまは、私が部屋にお連れします」
キディアスは、目を固く閉じた七都の顔を覗き込む。
「あのまま答えを促されたら、何と答えるおつもりだったのですか?」
彼が訊ねた。
「わかりました、ナイジェルの右手をつくってくれる代わりに、わたしはあなたの侍女になりますって……? わたしがそう答えたと思う?」
「そうお答えになったのなら、そこまでシルヴェリスさまのことを思っておいでになるのかと感動するところですが」
「ごめん。感動してもらえなくて。淡い恋の初めだって言ったのはあなたじゃない、キディアス。わたし、知ってたの。アーデリーズがそんなにひどい性格の人じゃないって。イデュアルの話を聞いたときから、そう確信してた。だから、わたしにそんなこと絶対にしないって思った。本心で言ってるんじゃないって、わかったの……」
キディアスは、ふっと溜め息を漏らし、それから微笑んだ。
「あなたは、エルフルドさまより、はるかにしたたかなのかもしれませんね。まあ、そうでなくては、魔王さまのお妃など務まりませんから」
今度は、七都が溜め息をつく。
「ナナトさま、立てますか?」
「……無理みたい」
七都が答えた途端、キディアスは、七都を軽々と抱え上げた。
うっわ。お姫様だっこされてしまった。
七都は目を閉じたまま、身を固くする。
キディアスは七都を抱きかかえたまま、ゆっくりと歩き始めた。
「あなたにこんなふうに運ばれるなんて、想像もしなかったよ……」
七都は、呟いた。
「嫌われていることは、もちろん、知ってますよ」
キディアスが言う。
「あなたがわたしに、嫌われるようなことをさんざんしたからだよ。自業自得でしょ」
キディアスは、苦笑する。
「では、お待ちしますよ。あなたが私に心を許してくださるまで」
「まだ少しかかるかも。でも、わたしも本当は、あなたとは笑顔でお話したいなって思ってるからね」
「ぜひ、そうさせていただきたいですね」
キディアスは、七都を宝物のように大切に抱きしめ、地の魔王エルフルドの別邸の廊下を静かに運ぶ。
二人のあとを、銀の猫ロボットのストーフィが、ちょこちょこと追いかけてついて行った。