第2章 地の底の貴婦人 10
「もうすぐあなたは動けなくなるわ。もっとエディシルが減ってしまったら」
アーデリーズが言った。
「わたしを……殺すつもりなんですか……?」
七都が訊ねると、彼女は首を振る。
「そんなつもりはないわ。その逆よ」
アーデリーズの金色の目が、近くなる。
気がつくと、彼女は七都のそばに立っていた。
キディアスが、慌ててひざまずく。
アーデリーズは、七都の背中に手を回した。そして、七都を抱きしめる。
「あなたのエディシルは、素敵ね、風のお姫さま。きっとあなたは、リュシフィンにとても近い血筋なのかもしれないわね。でも、それも私には関係ないけど」
彼女は、七都の耳元でささやくように言った。
「エディシルがもっとなくなったら、あなたの理性は吹き飛んでしまうわ。今のあなたをかろうじて支えている、ご大層な人間の常識もね。魔神族としての本能だけで、動かざるを得なくなる。エディシルを求めてね。そうしたら、私のエディシルを摂るといいわ。欲しいだけ体に入れればいい。そうなるまで、こうしていてあげる。グリアモスの爪で引き裂かれたあなたの傷は、間違いなくきれいに治るでしょう。魔王のエディシルなんだもの。最強よ。魔王からエディシルがもらえることなんて、めったにないのよ。感謝してほしいくらいだわ」
アーデリーズは、七都の頬をいとしげに撫でた。
「あなたを見ていると、ある少女を思い出す。あなたと同じ年頃だった。私はその子を助けられなかった。でも、あなたは助けてあげる」
イデュアル……。
それは、たぶん、イデュアルのこと……。
アーデリーズの顔がぼやけた。
七都の目が、次第にかすんでくる。
「でも、傷が治ったら、あなたにはここにいてもらうわよ。ずっとね」
「それは……無理です。わたしは……」
七都は、かすれる声を絞り出す。
「風の都に行く? そしてそれから、元の世界に帰るの?」
アーデリーズは、にやっと笑った。そして、七都の髪を乱暴にぐっと引く。
「許さないわ、ナナト。元の世界に帰る、ですって? 絶対に許さない!」
彼女はそれから、とても悲しそうな表情をした。
「私は帰れなかったのよ。元いた世界……生まれ育った世界に。私の正体を知ったその世界は、私を拒否した。平凡だけど、幸せだった。毎日が光り輝いていて……。もうすぐ結婚するはずだったの。だけど、この冠がその幸せを奪った。私は、ここで生きるしかなくなったのよ」
アーデリーズは七都を見下ろし、腹立たしげに呟いた。
「よくも私の前でぬけぬけと、元の世界に戻るなんて言えたものね。なぜあなたは拒否されないの? 正体をまだ知られていないから? でも、もう無理よ。私がエディシルをあげたら、あなたの魔力は強くなる。そうしたら、元の世界に戻っても、その魔力を自分で制御できなくなってしまう。人間たちの前で、あなたは自分の魔力を露呈してしまうわ。あなたは元の世界では、人間として暮らせなくなる。私と同じように、ここで生きるしかなくなるのよ」
アーデリーズは、七都を観察するように、まじまじと眺める。
「ふふ。かわいいわ。お人形さんみたい。私、前から、あなたのような子をそばに置きたかったの」
彼女は、七都を抱きかかえた。
「ナナト。シルヴェリスの右腕は、つくってあげる。でもその代わりに、あなたは私のそばにいるのよ。一生ね。たとえシルヴェリスやリュシフィンがあなたを取り戻しに来たって、渡さないわ」
それからアーデリーズは、そばでひざまずいているキディアスを、ふと見下ろした。
「なあに、デフィーエ伯爵。何か言いたそうな顔をしているわね。言いたいことがあったら、遠慮せずに言ってみたら? ほんと魔貴族って、陰でこそこそ悪口を言うのに、面と向かったら何も出来ないわよね。それに、私の機嫌が悪いときは、最初から決して関わり合いになろうとしない。私が明らかに無謀なことをしたって、止めることもしない。なんてむかつく人たちなのかしら。たった一人だけ、私を叱れる公爵がいたけど、彼も突然消えてしまったから、今はもう、そういう気骨のある人は誰もいない。キディアス、この子があなたの主君の正妃になる子なら、身を挺して私から取り戻したらどうなのよ?」
名指しされたキディアスの顔は、蒼白だった。
だが彼は、うつむいたまま、口を開く。彼の声は小さく、かすれていた。
「エルフルドさま。シルヴェリスさまの義手をつくって下さるのでしたら、水の都から御礼を差し上げましょう。もちろん、シルヴェリスさまご本人からも……。ですから……」
おそらくキディアスは、相当の勇気を出し、そして覚悟を決めて、地の魔王である彼女に申し出たに違いなかった。
けれどもアーデリーズは思いきり眉を寄せ、キディアスを睨む。
「デフィーエ伯爵。私は今、ナナトと取引しているの。横からしゃしゃり出ないでくれる?」
キディアスは、うめき声をあげて、うずくまった。彼女に何か苦痛を与えられたらしい。
「シルヴェリスの正妃なんて、代わりはいくらでもいるんでしょう? あなたは別のお姫さまを探したら?」
アーデリーズ……。
何て不安定で、むらだらけのあなたの心……。
あなたの状況は、ランジェと似ている。
このままでは、いつか、ランジェのようになってしまうかもしれない。
ランジェは、望まぬまま領主にさせられ、周りから腫れ物のように扱われ、最後には魔神族の女の子に魅入られて、罪を犯してしまった。
ランジェは人間だったし、王様でもなかったけど、あなたは魔神族で、魔王さまなんだ。
心が壊れたら、ランジェどころじゃなくなってしまうよ……。
七都はアーデリーズの腕の中から、ぼやけた目で天井の明るいシャンデリアを見つめた。
目を開いたまま、閉じることも、もう出来ない。
意識がさらに遠のいていく。
エディシルが、彼女に吸い取られていく――。
アーデリーズは、七都の額に自分の唇を押し付けた。
七都の額に金色の花びらのような形が、くっきりと浮かび上がる。
それは地の魔王の口づけの印。
三人目の魔王の口づけのあとだった。
三つの印は重なり合い、一つの美しい紋章のような形を作っていた。
魔神族たちが息を呑む。
ラーディアを含めた少女たちの多くは、うらやましげな溜め息を短く漏らした。
「ナナト。あなたは、私の侍女になるのよ。常に私のそばに控えていてもらうわ。ベッドも共にしてもらう。私が命令することは全部、何だってするのよ。もちろん、人間のエディシルも魔神族のエディシルも集めてきてもらうわ。砂漠でのお茶会にも付き合ってもらう。あなたは太陽の下に出られるのでしょう。だったら、二人で魔の領域の外に行きたいわ。朝だって、昼だって。一日中だっていい。私たちは太陽なんて気にしなくていいもの。そして、この世界のさまざまなところに行ってみましょう。別の世界に遊びに行ったっていいわ。あなたの元の世界にも。私がいた世界にだって」
侍女……。
わたしを侍女に……?
『侍女』というのは当然、魔貴族の娘たちがなれる女官よりも、ずっと下の身分だ。
七都を侍女にするということは、王族である七都に対する侮辱だけではなく、七都の額に口づけをくれたリュシフィンやシルヴェリスに対する侮辱でもある――。
アーデリーズは、そのことを理解していて、わざと言っているのだろうか。
だとしたら、それは自分の首をも絞めかねない、破滅的な言動でしかない。
ラーセンとラーディアが、心配そうに七都たちを見つめている。だが、彼らはやはり、何も出来ないのだろう。
七都の見開いた目から、すっと涙が一筋こぼれる。
それは、意識したものではなかった。
目を閉じられないために流れた、単なる生理的なものであるのか、それともアーデリーズの悲しみに対する共感なのか。
あるいは彼女の言動に対して感じる屈辱なのか、何も出来ない自分に対する情けなさなのか……。
意識が遠のいて行く中で、自分でもそれはわからなかった。




