第2章 地の底の貴婦人 7
「ナナトさま。お食事の用意が出来ました」
七都が窓のそばに座り込んで外の風景を眺めていると、白いドレスを着た侍女が入ってきた。彼女は七都に丁寧に礼をし、そう告げる。
「ありがとう」
七都は微笑んで頷いたが、侍女が出て行ってから、眉をしかめた。
「お食事って、何?」
魔神族の食事は、当然人間のものとは異なる。魔神族の食料は、人間のエディシルなのだから。
食事って。まさか、人間を……。
「エルフルドさまのお食事のことですよ」
扉からキディアスが現れて、言った。
「エルフルドさまは、毎回、人間の食事を召し上がられるとか。それに同席するようにとの意味です。我々は、もちろん食べられませんからね。ただ座っているだけでよいはずです」
「キディアス……」
七都は、扉の前に立ったキディアスを、じいっと眺める。
何となく悔しいけど……。だけど、きれいだ。とっても。
七都は、素直にそう思う。
キディアスは、お茶会に出席していた魔貴族と同じような感じの、上質な素材で織られた豪華な衣装を身にまとっていた。
白を基調にした衣装には、銀の糸で複雑な刺繍がしてあった。深いブルーの肩衣がその上にふわりとかけられ、見事な赤い宝石がはめられたブローチで留められている。
額には、ブローチと同じ赤い宝石が輝く銀の細い輪がはめられていた。耳にも、銀の飾りが揺れている。
七都が知っている、シンプルで地味な旅衣装のキディアスとは、雰囲気ががらりと変わっていた。
七都にしげしげと見つめられて、キディアスは少し困惑しているように見えた。
「何か?」
彼は、その場を取り繕うように、七都に訊ねる。
「ううん。ちょっと見惚れたの。キディアス、とても素敵」
キディアスは、さらに困ったらしく、七都から目を逸らしてしまう。
照れたのかもしれない。決してそうは見えなかったが。
「やっぱりあなたも魔貴族なんだね。そういう格好がとてもよく似合う」
キディアスは、おじぎをした。
「あなたさまも、非常にお美しいですよ。やはり王族の姫君だけのことはあられる……」
「そう? それはありがとう」
「やはり、並べてみたいものですねえ」
彼が顔を上げ、七都を再び見つめて呟いた。
「並べる?」
「あなたをシルヴェリスさまのお隣に。お二人は釣り合いも素晴らしく、とてもお似合いかと。きっと一枚の華やかな絵のようでしょう」
七都は、はあっと溜め息をついた。
そのとき、ラーセンが客間に入ってきて、七都とキディアスに頭を下げた。
「ご挨拶がすっかり遅れてしまいました。私はラーセン侯爵。エルフルドさまのおそばにお仕えしております」
「エルフルドさまの側近なんですよね?」
七都が訊ねると、彼はこくりと頷いた。
「古くからの側近ではありません。アーデリーズさまがエルフルドさまとなられてから、側近にと抜擢されました。今、魔王さま方は、かつてのような横のつながりをお持ちではありません。シルヴェリスさまも、即位されたばかりとか。ですが、七人全員が揃われたわけですから、横のつながりも当然生じて来ることでしょう。この先、あなたさま方お二人とは、きっと何度もお目にかかることになるかと存じます。ですから、これからもぜひご懇意にさせていただきたいと……」
「それは私も同じですよ、ラーセン侯爵。同じ側近として、ぜひご懇意に……」
キディアスも、見ていて気持ちがいいくらいにきっちりと、頭を下げる。
「ラーセン侯爵。エルフルドさまが別の世界から無理やり連れて来られたって、本当?」
七都は、ラーセンに訊ねた。
ラーセンは、眉を寄せて頷いた。
「アーデリーズさまは、別の世界で、人間として暮らしておられました。人間の女性として、幸せに、充実した生活をしておいでたったとか。ですが、そのときの側近たちが、魔王さまの血を引いておられたアーデリーズさまを探し出し、あの方の意思も確かめぬまま、この地の都にお連れしたのです。わけもわからず、さらってこられたのと同じことです。そしてあの方の額に、力ずくで地の魔王の冠を……」
「ひどい……」
七都は、呟く。
「その報いを受けて、側近たちは、一瞬にして、その身を消滅させました。新しい魔王が誕生したとき、かなりのエネルギーを必要とします。そのことを忘れて事を急いでしまった彼らは、新魔王の糧となってしまったのです。たったおひとり……。アーデリーズさまを魔王にすることを反対した側近、ヴェルセル公爵を除いて」
「じゃあ、エルフルドさまは、もしかして、新しい側近たちからも恐れられてる?」
七都は、訊ねる。
「そうですね。昔からの側近を怒りに任せて消しておしまいになったわけですから。それ以外のもろもろのことも、他の都にまで知れ渡ってしまっているようで……」
「お噂は、かねがね……」
キディアスが、遠慮がちに言った。
「これから、あなたさま方には、エルフルドさまと晩餐をご一緒していただくことになりますが……。あの方の言動には、どうかご辛抱を。何があっても、怒ったりされませんよう……私ども側近も、あの方に意見したり、お止めすることは出来ませぬから」
ラーセンが、深く頭を下げる。
「わかっておりますよ。他の都の一族であっても、魔貴族は魔王さまには逆らえません。あの方に何をされようと、あの方が何をご所望されようと、拒むことは許されません」
キディアスが言った。そして彼は、七都のほうを向く。
「風の姫君。それはあなたも同じことです」
「え?」
「たとえあなたといえども、エルフルドさまには逆らえません。エルフルドさまに逆らえるのは、あなたの一族では、ただおひとり……リュシフィンさまだけです」
「そう……」
七都は、キディアスの冬の海色のブルーの目を見つめ返した。
何があっても彼女に逆らうなって言いたいんだね、キディアス。
そうだよね。だって、アーデリーズは魔王さまなんだもの。
対抗できるのは、他の六人の魔王さまだけってことなんだ。
だけど、魔王さまって、やりたい放題なの?
側近は、魔王さまがどんなにひどいことをしても、たしなめたり、叱ったりしないの?
それって、ちょっと問題なのでは……。
「では、お二人とも、晩餐の間へ……」
ラーセンが先導して、歩き始める。
「どうぞ」
キディアスが、七都に手を差し出した。どうやらエスコートしてくれる気らしい。
七都は一瞬ためらったが、断るとしたら、その理由が『なんとなく、いや』以外にはないことに気づく。
こういう場合、王族の姫君としては、やはりおとなしくエスコートされるべきに違いない。
まあ、いいか。
キディアスと手を繋ぐのは、あまり気が進まないけれど。
七都は、キディアスの手に自分の手を預けようとしたが、別の理由で躊躇した。
キディアスは、黒い手袋をはめていたのだ。
初めて彼に会ったときから、彼が付けていた手袋――。
もちろん旅行用のしっかりとしたつくりの手袋なので、今キディアスがまとっているきらびやかで上品な衣装には、合わない。手袋だけが明らかに浮いている。
「これは、どうかお許しを」
キディアスが、七都の視線に気づいて、決まり悪そうに頭を下げる。
「私は手袋をはずした己の手を、決して他の方々にはお見せ出来ないのです。この手袋の下には、目を覆いたくなるほどの醜いものがありますから」
「それでずっと手袋を? 何か怪我とか病気のあと? 痣とか?」
七都が訊ねると、彼は眉をひそめた。
「ナナトさま。そういう質問は、いかがなものかと」
「そうだね。無神経だった。ごめんなさい……。でも、私の胸の傷も相当醜いよ。だからお互い様じゃない? ね?」
キディアスは、首を振る。
「あなたの怪我は、一時的なものです。あなたが治そうとさえされれば、おそらくきれいになくなるでしょう。しかし、これは消えることはありません。私が一生付き合って行かねばならぬものなのです」
「そうなの……」
キディアスもまたキディアスで、何か抱えているものがあるのかもしれない。
七都は、キディアスの極地の海色の青黒い目を覗き込む。ほんの少しだけ、氷が透けて見えたような気がした。
「さ、参りましょうか」
キディアスは微笑んで七都の手を取った。そして七都を気遣いながら、ゆっくりと歩き出す。
七都の空いた手の甲に、何か金属っぽい固いものが、とん、と当たった。
見下ろすと、ストーフィが七都を、無表情だがつぶらなオパール色の瞳で見上げている。
七都の手に当たったのは、その猫ロボットの高く掲げた前足だった。
「ああ、きみも行く? そうだよね。きみ、わたしの指輪と薬を飲み込んじゃったんだもん。きみが薬を出してくれたら、わたしはそれを飲まなくちゃならない。一緒においで」
七都は、ストーフィの前足を握りしめた。何だかドアノブを握っているような感じだった。
ストーフィは手を上げたポーズのまま、軽やかに七都に持ち上げられる。
七都は、テディベアを持ち歩く幼い少女のように、銀の猫ロボットを無造作に手にぶら下げ、晩餐の間に向かった。