第2章 地の底の貴婦人 5
扉がたたかれ、ラーセンの声がした。
「アーデリーズさま。よろしいですか?」
「なあに? 大した用事じゃないのなら、後にして」
アーデリーズが扉の向こうに、いらついたように叫ぶ。
「この屋敷に立ち入った、あやしい者がおります。連れて参りましたが……」
「この屋敷に? それは、怖いもの知らずな勇者ね。身の程知らずでもあるけど」
アーデリーズは微笑んだ。
「ぜひその勇者の顔を見てみたいわ。お入りなさい」
扉が開いて、ラーセンを先頭に、数人の魔神族の兵士たちが入って来た。
彼らの真ん中に誰かが捕らわれている。兵士たちは、乱暴にその人物をひざまずかせた。
「地の魔神族じゃないわね。どこから来たの?」
アーデリーズが訊ねる。
七都は、その人物に見覚えがあった。
鮮やかなラピスラズリのブルーのマント。青味がかった灰色の髪。頭をうなだれ気味に下げているその人物。
それは――。
「キディアス!?」
七都が叫ぶと、キディアスは顔を上げた。
極地の海のような暗い藍色の目が、七都を見つける。
その目にはもう、以前の刺すような鋭い光はなかった。ただ、決まり悪そうで恥ずかしげな視線を七都に返すだけだ。
「あら、知り合い?」
アーデリーズが、意外そうに訊ねる。
「この人、水の魔神族で、シルヴェリスさまの側近です。ずっとわたしにくっついて来てるんです」
本当は、『くっついて来てる』などというかわいらしい行為では決してなく、怖くて気持ちの悪いストーカーであり、さらに彼は七都を殺そうとしたのだ。
けれども、そういうことはアーデリーズには言わないほうがいい。七都は判断する。
アーデリーズは自分に好意を持ってくれているようだから、そういうことを口にしたら、キディアスの立場が不利になるかもしれない。
キディアスは、ナイジェルの大切な側近。
あまり微妙な立場に追い込んではならない。たとえ、いけ好かなくても。
「シルヴェリスさまの? へえ」
アーデリーズが、まじまじとキディアスを眺めた。
「放してあげてください。決してあやしい人じゃないから」
七都が言うと、アーデリーズは頷いた。兵士たちがキディアスの身を自由にする。
七都は彼に近づいて、その整った横顔を覗き込んだ。
「ナイジェルのところに帰らなかったの? なんでわたしにしつこくついてくるんだよ?」
七都が訊ねると、キディアスは声をひそめる。
「あのまま帰れるわけがないでしょう? あなたにあんな無礼なことをしておいて?」
「わたしが王族だってわかったら、途端に態度変わるんだ」
「そりゃあ、変わるでしょう、普通は」
キディアスは、顔を歪める。
「あなたにお詫びをしなければなりません」
「いいよ。知らなかったんだし。だからと言って、あなたと笑顔で話をするには、まだ当分かかりそうだけど」
「お許しを……」
キディアスは、さらに苦渋に満ちたような、ばつの悪い顔つきをし、七都に向かって頭を深く下げた。
「何があったのか知らないけど。ナナト、その人をいじめるのは、それくらいにしておいてあげたら?」
アーデリーズが、からかうように言った。
「いじめてません。ちょっとおちょくってるかもしれないけど」
アーデリーズが、はははと明るく笑う。それから彼女はキディアスに言った。
「あなたも砂だらけね。疲れているようだし。着替えて、くつろいでもらおうかしら」
キディアスは、今度はアーデリーズに頭を下げる。七都に対してよりも、深々と。
「デフィーエ伯爵キディアスと申します。あなたさまのお住まいとは知らず、入り込んでしまったことをお許しください」
え? キディアス、アーデリーズのことを知ってるんだ。
アーデリーズって、もしかして魔貴族の中では有名人?
七都は、キディアスとアーデリーズを見比べる。
アーデリーズは、どこかうんざりしたような冷たい金の目で、キディアスを見下ろした。
「この子を追いかけてきたの? 水の魔王の側近が? 水の魔王にとってこの子は、そんなに大切な存在なの?」
彼女が訊ねる。
「この方は、いずれ、シルヴェリスさまの正妃になられるお方です」
キディアスが言った。少し声を張って。
ラーセンが、見ているのが気の毒になるくらいに呆然として、固まる。兵士たちも息を呑んで、ざわついた。
「ちょっと待って。キディアス、ナイジェルの意思もわたしの意思も無視して、勝手に決めないでったら。それに、いつのまにか愛人から正妃に格上げになったんだ?」
「当たり前でしょう。あなたは風の王族の姫君なのですから、正妃としてお迎えしなければなりません。愛人などと、とんでもない」と、キディアス。
この変わり身の素早さ。なんか、むかつく。
七都は、キディアスを睨んだ。
アーデリーズは、にっこりと笑う。
「そうなの。じゃあ、私もナナトを大切な存在にしちゃおうかな。正妃はいくらなんでもちょっと無理だから、親友ってことで。それなりの地位も用意するわ。で、ずっとこの地の都にいてもらうの。水の都なんかに行く必要はないわ」
「おたわむれはおやめください。シルヴェリスさまに挑戦されるおつもりですか?」
キディアスが言った。
「それもまた、おもしろそうだけど?」と、アーデリーズ。
キディアスは、両手を胸で重ね、再び丁寧に頭を下げる。そして、アーデリーズに言った。
「どうか、ご勘弁を。七人の魔王のおひとりであられる、地の王、エルフルドさま」
キディアス?
今、なんて……? なんて言ったの?
七都は、思わずキディアスの顔を見た。
冗談のかけらもない、真剣そのものの、キディアスの表情――。
耳が変じゃなかったのなら。キディアスが、今言ったことが本当のことなら。
アーデリーズがエルフルド?
アーデリーズが、地の魔王エルフルド?
そんな……。
そのアーデリーズは、仮面のような無表情な顔をしていた。
「あら、何のことかしら」
アーデリーズが、重苦しい沈黙を破るように言う。
だが、その強がっているような言葉は、そこに控えている魔神族たちの間に、空虚に響くだけだった。
「どんなにおたわむれをおっしゃられようとも、私の目はごまかされません。私は、水の魔王さまのおそば近くに仕える身。魔王さまの冠のことは熟知しております。ですから、その首飾りが王冠を変形させたものであることもわかります」
キディアスが言った。
七都は、アーデリーズの金の首飾りを眺めた。
それはきらきらと艶めいて輝き、アーデリーズの胸を覆っている。
そのきらめきを七都は見たことがあった。ナイジェルが耳に付けていた金のリング。あれと同じきらめき――。
アーデリーズは、溜め息をついた。それから、ふっと笑って、観念したように呟く。
「あーあ。ばらされちゃった。もう少し遊びたかったのに」
「アーデリーズさま。いえ、我が王エルフルドさま。おたわむれが過ぎますぞ……」
ラーセンが、遠慮がちに言った。
「ああ、もう。仕方ないわね」
アーデリーズは、首飾りに手を当てた。
金の首飾りは、生きている液体動物のように、ずるりと動く。そしてたちまち形を変え、輪を作った。
首飾りは、見事な細工の冠に変化する。
それはやはり、七都がナイジェルにはめた冠とよく似た雰囲気のものだった。デザインは違っているが、材質は全く同じものだ。
アーデリーズは冠を額にはめ、頭を上げて七都を見た。
冠を戴いた彼女は、神々しいというより、総毛立つようなおののきを思わず抱いてしまうくらいに妖しく、美しかった。
「あなたがエルフルドさま? あなたが? 本当に?」
七都が訊ねると、アーデリーズは微笑んだ。
「悲しいけどね、本当のことなの」
そして彼女は優雅に手を広げ、七都に向かって言った。
「はじめまして、ナナト。私は地の魔王エルフルド」