第2章 地の底の貴婦人 4
「ラーディアに聞いたわ。あなた、とてもひどい怪我をしてるんですって? 薬はその傷の血を止めるためのものなのね」
「グリアモスの爪で、えぐられました」
七都が呟くと、アーデリーズは眉を寄せた。
「なぜ怪我を治しもしないで旅を続けているのか、理解に苦しむわね」
アーデリーズが、咎めるような目つきで、七都を見つめる。
「わたしの目的地は風の都なんです。だから、そこに到着してから治してもらおうと思ってます」
「リュシフィンさまに? だけど、それまでに怪我が悪化して、死んでしまったらおしまいじゃない?」
アーデリーズが言った。
「死なないって信じてます」
アーデリーズは、ふっと笑う。そして、七都の頬に手を伸ばした。
彼女の冷えた手のひらに、七都は一瞬、ぞくっと身を震わせる。
「なんて根拠のない、甘くて楽観的な考え。そんなにエディシルを体に入れるのがいやなの?」
「だって……。魔神族のエディシルは、人間を犠牲にして取り込んだものでしょう?」
「それは仕方ないわね。人間は魔神族にとって食料なんだもの。魔神族がこの地に降り立ったのは、人間がここに存在していて、食料に事欠かないって理由よ」
何度も聞いたその言葉。人間は魔神族にとっては食料……。
それが七都には許せないのだ。
「わたしは、わたしが生まれ育った人間の世界で、人間として暮らしています。風の都に着いたら、元の世界に帰ります。その前提で旅をしてるんです」
「だから? この世界でエディシルを食べてしまったら、元の世界に帰れなくなっちゃう?」
アーデリーズがおもしろがるように、そして、どこかからかうように言った。
「そうなってしまうかもっていう恐れと不安は、持っています」
子供の頃、読んだ物語を思い出してしまう。
黄泉の国に連れ去られた恋人を助けようとした勇者。彼が恋人の元にたどりついたとき、すべては遅かった。
恋人は黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、地上には帰れない体になっていたのだ。そういう物語を――。
おそらく一度エディシルを食べたら、それがなくては耐えられない体になる。
そして空腹になれば自分を見失い、人間を襲ってしまうかもしれない。自分はそれを怖れている。
アーデリーズは、七都の顔をぐいと引き寄せた。赤味がかった金色の目が七都を覗き込む。
「いいわね。あなたには逃げ道があって」
「逃げ道……?」
「普通は、生きていかなきゃならない世界は、一つだけよ。その一つだけの世界で、どういうふうに生きていけるのか、どうやって生きていったらいいのか、すべての者たちが悩んでいる。悩みながら、歯を食いしばって、生きている。魔神族も人間もね。だけど、あなたには世界が二つもあるのね」
「望んで二つあるわけじゃありません」
七都は、アーデリーズの金の目を見つめ返す。
二つあるから、だから、その二つの世界に引き裂かれそうになっている。
人間でもあり魔神族でもあるという不安定な体を抱えながら。
逃げ道があるなんて言ってほしくない。わたしだって、悩みながら生きてる。
「じゃあ、どちらかを選べば? どっちにしろ、そのうちどちらかを選ばなきゃならなくなるでしょうけどね」
アーデリーズは、七都の顔を愛でるようにじっと見つめ、それから、七都の頬から手を離した。
「元の世界を選ぶのなら、今あなたがやっている危なっかしいことは、正解かもしれないわ。確かにエディシルの味を覚えてしまったら、元の世界に帰りにくいってことは言えるかもしれないしね」
「なら、よけいにエディシルの味は覚えたくないです。覚えないまま、元の世界に帰りたい」
「つまりあなたは、元の世界を選ぶの?」
アーデリーズが訊ねる。
「それはまだわかりません。でも、今のわたしの生活基盤は元の世界にあるし、そこでやらなきゃならないこともたくさんあるんです」
「私は、あなたにはこちら側を選んでほしいな」
アーデリーズは、にっと笑った。そして、窓のそばに歩いて行く。
窓の真ん前で、彼女は七都を振り返った。
「ナナト。外の景色を見る? 地の都の景色よ」
「ええ。ぜひ」
アーデリーズは、窓を開けた。
そこには、七都が思い描いた『窓の外の景色』のイメージとはかけ離れたものが広がっていた。
明るく、広い空。白い雲。金の太陽。あるいは、大空の下に広がる美しい都市の内側からの眺め。そういうものは、窓の向こう側には存在しなかった。
そこにあったのは、闇――。魔神族の七都の目にさえ暗黒に映る、深い闇だった。
そして、その闇の大海の表面に浮かんで輝く、自然のものではない造られた光の大洪水。
七都は、引き寄せられるように窓に近づき、アーデリーズの隣に立った。
アーデリーズは、窓の外の景色に呆然としている七都を興味深げに眺める。
闇は、天も地も、境界なく覆い尽くしていた。
夜の景色は、普通は空と地上の区別はつく。だが、そこにはその区別がなかった。
地上の闇は空にも伸びていて、光の海もまた闇と共に空に上り、満天の星のように輝いている。
「ここ……空がない?」
七都は、思わず呟いた。
「そう。地上が、ぐるっと空を一回転して戻ってるの。閉じられた巨大な空間だわ」
アーデリーズが呟いた。そして彼女は、天を指差す。
「ここは砂漠の下にあるの。つまり地底都市ね」
「地底都市……。それで地の都って呼ばれてるんですか」
「たぶんね」
七都は、閉じられたその巨大空間を眺めた。
空間を取り囲むように、闇の中に浮かぶ光。そのひとつひとつが、地の魔神族が住む建物。
大きさも形もまちまちだが、同じ光の群れとなって、闇の中に抱かれている。
それらは、黒い天井に一つ一つ丁寧にくっつけられた光の飾りのようだった。
そんなふうに空にも建物があるということは、もちろん重力のコントロールも、きちんとされているということなのだろう。
「なんだか、酔いそうです」
七都は、うつむいた。
闇の中とはいえ、地面にあるはずの景色が頭上にあるというのは、気持ちのよいものではない。
傾いた飛行機の窓から、不自然な角度で地上の景色を見ているようだ。
「すぐに慣れるわよ。そうじゃない人もいるけど」
アーデリーズが、呟いた。
そのうち七都は、光の海の真ん中に、一際大きな建物が聳え立っていることに気がついた。
巨大な木の幹を根元近くで折ったような形の建物だ。
明るい光の群れの中で、それだけが暗黒のシルエットを形作っていた。
その不気味な影は、奇妙な静寂と言い知れぬ不安を感じさせる見えない何かを、オーラのように周囲に振りまいている。
「あれは……」
「ああ、あれは、お城よ」
アーデリーズが答えた。
「地の魔王エルフルドさまのお城ですか?」
「そういうことになるわね」
アーデリーズが、何の感情も交えずに言った。
「じゃあ、エルフルドさまは、あのお城にいらっしゃるんですね」
「いないわよ」
アーデリーズが、素っ気なく言う。
「え? いない……?」
「あの城には、窓がないの。悪趣味でしょ。暗くて息が詰まるって、全然寄り付かないわ」
「それは……お気持ちはわかります」
窓がないなんて。考えただけで、ぞっとする。出来れば住みたくはない。
もしかしてエルフルドって、閉所恐怖症だったりして。
七都は、ふと思ったりする。
でも、地の魔王が暗くて狭いところが嫌いだなんて、きっとしゃれにもならない。
「あなたと入れ替わっていたらよかったのにね。あなたがあの人の体で、あの人があなたの体だったら……」
アーデリーズが、思いつめたように呟いた。
「あなたも太陽には溶けないようだけど、人間の食べ物は食べられない。あの人は、何の抵抗もなく食べてしまえる。あなたがさっき言ったとおり、人間の食料を食べていれば、特にエディシルを摂る必要もなく、この世界で生きてはいけるわ。あなたがそういう体だったら、もっと気楽にこの世界にいられるんでしょう。同じように人間の血を引いていても、その現れ方は、随分違うみたいね」
「そのようですね。シルヴェリスさまも、お母さまは人間だそうですが、太陽の下には出られません」
「シルヴェリスさまも? そうなの。水の魔王さまも人間との混血なんだ。でも残念なことね。太陽が苦手だなんて。魔神族の血が濃すぎたのね」
「エルフルドさまは悩んでいらっしゃるのですか? 人間に近いことを」
「魔王としては不向きだわ。ここに住むには、人間の血なんて必要のないもの。でも、周囲の者たちは望んだの。人間の血を引く魔王を。それで無理やり連れて来られた。別の世界からね。だから、この世界になじめない体をひきずりながら、昼間の砂漠をさまよって憂さ晴らしするしかないってわけ」
「別の世界から連れて来られたのは……太陽に溶けない強い魔王が必要だからですか?」
七都はイデュアルが言っていたことを思い出して、アーデリーズに訊ねた。
強い魔神族を作るため、魔王や魔貴族が人間と交わっている……。
イデュアルはそう言った。
「そう。何代か前の地の魔王は、太陽に簡単に溶けてしまったから。風の都でね。それで懲りたんじゃない?」
「風の都!?」
七都は、手をぎゅっと握りしめる。
「そうよ。あなたがこれから行こうとしているところだわ」
「それは……。風の都が壊滅したことと関係があるんですか?」
「大ありじゃない? よく知らないけど。地の魔王は、巻き込まれたって話。ああ、そんな顔しないで。別にあなたが責任を感じることじゃない。随分昔のことだしね。だけど、あなたが風の都に行くのなら、調べて教えてほしいな。帰りにまた、ここに寄ってくれない?」
「それは……約束できません」
「冗談よ。ほんとナナトって、軽い冗談をすぐ本気にしちゃうんだから。おもしろい子ね」
アーデリーズが、くすっと笑った。
「ナナト。あの城に興味があるんだったら、連れて行ってあげてもいいわよ。今から行ってみる?」
アーデリーズが訊ねる。
「今回は遠慮しときます。またいつか機会があれば……」
城なんかに連れて行かれたら、さらに風の都に行くのが遅れてしまう。
夏休みはそんなに残っていないのだ。
とにかく、夏休みが終わるまでに帰らなければ。
宿題だって全然やっていないのだから。
「そう……。あなたと一緒だったら、私も楽しくあの城に行けそうなのに」
アーデリーズが、残念そうに言う。
「ごめんなさい……」
「じゃあ、今回はあきらめるわね。でも、いつかあなたをあの城に連れて行きたいわ」
「そうですね。いつか連れて行ってください」
「嬉しいわ、ナナト。それは即ち、またあなたに会えるってことだものね」
アーデリーズは、本当に嬉しそうな顔をして微笑んだ。
彼女はどうやら、エルフルドの城にも行き来が自由なようだ。
何者なんだろう。聞いてみようか。
ラーディアは、自分で聞いたらいいって言っていた。
<あなたは、エルフルドさまの恋人ですか?>って……?
同じことをイデュアルに聞いて笑われて、それでもって、おもいっきりはたかれたっけ。
また笑われて、はたかれるかな。
七都は躊躇したが、一応聞いてみることにする。
笑われてもいいや。とにかく知りたい。どういう人なのか。
「あの。アーデリーズ。あなたはエルフルドさまの恋人……なんですか?」
七都がその質問を口にすると、アーデリーズは七都をじっと見た。
びっくりしている。金の目が大きく見開かれている。
だが、次の瞬間、そのアーデリーズの美しい顔が崩れた。
彼女は、噴き出したのだ。
「あははは」と、彼女は体を捻じ曲げて笑い始める。
やっぱり笑われた。覚悟してたけど。
そんなにおもしろいこと言ったかな。
七都は、心持ち憮然とする。
「恋人ですって? 私が? かわいいわね、ナナト。食べちゃいたいくらい」
アーデリーズが、笑いを無理やり抑えながら言った。
「た、食べないで下さいっ」
七都は、思わず叫ぶ。
魔神族に『食べたい』などと言われたら、言葉だけでは済まされないような気がして、何となく怖い。
「だから、冗談だってば」
アーデリーズが七都の反応を見て、再びぷっと噴き出した。
すると、恋人でもないんだ……。
当然、愛人でもないし、側室でも正妃でもないってことか。
イデュアルは、エルフルドには好きな人がいるって言った。その恋の行方も気にかかってたって。
じゃあ、エルフルドさま、アーデリーズに片思いしてて、だけどアーデリーズはエルフルドさまを嫌ってて、逃げ回ってるとか……かな。
そこで七都は、彼女に再び聞いてみる。
「じゃあ、あなたは、エルフルドさまとどういうご関係なんですか?」
「ふ。さあ。どういうご関係なんでしょうね」
アーデリーズは投げやりにそう言ってから、少しだけ真面目な顔をした。
その時、扉の外で、大勢の人々の気配がした。こちらに向かって歩いてくる、たくさんのばらばらの足音――。
アーデリーズが美しい眉を寄せる。
「せっかく楽しく過ごしているのにね。騒がしいわ。何なのかしら」
アーデリーズが、不愉快そうに言った。