第1章 砂の中の猫 1
「えっ。い、いきなり砂漠……?」
七都は、呆然とあたりを見渡した。
霧を抜けると、そこに広がっていたのは、真っ白な砂の海だった。
どこまでも広がる瑠璃色の空の下には、白い砂漠が、こちらも果てなく続いている。
まるで海が、そのまま突然、魔法で砂漠に変えられてしまったかのように。
ゆったりと地平の向こうまで繰り返して盛り上がる、大小の砂の波のライン。
視界には、砂と空以外のものは全く存在しなかった。
「地の都って、砂漠なの?」
振り返ると、七都が抜けてきた闇色の門が空中に浮かんでいた。視界を遮っていた霧は、嘘のように完全に消え失せている。
門の両側にずっと続いていたはずの高い塀は、門から切り離されて、きれいに削除されてしまったかのように見当たらなかった。
そして門の背後にあるのも、やはり瑠璃色の空と白い砂漠――。
門のあるあたりには、ここを覆っているドームの壁があり、その向こうには、人間の住む外界があるはずなのに。
塀も壁も、魔神族の魔力や科学力で、やはりきちんと目隠しされているのかもしれない。
霧は、門が開いたときに安易に中が見えないようにするため、出現するのかもしれなかった。
七都は猫の目ナビを覗き込んだ。そして訊ねてみる。
「地の都の市街地の映像って出せる?」
ナビの金色の目の上に、入り組んで盛り上がった街の映像が現れる。
映像は暗くぼやけていたが、それが美しい都市であることは、何となくわかった。
「あれ。やっぱり、ちゃんとあるんだ。ってことは、もう少し歩けば見えてくるのかな」
だが、もし市街地が現れたとしても、中に入らずに回避したほうがよさそうだ。
目標は風の都。地の都ではない。
市街地に入ってしまったら、何かとんでもないことに巻き込まれないとも限らない。
もし現れても、迂回して、ひたすら風の都をめざしたほうがいいに決まっている。たとえずっと砂漠を歩くことになっても。
「ここってどこにあるの? この先?」
七都はナビに訊ねたが、ナビは無反応のまま答えなかった。
まるで抗議するような金色の目が、七都を見上げている。
「訊ね方が悪かったのか。でも、いいや。どうせ行かないもの」
七都は、空を眺めた。
太陽の気配がする。
もうすぐ砂の地平の向こうから、輝く太陽が顔を出すだろう。
魔の領域を覆う透明なドームは、実はドームではなくて、シールドか何かなのかもしれない。
それがガラスっぽいドームをかぶせた巨大な建造物のように見えているのかも。七都は思う。
ここでは、魔神族の体に悪影響を与える光の成分は、あのドームだかシールドだかで遮られている。
太陽の光を浴びても、魔神族は溶けたりはしない。ごく普通に、人間のように、昼間でも外に出られるのだ。
七都は光に溶けないとはいえ、こちらの世界の太陽は、やはり苦手だった。
魔の領域の加工された太陽は、七都にとっても、きっと心地よく、過ごしやすいものに違いない。
「でも、本当に誰もいない……」
七都は、呟いた。
地の魔神族は、太陽の光を最も苦手とする一族。たとえ太陽が有害でないことがわかっていても、昼間は外には出ない。
ゼフィーアは、そう言っていた。
とすると、これからずっと夜になるまで、この砂漠では誰とも出会わないかもしれない。
アヌヴィムとか他の魔神族は通るのだろうか。
キディアスも、七都のあとを追いかけて、門を抜けては来なかったようだ。
(彼、へこんでるかも……)
七都は、キディアスのことが、ちょっと心配になったりする。
彼は、七都が王族であることを知ってしまったわけだから、それまで七都に対して行ってきた自分の態度を反省せざるを得ないだろう。
自分の主君の親戚であり、正妃になれる資格を持っている姫君に、愛人になれなどと言ってしまったのだ。
プライドの高そうな魔貴族のキディアスは、七都が想像するよりも、はるかに落ち込んでいるかもしれなかった。
キディアス、ナイジェルのところに帰ったかな。
わたしなんかにストーカーやってる暇があったら、彼のそばにいてあげてほしいよね。
七都は、色が変わりつつある空の下をゆっくりと歩く。
砂漠の中だというのに快適だった。寒くも暑くもない。吹き渡る風も心地よい。
砂漠というのは、昼夜で気温の差が激しく、過酷な場所というイメージがあったが、ここではそういうこともないらしい。
おそらくここは、気温もコントロールされている。
魔神族が気持ちよく過ごせるように、細かいところまで設定されているのかもしれない。
いくつか砂の山を越えると、遠くに半透明の細長い物体が現れた。
水晶で出来た箸のようなものが一本、砂に斜めに突き刺さっている。そんな感じだった。
もちろんそれは、遠くから見るから箸に見えるのであって、実際は巨大な柱のようなものに違いない。
近づくと水晶の箸は、やはり大きくなった。
半透明の石で出来た塔のような柱。
砂の中に埋まった、オブジェか何かのようにも見える物体だ。
表面は磨かれたようにすべすべで、規則正しい模様で覆われている。
きらっ。
何か銀色のものが、柱の上で一瞬きらめいた。
七都が見上げたときには、もうそれは消え失せていた。
表面をすぱっと切ったような石柱のてっぺんには、何もいない。
今、あの上に誰かがいた。
輝いたのは髪だ。風になびく、長い銀色の髪……。
それが朝の太陽の最初の光を反射したのだ。
七都は確信する。
わたしを見ていた。確かに視線を感じた。
あれが普通の人間であるはずがない。
ここは魔の領域。
するともちろん、魔神ということになる。
(もしかして、エルフルド?)
七都はしばし、朝日を受け止めてやわらかく光を放つ石の柱のてっぺんを見つめたが、その人物が現れることは、もうなかった。
七都は石の柱に近づき、その表面に手を置いてみる。
半透明の石は、ひんやりと冷たかった。
そこに刻まれている模様を七都は指でたどる。
これ……。たぶん、文字だ。
七都は、その記号の連なりを見つめた。
それでこの、他よりも規則正しく並んでる部分は名前……。
きっとそうだ。
そこに刻まれている文字は、全く読めなかった。
この世界では、人々が話している言葉は理解できるのだが、文字は別なのかもしれない。
こじんまりと、のたくっている記号にしか見えない。
じゃあ、これは、柱とかオブジェなんかではなく、きちんとした意味を持った石碑。
お墓……?
それか慰霊碑か何かかもしれない……。
七都は巨大な石碑の全体を眺め、それから周囲を見渡す。何かヒントになるものが、そのへんに落ちているかもしれないと期待して。
けれども、もちろん視界には、白い砂と明るい色に変わりつつある空しか見えなかった。
ずっと昔ここで何かがあって、多くの魔神族が亡くなって、これはそれを弔うために建てられた石碑……。
戦争とか、事故とか?
そうなのかもしれない。
たくさんの、たくさんの、魔神族の名前。
かつては確かに生きて存在した人々。
男性であったかもしれない。女性かも。子供だったかもしれないし、老人だったかもしれない。
その人たちが存在したという証しが、今は石の表面に刻まれた記号だけになって、砂漠の真ん中にひっそりと残っている……。
七都は、もう一度その名前たちをそっと撫で、そこを通り過ぎる。
やがて太陽が、砂漠を歩く七都を照らし始めた。
七都は昇って行く太陽に向かって、手を広げてみる。
なんて心地のいい光なのだろう。
この領域の外での真夜中の月のように。そして、元の世界の春の日の午後の太陽のように。それは七都をあたたかく包み込む。
突き刺すような暑さや不快感も、全く感じない。
七都は、砂の上に寝転んだ。
いい気持ちだ。
誰もいない砂漠に寝転ぶ贅沢。その日初めて姿を現す太陽の、朝の新しい光を浴びながら。
ここではフードで顔を隠す必要もない。このまま思う存分、昼寝だって出来る。
空は、ラベンダー色に変化していた。
七都の家の玄関で、涼やかな香りを放つハーブの花と同じ色だ。
七都は、その天の色の中に、両手を伸ばした。
この色、果林さんの好きな色だ。
七都は、ふと懐かしく思い出す。
果林さんが持っている服は、セーターもコートもカットソーも、ラベンダー色のものが多い。
華奢な雰囲気の果林さんには、よく似合う色だった。
<えー、またその色の服、買ってきたの?>
七都があきれて言うと、果林さんは恥ずかしそうに微笑んだ。
<だって、この色好きなんだもの>
……あの日常に、また戻れるかな。遠い夢の中のように思える日常。
でも、わたしの戻る場所はあそこなのだ。
七都は、目を閉じた。
砂がさらさらと耳元を流れて行く。
このまましばらく眠ろうか。
門を抜けてずっと歩いてきたし、その前のキディアスのことにしても、グリアモスの女の人のことにしても、随分疲れてる……。肉体的にも精神的にも。
深い傷を抱えたこの体は、どんな些細なことにでも、たちまち疲れ果ててしまう。
少しだけ眠ろう。ほんのちょっとだけ……。
そう思った途端、全身から力が抜け、けだるい眠気が体を包み込んで行く。
浅い眠りの中で、七都は誰かの声を聞いた。
(ナナト。ナナト……。やっと来たね……)
(誰……?)
(あなたが来るのをずっと待っていたの……)
(誰……。あなたは……?)
(会いたかった。とても会いたかった……)
誰かが自分の横に座っている。そんな気配がした。
その誰かは、七都の髪を撫でる。髪から額へ。そして、頬へ。やさしく、いとおしげに。
ナイジェルでもセレウスでも、シャルディンでもカーラジルトでもない、華奢でやわらかい、たぶん女の人の手――。
冷たいけれど、ほのかなあたたかさを中に満たしている、魔神族の手だった。
これは、夢……?
だけど、ずっと昔、この手で撫でられたことがある。
この手を知ってる。
遠い時間の向こうにうずもれてしまっている、懐かしい手の記憶……。
七都は、その手の上に、自分の手を重ねようとした。
けれども、七都の指が触れたのは、七都自身の頬だった。
その手は確かに七都を撫でてくれているのに、七都はその手に触れられない。突き抜けてしまっている。
手があるはずの場所には、まだ少し冷えた朝の空気しかなかった。
やっぱり、夢かもしれない。
このあたたかさも、やさしい手の感触も、全部わたしが頭の中で作っている幻なのかも……。
七都は、目を開けて声の主を確かめようとしたが、思い直す。
おそらく目を覚ましたら、たちまち消えてしまう。この手の感覚も、そして手の主の気配も。
起き上がった時には、ラベンダーの空と白い砂漠しか、自分の周囲には存在しない。
これは夢なのだもの。
夢と現実の浅い眠りの狭間にたゆたいながら、気だるげに見ている単なる夢……。
だったら、このまま何もしないで撫でられていたい……。
それでも七都は、話しかけてみることにした。
もしかしたら、夢じゃないかもしれない。その期待も、確かにある。
ここは魔の領域。何が起こっても不思議ではないのだ。
ならば、夢でない可能性もまだ残っている。
「もしかして、お母さん? お母さんなの……?」
声は答えなかった。七都を撫でる手の動きも、止まってしまう。
「お母さんなのでしょう? 黙ってても、わたしにはわかるよ……」
手は、再び七都の髪をやさしく撫で始めた。
七都の質問を肯定するかのように。
「ねえ。お母さん。ちゃんと生きてるよね。幽霊なんかじゃないよね?」
その手の主は、ちょっと笑ったようだった。
よかった。生きてるみたい……。
七都は、安堵する。
「お母さん。どこにいるの? わたしも会いたいよ……」
(私は、いつも、あなたを見守っているわ……)
声がささやいた。
ああ、やっぱり、お母さんなんだ……。
きれいな声。
大人の女の人の声じゃなくて、まだ少女のようなか細さの残る、でもやさしい声。
別れたとき、わたしは小さくてまともに喋れなかっただろうから、お母さんとお話するのって、きっと初めてだよね……。
「お母さん。見守ってくれてるだけじゃ、いやだ。会いたいの。こういう夢とか幻じゃなくて、実物のお母さんに会いたいの」
七都が呟くと、困った子ねと言いたげに、手は七都の額を覆う。
(……私に会うためには、あなたには、ある覚悟がいるわ……)
声が言った。
「覚悟? それ、わたしにとって、あまりよくないことなの?」
声は答えない。
手の主は、黙ったまま七都の髪を撫でる。
悲しく、せつなくなるくらいの懐かしい感覚。
遠い遠い幼い頃の記憶が、よみがえりそうになる。
しばらくこうしていよう。
とても安心出来る。
大切に、とても大切に思われている。宝物のように。
そんな感情が、手を通して伝わってくる。
そして、この手に守られている。そんな気がする。
夢かもしれない。でも、夢でもいい。
「お母さん。もし会えたら、いっぱいお話がしたい。でも、その前に、ちょっと文句言ってもいい? ううん、その前に、お母さんに抱きしめてもらおうかな。だけどやっぱりそういうことの前に、会った途端、泣いちゃうかもしれない……」
その手は、やさしく七都の頭を撫で続ける。
「お母さんがそばにいてくれるなら、このままここで、少しだけ眠ってもいいよね……?」
七都は、その心地よい感覚にもたれかかるようにして、深い眠りに落ちていった。