002 上白沢慧音
「――伝説は、こうはじまる。
すべての起こりは「石」だったのだ、と。」
「早く帰りなさい」
ぺちん、と間の抜けた音。
「痛ッ…不可視領域からの攻撃だと!?クッ…操作系能力者か…『超越者』め、そこまでして真実を隠蔽しようと言うのか…」
「お前は何を言っているんだ」
思わず呆れた声が出てしまう。
少年は意味のわからないことをブツブツとつぶやいている。
「おにいちゃん、早く帰ろうよ!もう…先生、ごめんなさい、おにいちゃんはすぐ自分の世界に入っちゃうから…」
少年とその妹は寺子屋に通っている生徒であった。
今日の授業はもう終わり、他の生徒達は既に帰路についているか、仲間同士で外で遊んでいる。
閉ざされた世界である「幻想郷」。
「外の世界」で忘れ去られたモノが辿り着く、最後の楽園。
幻想と現実、人や妖怪がなんとなく共存する、あいまいな領域。
それが幻想郷だ。
その中にも、一応、人里がある。
そして人里から少し離れた場所に寺子屋はあった。
寺子屋の教師を務めるのは、半人半獣の「ワーハクタク」である、上白沢慧音。
彼女は若い人間や妖怪に半分ボランティアで授業をしており、里の者からは有難がられている。
常識人であり、面倒見もよく真面目であるので、人柄は信頼され、老若男女、種族性別問わずに慕われている。
…反面、本人の堅苦しい性格からか、授業はつまらないと生徒達からは不評である。
「かえろーぜかえろーぜ!」
外で遊んでいた生徒が戻ってきた。家に帰る前に荷物を取りに来たようだ。
「寺子屋は不便だよなー」
「携帯電話も電波全然入らないしなー」
「今時電気も通ってないなんて遅れてるわよねー」
「帰ってモンハンしようぜ!」
「じゃーね先生、ばいばーい!」
散々な言われようである。
最近、急激に人里が発展してきたようだ。
新しい村ができ、住人も急激に増えた。
どうもやたら多くの異世界人が幻想入りしたらしく、気がついたら寺子屋のすぐそこに家が建っていて吃驚したものだ。
「ほら、君達もそろそろ帰りなさい」
兄妹はまだグズグズしているようだった。
「ほら、おにいちゃんってば!」
「奴等め、神にでもなったつもりか…」
「もー!!」
「ああ、愛が幻想郷を滅ぼす…」
…
割といつも通りではある。
今の幻想郷は、人間と妖怪の均衡が「なんとなく」守られている。
一昔前などは殺伐とした人間や妖怪が多く、厳重な決まりごとや掟で争いを防いでいたらしいが、
世代を経るにつれ住人の意識も徐々に穏やかになり、比較的平和な日々が続いている。
最近では古いしきたりなどは形骸化しつつあるようだ。
たまに妖怪が「異変」を起こしたりするが、その度に幻想郷の番人、「博麗の巫女」こと博麗霊夢が、人知れず異変解決に動いているようだ。
その巫女も、幻想郷の管理者である大妖、八雲紫、と裏で繋がっている…との噂がある。
まあ何にせよ、人と妖怪が大きな諍いもなく平和に暮らしていける、そんな平和が保たれるのはいいことである。
幻想郷には、常に何かが少しずつ流れ込んでくる。それは大半、「外の世界」で忘れ去られたり、不要となったもの。
それはやがて幻想郷の曖昧さに囚われ、幻想郷の一部となる。
だが、今、急激な変化が起きている。住人の急激な増加。風習や生活習慣の激変。
今の寺子屋の生徒達も、数多くが「新しい住人」である。
幻想郷はこの「急激な変化」に、気付いているのだろうか?そして耐えられるのだろうか?
――『幻想郷は全てを受け入れる』――そう誰かが言っていた。
しかし、変化を受け入れるには、大抵の場合、痛みが伴う。
その痛みに耐え、新しい自分を受け入れるか…痛みを拒絶し、元の自分を保とうとするか…
我々は選択しなければならない。その決断の時は、恐らく、近いのだろう。
「先生」
黙考していた自分に話しかけたのは、先程の妹だ。
「ん、なんだ?まだ帰ってなかったのか」
兄の少年は帰り仕度をしている。相変わらずブツブツと言っているが。
「もう帰るね。先生、また明日!」
「ああ、また明日な。気をつけて帰るんだぞ。」
「あ、先生、あのね」
妹は背伸びし、口に手を当てる。何か内緒話をしたいようだ。
屈んで耳を近付けてあげる。妹は私の耳に口を寄せ、小声で囁いた。
「先生、ちょっと、ダイエットしたほうがいいカモ…」
「 」
思わず絶句する。
妹は申し訳なさそうな表情を浮かべ、兄の手を引いて、タッタッタッと駆け去っていったのだった。
「なん……だと……」
明らかに油断であった。
新しく人里に出来た喫茶店に通いすぎたのだ。
しかし、生徒にまで心配される程、とは…
安寧を貪り変化に身を委ねるか、痛みに耐えて元の自分を保とうとするか…
そんな二択もありえるのだ、と私は今まさに思い知らされたのだった。
ああ、今晩から減量だ…
【用語解説】
上白沢慧音 (かみしらさわ・けいね)
歴史を食べる程度の能力・歴史を創る程度の能力
半獣半人のワーハクタク。満月の夜に変身する。
人間と親しく、数年前から寺子屋を運営している。
年齢は不詳だが数百年の歴史を持つ幻想郷でも古参の部類に入る。らしい。
兄
右手・右目が疼く程度の能力
人里の少年。深刻な厨2病患者。
『組織』に能力を狙われていると本人は語るが、真実は定かではない。
妹
困難に屈しない程度の能力
人里の少女。頼りない兄の面倒を見る宿命を持つ。
幼くして苦労人。精神年齢はわりと高い。
幻想郷 (げんそうきょう)
この物語の舞台となる土地。
妖怪や妖精、神、人間、宇宙人などが同居する不思議な土地。
かなり広い。山と谷、川と湖があるが、海はない。
「外の世界」とは二重の結界で隔離され、通常の手段では出入りできない。
大妖・八雲紫が放置気味に管理している。
幻想入り (げんそういり)
外の世界の物や人間、妖怪などが幻想郷に入る事。
「神隠し」とも呼ばれる。
「外の世界」で忘れられた物、人、出来事などが、幻想郷の結界の効果により時折幻想郷に流れ込んでくる。
それ以外でも、結界の一時的な綻び、神事、特殊な自然現象などにより何かが迷う込む事がある。